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乱に咲く花 35 晋作の死闘

文聞亭笑一

ついに薩長連合がなりました。坂本龍馬の歴史的功績と言えば、この連合の仲立ちをしたことと、「船中八策」といわれる新日本の青写真を提示したことが有名です。何れも発案者は龍馬ではありませんが、そのアイディアを実現させてしまった行動力が凄いですね。アイディアだけなら誰しも思いつきますが、それを実現するのは至難の業です。

最近は知的財産権とかで、アイディアだけの権利も認めるようですが、実現してこそ値打ちがあります。「知っていることと、できることは違う」のも同じことで、実行してこそ価値があります。ちなみに薩長連合の発案者は土佐浪人の中岡慎太郎、船中八策の発案者は勝海舟でした。

勝は大政奉還も随分と早い時期から提案しています。彼の頭の中には「日本国」があって、幕府には全く未練がなかったようです。…というより、幕府体制が続いては、日本が列強の植民地にされるという危機感が強かったようです。

当時の幕府ですが、派閥争いが相当ひどかったようですね。一応、主流派というか、政権を担っているのは徳川慶喜ですが、その親派は会津と桑名だけです。一会桑政権などとも呼ばれますが、幕府の中では浮いた存在でした。江戸城を支配していたのは板倉周防、諏訪忠誠、小笠原長行(ながみち)などの老中ですが、彼らは慶喜を「二心殿」つまり二心ある人…として全く信用していません。

さらに幕府官僚機構があります。 大目付、若年寄と言った旗本連中ですが、彼らはフランスと組んで薩摩・イギリス連合に対抗しようとしていました。そして、勝海舟や大久保一翁のようなリベラル派がいます。バラバラ・・・というより政府の態をなしていません。

この状態で「長州征伐」をやろうというのですから無理です。蟷螂之(とうろうの)斧(おの)です

幕府軍は公称15万人の大軍勢ですが、やる気満々だったのは会津藩と新選組くらいなもので、召集された32藩の兵士たちは「死んだら犬死」と、逃げることばかり考えていましたね。

しかも、やる気満々の会津藩は禁裏警護で前線に出ないのですから、長州に向かう軍勢は腰の引けた者たちばかりです。長州征伐は15万の軍勢が6千の軍勢に敗けた戦争でした。

幕府が長州に向かって事実上開戦したのは、6月7日朝からである。幕府艦隊の一艦がにわかに長州沖の周防大島の沖に現れ、しきりに遊弋(ゆうよく)しつつ海浜の町や村に艦砲射撃を続けた。

この戦争を幕府側は「長州大討ち入り」といい、長州では「四境戦争」という。

こういう名称が当時つけられたのか、明治になってから付けられたのか、よくわかりませんが、幕府の呼び方には失笑を禁じ得ません。このネーミングは赤穂浪士以来ですよ。

この「討ち入り」には幕府の軍艦5隻が参加しています。富士山丸、翔鶴丸、長崎丸、八雲丸、旭日丸と、いずれも長州の持つ軍艦よりも大型で新鋭艦です。かつて米英仏蘭4か国連合艦隊が下関を攻撃して、砲台を完膚なきまでにやっつけた時の陣容と同じです。

長州藩の大島守備隊が対抗できる相手ではありません。陸兵も上陸して、瞬く間に大島は占拠されてしまいました。この幕府陸軍がひどかったですね。略奪、強姦、放火などのやりたい放題、軍規も何もあったものではなかったようです。それもその筈で、幕府洋式陸軍というのは江戸のあぶれ者、ならず者を集めて、軍服を着せて、鉄砲を担がせただけのにわか仕立てで犯罪常習犯の寄せ集めのようなものでした。注意した士官が殴り倒されるという事件も起こしたようです。

更に不思議なのは、5隻の艦隊に与えられた命令が「周防大島を占拠せよ」だけだったことです。その後のことは指示されていません。ですから幕府最強の戦力は、大島の沖で錨をおろし、休息していました。仕事は終わってしまったのです。仕事が終わりましたから…汽缶の火を落としてしまいました。それだけではありません。砲弾も、船倉の火薬庫に収納してしまいました。戦争に来ている…という雰囲気ではありませんね。軍事演習の気分だったのでしょう。

これが高杉晋作の奇襲を呼びます。成功させてしまいます。

安保法制の審議でも、野党議員の質問を聞いていると自衛隊を幕府海軍のようにしたいんじゃないのか…と思ったりします。「これだけやれ」と範囲を縛り、変化対応ができなくしようとしています。「切れ目のない安全保障」大事ですよ。罐の火を落としてはいけません。

晋作は「軍艦で夜襲をやる」という。

軍艦の夜襲とか、夜戦とかいうものはこの時代のヨーロッパにその思想はなく、いかに航海と操船の名人であってもそれは不可能に近いとされていた。ましてや晋作は船に乗ったことはあっても海軍にはずぶの素人であり、機関長の田中顕助は罐(かま)を始めて焚いたという土佐浪士であり、砲術長の山田市之充も陸軍砲を知っているにすぎない。

長州海軍は小田村伊之助の兄・松島剛蔵が指揮していましたが、椋梨政権の時に処刑されて、その後は指揮官が居ません。船を動かすことは、瀬戸内海軍の末裔たちですから何とかなりますが、海戦については素人ばっかりです。

