八重の桜 35 八つ当たり

文聞亭笑一

明治という時代は価値観が大転換した時代ですが、その武器となったのは学問でした。政府も、産業界も、西欧の先進文化を求めます。250年にわたる鎖国で、日本の科学技術は欧米にすっかり後れを取り、このままの状況では列強の侵略を受けるという危機感が、国民全体に共有された時代でした。

「末は博士か大臣か」という言葉が一般に使われるようになったのは、八重の時代より後のことでしょうが、学問さえ身に付ければ、士農工商の壁を越えて、いかようにも人生を開拓できるという期待感が、国民を学問に駆り立てていました。これは一種の熱気のようなものです。ブームですね。「ともかく追いつかねばならぬ」政府も産業界も目標は欧米文化の吸収という一点に収斂されます。従って、学校の設立される場所は外国人居留地の傍が最適です。福沢諭吉の慶應義塾も、東京築地の外国人居留地に接するような場所で始まっています。この辺りはまさに文教地域というか、明治の学校跡が軒を連ねています。大川沿いの、現在慈恵医大のあるあたりです。

この現象は現代も変わりません。一時期の中国がそうでしたし、現在のASEAN諸国がまさにその時期にあります。新しい技術の習得のために、語学を学ぶ学生が多いのも、共通する特徴でしょうね。まずは言葉がわからなくては前に進みません。

その意味で、日本の国力の低下と、学力の低下が、相互比例して進行しているのは気がかりです。受験教育が主流になり、本来の学ぶ姿勢が薄らいできてしまいました。大学入試が学問のゴールのような雰囲気で、「大学は青春を謳歌して遊ぶところ」と言った雰囲気です。(笑)昨今の就職難は「大学は出たけれど」という言葉がぴったりで、教育と求人のアンマッチが、ますます進行してきています。

即戦力を求めるという、企業側の姿勢も問題ですね。企業が求めるべきは優秀な素材であって、即戦力などという手抜きでは役に立つ人材は得られません。企業は人なり…言い古された言葉ですが、人材が人財となってこそ成り立つ言葉だと思います。

ついでですから「じんざい」に関するお笑い種を紹介しておきましょう。

新入社員はみんな「人材」です。材料です。それが仕事を覚え、活躍するようになれば「人財」ですが、その人がいることで仕事がうまく回らなくなると「人罪」になってしまいます。また、いるだけで仕事をしなければ「人在」です。人罪も人在もリストラ候補になってしまいますから気を付けなくてはいけませんね。

142、西洋の学問、大いに結構。じゃが、耶蘇教を教えるなら許可は出せん。

京都で坊主を敵に回しては、府政が立ち行かん。

文化には、多かれ少なかれ宗教の香りが乗ってきます。日本は無宗教だなどと言いますが、無宗教ではなく多神教で、「なんでもあり」という宗教(?)なのです。ここのところをよく間違えます。無宗教ならば、どれかの宗派の色にも染まりますが、多神教だから「なんでもあり」と、みんな受け入れてしまうのです。染まることがありません。混ぜてしまいます。まぜこぜの中で、良い所取りをします。

クリスチャンや回教徒から見たら、仏壇と、神棚が並んで飾ってあるなどという風景は信じられないでしょうね。しかし、それが日本的宗教心で、八百万教と言います。生まれてきたらお宮参り、死ぬときはお寺で葬式、正月は初詣、お盆はお墓参り…、お伊勢さまでもお稲荷様でも、浄土宗でも禅宗でも、なんでもいいのです。

キリスト教に抵抗を感じるのは、それが一神教であるからです。排他的宗教だからです。同様に、回教にはもっと違和感を覚えます。食文化を制限する戒律になじめないのです。ともかく…当時の京都仏教界にとって、キリスト教は悪魔の訓えですね。拒否して当然ですから、新島襄の神学校計画は妥協に妥協を要求されます。

京都の仏教会がキリスト教に悪意をむき出しにしたのは、当時政府によって進められていた廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)運動の影響だったと思います。これは、天皇の価値を上げるため神道のみを国家宗教と認定し、神仏習合の寺院を廃寺にしてしまうという政策でした。さらに、江戸期まで特権として保護されてきた寺領がすべて召し上げになります。京都には各宗派の本山が集中していますから、地方からの陳情も多く、各派の大僧正などは頭を抱えていたでしょうね。とりわけひどかったのは薩摩や奈良です。薩摩では1600以上の寺が廃寺にされています。現存する興福寺の五重塔などもわずか25円で薪として売り出されました。

