次郎坊伝 36 職人集団

文聞亭笑一

「女城主直虎」を見ながら、なぜか北のデブ・金正恩のことを思い重ねたりしてしまいました。

あの人は戦国気分の中にいるのではなかろうか。それに引きかえ我々は文化文明が進みすぎて彼らの想いが理解できていないのではないか?・・・などと、反省・・・ではなく、我が国の歴史を振り返ってみたりしました。

彼らは、我々の常識では理解できない世界に浮遊しているように見えます。日本人が70年前に卒業した戦時体制、武力による支配、上意下達による人民統制をかたくななまでに「正」とし、国際社会の常識・・・つまり人権、自由などを「野蛮」と切り捨てているのかもしれません。

家康が作った江戸幕府は、まさにそれでした。そしてその後に続いた明治新政府、昭和軍部も同様な支配体制を継続してきました。武力至上主義とでも名付けましょうか。ならば水爆も、ミサイルも最新鋭、最強の武力です。水爆を一発、ソウル、ニューヨーク、東京、北京、モスクワのどこかに放り込めば世界は大混乱を起こします。当然、報復攻撃を受けますがタリバンだって、ISだって、執拗に生き残っています。「人権」が足かせになって無差別報復はできないのが先進国を標榜する世界文明・主流派の弱みなのです。

士農工商

士農工商という身分制度は、家康が江戸幕府を開いてから制度化された・・・と、昔の中学社会科で習いました。が、身分制度は卑弥呼の時代からこの国に存在しています。そのルーツは中国にありますが、日本に伝わってから日本的事情を加味して複雑に変化してきました。

卑弥呼が数十人の「生(せい)口(こう)」を魏の皇帝に献上した・・・と、魏志倭人伝は記録しています。生口とは奴隷です。一般人と奴隷…そういう身分制度はこの頃からありました。

聖徳太子は「和を以て貴しとなす」と17条憲法の第一条に記しましたが、誰と誰が「和を以て」なのか…曖昧です。日本国内の異民族(異なった文化)間のことだと思いますが、当時の「臣(おみ)」「連(むらじ)」などの呼称は現在の部長、課長とは全く違うニュアンスだと思います。むしろ江戸時代の親藩、譜代、外様という差別と似ていたでしょうね。

ちょっと次郎坊の物語から脱線しました。

龍雲丸の一党が「ならずもの」という感じで登場しています。彼らは何者でしょうか。

戦国期から江戸時代にかけて、日本人の職業分布は8割が農民です。農民のうち力のあるものが集落を束ねます。彼らのことを地侍、土豪などと云います。江戸期の名主、庄屋のような存在です。現代でいえば町内会長、地方では区長ですかね。その地侍を武力で支配するか、あるいは経済力でまとめるかして地頭という役割ができます。これは幕府・中央政権の認可が必要でしたが、戦国期は国主という戦国大名が勝手に許認可権を簒奪して好き勝手をしていました。今川氏真が直虎の地頭職を奪ったのもその一例です。

いずれにせよ「士・サムライ」という専業軍人(兼)役人はごくわずかで、いざ戦争となったら農民が武器を持って馳せ参じるというのが基本です。井伊谷三人衆の近藤、菅沼、鈴木も根は農民です。土佐・長曾我部家の一領具足などはその典型例でしょうね。

しかし、農民だけでは経済は回りません。村単位での自給自足が原則ではありますが、流通がなければ経済は発展しません。そのための商人がいます。さらに物流業者が不可欠です。そして農機具を始め、衣食住を賄う職人がいなくては人々の生活は維持できません。

戦国時代は、商工業者の多くは農民の副業でしたが、徐々に専業化していきます。特に農家の次男坊、三男坊以下は手に職をつけて専業化していきます。

龍雲丸の一党は、こういう職人集団でしょうね。彼らは城作り、川普請などの大型プロジェクトで召集され、それが組織化されて大きな集団になり、仕事のあるところへと移動していきます。現在の土木建設業の飯場のような感じで、各所にたむろしていたのでしょう。

龍雲丸は架空の人物でしょうが、木曽川の川筋でこういう仕事をしていたのが蜂須賀小六、前野将右衛門といった秀吉の傘下に入った集団で、「野武士」などと呼ばれます。野武士という呼称は江戸期に入ってから使われた言葉のようで、戦国期は「川筋衆」と呼ばれていたようです。

蜂須賀などは木曽川を根城にしていましたが、家康の臣下では三河・矢作川の川筋衆として、鳥居党がそれに当たります。家康の臣下では鳥居元忠などです。

川筋衆の基本は河川を使った物流業ですが、当然、一次産品を加工して付加価値をつけます。士農工商でいえば「工」の部分を担当します。戦国期は南蛮貿易でもたらされた新技術が彼らの手で国産化されて、高度成長をした時代ですから相当な数の工人・川筋・野武士・渡り者と呼ばれる職人集団がいたと思われます。有名なのは近江の穴太衆ですよね。石垣積みの高度な技術を持ち、全国の城の石垣や河川の堤防づくりに活躍しています。秀吉が木曽川の墨俣一夜城を手始めに、備中高松城の水攻めや、小田原攻めの石垣山一夜城などを短期間で成し遂げたのはこういう職人集団を配下に大勢抱えていたからです。彼らの習性、性向を知りぬいていた蜂須賀以下の川筋衆がいたればこその離れ業だったと思います。

秀吉だけではなく、こういう工兵部隊を巧みに使ったのが武田信玄です。黒鍬組という集団がそれに当たりますが、武田滅亡後は徳川に召し抱えられ、そして、井伊直政の配下に付きます。江戸期に井伊家が譜代としては別格の30万石以上の大藩になりますが、もしかするとこういう工兵部隊を養うための費用であったかもしれません。

侍・・・専業軍人を初めて採用したのは織田信長です。さらに官僚機構なども分業にしていますが、多分にヨーロッパからの影響を受けてのことだと思われます。織田信長こそ現代日本人に多い「西洋かぶれ」の第一号であったと思いますね。信長が目指したのは自分が西洋の皇帝同然になることですから、実に革命的でした。それもあって、公家を中心とした保守勢力が明智光秀を抱きこみ信長を暗殺したのが本能寺の変でしょう。

話が先に進みすぎました。まだ永禄12年(1569)で、本能寺まで10年あります。

前回の放送で面白かったのは今川氏真の述懐でした。

「戦でなく蹴鞠で決着を付ければよい」「蹴鞠の名手を奪い合ってまた戦か」

オリンピックも、ワールドカップ・サッカーも、氏真の提案と似た性質がありますが、これで政治問題に片がつくはずがありませんね。一時期の共産圏ではこれに似た発想だったのか、違法薬物まで使った肉体改造をして、国威掲揚を計りました。スポーツのルールも政治力で自分有利に変えることがしばしばあります。所詮は欲と欲、我侭と我侭のぶつかり合いですから、いつの世になっても争い事は絶えないでしょう。

それにしても・・・北のデブにも困ったものです。