が、……だからこそ、高杉晋作の奇想天外な作戦ができたのかもしれません。

晋作が指揮する丙寅丸は明るい間は島影に隠れながら幕府艦隊が投錨している大島の久賀沖に近づきます。海の忍者という感じでしょうか。夜更けて、幕府の軍艦は眠りに入っています。不用心なことに窓には煌々と明かりを付けたままです。攻撃してくださいと言わんばかりですね。

丙寅丸の活躍ぶりは司馬遼の表現が良いでしょう。

「突入」と、晋作は命じた。丙寅丸は全速力で突撃した。

同時に砲門を開き、射撃し、間断なく撃ちつつ、各艦の間をくるくると縫い、ちょうど水面に舞うミズスマシのように機敏に動き回った。なにしろ目の前の壁を撃つような近さであり、砲弾はことごとく命中し、命中する度に艦上や舷側を破壊して火柱が上がり、更にそれだけでなく、丙寅丸の連中は甲板上から小銃を撃ちまくった。

幕府の軍艦も慌てたでしょうね。富士山丸などは鋼鉄製の最新鋭の巨艦ですが、至近距離から艦橋などを狙われたらひとたまりもありません。木造船は舷側に大穴を開けられてしまいます。いくら射撃が下手でも数十mの距離なら百発百中です。

汽缶に火を入れて蒸気圧が上がるまでに30分は掛かります。大型船ならもっとかかります。身動きできず、相手は動き回るのですから手の施しようがありません。火薬庫から砲弾を運び出して、装填して、反撃を始めますがメ〇ラ撃ちに近いですから同士討ちになります。

丙寅丸が引き上げた後、広島まで退却した艦隊が調べたところ丙寅丸にやられた砲撃傷よりも同士討ち(流れ弾)での損傷の方が大きかったとか…。そうかもしれませんね。丙寅丸の砲よりも幕府艦隊の砲弾の方が、威力があるのです。

「次は小倉だ」晋作は肩で息をつきながら宣言した。この勢いに、一同、霰(あられ)に打たれたようであった。晋作は幕府の根拠地である小倉城を攻め落とすことによって、その短い生涯を急ぎ充実させ、墨(ぼく)潤(じゅん)の豊かな終止符を小倉において打ちたいと思っていたようであった。

勢い…と言うものは、人の動きを活性化させます。科学的に、理論的に証明したものは見聞きしたことがありませんが、ムードとか、空気とか言われるものと同じで、理屈抜きに人を動かします。何度も紹介しますから耳に蛸、目に鱗ができてしまった方もおありでしょうが

事をなすは人にあり 人を動かすは勢いにあり 勢いを作るはまた人にあり

という勝海舟の言葉を思い出させます。私の現役時代は、まさに「いかにして勢いを作るか」で過ごしたようなものでした。政治家やマスコミの皆さんなどは同様に、そればかり考えているのが仕事でしょうね。何年か前の民主党政権はまさにそれでした。政策ではありませんでしたね。「政権交代」という幻想に酔いました。まさに・・・勢いでした。

この勢いが山県狂介率いる奇兵隊に伝播し、関門海峡を越えて小倉に迫ります。兵力は比較になりません。小倉には小倉藩だけでなく熊本藩など九州の万余の幕府軍が控え、武器弾薬も十分です。しかも、征長軍総督・小笠原長行が指揮を執っています。誰が見ても…勝ち目のない戦ですが・・・ここでも周防大島の海戦のような奇跡が起きます。

「兵力VS勢い」の対決が一進一退の最中、幕府指揮官・小笠原長行が富士山丸に乗って逃げ出してしまいました。「なんだよぅ、やっちゃぁいられねぇ」という感じで、熊本藩は戦線を離脱します。それを見て他藩も兵を引き上げます。小倉藩も山の中に逃げ込みます。長州が勝ったというよりは幕府が勝手に負けたんですね。

私情を差し挟みますが…私はこの小笠原という家というか、家風、歴史が好きではありません。小笠原家は鎌倉以来の名家で、室町時代には日本的作法の体系を作った家柄です。室町幕府から戦国時代は、信濃守護として松本の林城に根拠を置き、信濃の国一帯を支配していました。

が、武田信玄が侵攻してくるや、一戦して敗けると(桔梗ヶ原の戦)前線に部下を置き去りにして、北信濃の村上を頼り逃げてしまいます。村上が劣勢になると、上杉謙信を頼って越後に逃げます。私の先祖は前線に置き去りにされた武将の一人です。殿軍(しんがり)を務めて多くの犠牲を出したと…系図に恨みごとが書いてありました。まぁ、それがあってでしょうね。信玄に見いだされ、川中島では活躍したともありました。

先祖譲りの逃げ足の速さは、長行にも受け継がれていたんですね。

小笠原嫌いが高じて、作法嫌いになりました。田舎者、信州の山猿を売り物にして、やりたい放題やってきました。私がアメリカ好きなのは、あの不作法さです(笑)

余談が過ぎて紙面が無くなってしまいました。15万が6千に敗けた理由は

まず、幕府の意思疎通の悪さですね。方針不徹底というか、統率力のなさです。

次に、金がなかったことです。金も出さずに働け、死ね、といわれてもねぇ…

決定的なことは幕府への信用がなかったことでしょう。「幕府って誰?」という組織崩壊です。

派閥争いを起したら官民にかかわらず、いや家庭も、組織は死にます。お気を付けください。