「新政府がこのような暴挙をするのは、裏で、諸外国が信奉する耶蘇教が糸を曳いているに違いない」…こう考えても不思議ではありません。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」などと言いますが、「政府憎けりゃキリストまで憎い」というところですね。

143、「皆、命がけだった。………時尾に一度見せたくて、連れてきた。俺たちが会津と出会い、共に戦った場所を。良い所も、嫌な思い出しかないところも」
斎藤は照れたように笑い、杯を空ける。襄は斎藤に大切なことを教えられた気がした。人は過去から逃げることはできない。受け入れるしかないのだ、と。

新選組隊士・斎藤一が八重の幼馴染の亭主になって京都を訪れます。斎藤にとっては、まさに青春を賭けて過ごした場所ですね。映画の題名は忘れましたが、藤沢周平原作、山田太一監督の映画でも、ニヒルな殺し屋として登場しますね。

過去というのは記憶です。記憶を写真や文字にしたのが記録です。そして、形に残った物が遺跡です。さらに、これらを総合して編集したものが歴史ですが、歴史は書き手によっていかようにも変化します。取り上げた情報で、いかようにも変わった歴史が書けます。維新物と戦国物に歴史小説が多いのは、活躍した人の数が圧倒的に多いからですね。立場、立場で、同じ事実でも違った受け止め方になります。

その意味で、中国や韓国の要求する歴史認識の問題などは、只の言いがかりにすぎないと思いますよ。彼らは、要するに、領土を広げたい、自国の海域を広げたいだけの話なのです。言語による侵略行為と言ってもいいかもしれません。さらに靖国問題など、信教と言論の自由が制限されている国が、他国に文句を言える立場ではないのです。

144、不意に「永遠」という言葉が八重の脳裏に浮かんだ。人は生き、死んでいく。
けれど三郎も権八も、そして尚之助も、自分の中に生き続ける。それは自分にとって永遠ということではないか。

「記憶や記録に残る限り人は死ぬことはない」などとも言いますが、人が物理的生命体として生を終えても、誰かの記憶の中で生き続けます。記録という媒体の中で生き続けます。勿論、あるがままに受け継がれる部分もありますし、美化されたり、歪曲されて悪役になって生き続けることもありますから、良い、悪い、好き、嫌いの議論はありますね。とりわけ記録媒体に思想の色がついて残ると、本人とは別人格の残り方をします。

一時期、自分史を書くということがブームになりましたが、残したものをだれが読んでくれるのか、読んでどう受け取るかなど課題も見えてきて、最近はあまり話題になりません。200ページ、200冊、200万円などという相場も課題の一つでしょう。

後の話になりますが、山本・新島八重は徳富蘆花の「不如帰」の中に意地悪な義母の役で登場したりします。同志社で学んだ徳富兄弟には「鵺のような女」と映ったのですから仕方ありません。他人がどう思うか…そんなことを気にしていたら、何もできませんよね。

勝海舟の言う通り「行蔵は我にあり。評判は人の勝手」と割り切るのが正しい生き方でしょう。カラオケの上手い下手も同じことです。歌っている本人が楽しければそれでよし、巧い下手と評価したい奴にはさせておけばよいと、我々のカラオケ仲間は蛮声を張り上げております。機械の採点ですか? そんな機能はOffにします(笑)

145、八重は顔を上げた。襄の明るい目が八重をのぞき込むように見つめている。この一途さと明るさの中で生きていきたいと願っている自分に、気が付いた。八重の顔に微笑みがゆっくり広がった。八重が「はい」と頷く。

結婚には親の許しがいる、とりわけ、お目見え以上の武士の場合は殿様の許可がいる、というのが江戸時代の結婚でした。八重と尚之助の婚姻の戸籍が、会津藩に残っていないという事実は、二人の結婚が藩庁には認められていなかったということで、幕末のドサクサで事務処理もできていなかったという会津藩の混乱ぶりを伝えます。

新島襄と八重は「プロポーズ、そして受諾というプロセスの日本初のケース」と言われるのは、こういうプロセスが公になった最初の例ということですね。それまでになかったわけではなく、「野合」などと言われて、認められていなかったということにすぎません。

「野合」という言葉は、最近は政治用語として使われることが増えましたが、本来は男と女の関係を表現していたようですよ。