水の如く 35 権力者

文聞亭笑一

官兵衛たち先遣隊が九州の各地を転戦している間に実現した「家康上洛・臣従」という快挙は秀吉を有頂天にさせました。秀吉にとって信長は、絶対的な尊敬と畏怖の対象でしたが、家康を臣従させることで越中の佐々成政も臣従せざるを得なくなり、信長の版図を完全に引き継いだことになります。さらに、中国の毛利、四国の長曾我部を配下に加えましたから、完全に信長を凌駕しました。官位、官職もさることながら、彼の知る限り最高の権力を手に入れて、自分の政治力に絶対的な自信を持ち始めます。

これが、実は、最も危険な兆候で、その後の豊臣政権の迷走ぶりに繋がっていくのですが、九州攻めの時点では島津、関東の北条、奥羽の伊達といった抵抗勢力が残っていますから暴走には至りません。さらには徳川、前田、上杉、織田信雄それに毛利という「遠慮すべき勢力」が控えていますから、慎重さも必要でした。

さらに目障りなのが黒田官兵衛です。誰が見ても、中国大返し以後の秀吉を支えたのは黒田官兵衛で、官兵衛がいなかったら今日の秀吉があったかどうか疑問です。秀吉の配下はもとより、外様として新たに加わった大名たちでもこのことは衆目の一致する事実です。それだけに…威張りたい、はしゃぎたい秀吉にとって…官兵衛は煙たいのです。

企業などでも良くある話ですが、創業時に活躍した古参社員が邪魔になってくることがままありますねぇ。実力があればあるほど、社員に人気が高ければ高いほど…目障りです。排除するわけにもいかず、かといって重用したら政権を乗っ取られそうで心配になります。

内閣改造だと言っていますが、安倍さんと石破さんの関係もどうなんでしょうか。

137、官兵衛は、自分が一臂(いっぴ)の力を尽くして作ったはずの政権が、いざ出来上がってみると石田三成ら奉行たちの手に握られてしまっていることに失望した。
彼は九州を転戦中<この地に領地をもらい、勢力を培養し、しばらく形勢を観、もし天運がめぐってこなかったらすなわち休むということで暮らす方が、自分のような男にはふさわしいのではないか>と、しきりに思い、自分とは無縁なこの九州の地に身を託そうと考えた。

「こんなはずではなかった」というのが官兵衛の気持ちだったでしょうね。やたらに権力を振り回し、身を飾ろうとする秀吉に失望していきます。

着実に経済力を付けて民力を上げ、じっくりと政治力で東国の徳川、北条、伊達を圧倒し、靡かせていくという官兵衛の目論見に対して、秀吉は功を急ぎすぎます。派手な宣伝活動に財力を浪費します。生き方の差というのか、社会観の差というのか、そう言う点で、失望とまではいきませんが心の中に空洞ができ始めました。前号でも触れたとおり、クリスチャンの洗礼を受ける気になったのがその表れでしょう。

石田三成など奉行派と言われる秀吉のとり巻きの面々との確執もあります。軍事の側面では、現場を知らず口出しをする三成にイライラし、重要政策に関して相談してくれない秀吉にも苛立ちます。とりわけ検地という税制改革に関しては三成の推進している姑息な増税策に反対なのです。

奉行派の推進した検地についてですが、何が姑息かと言えばモノサシを変えたことです。古来より使っていた尺度「一間」の長さはメートル法で言えば2m弱でしたが…、これを一間=182cmにしました。約一割短くしたのです。この寸法で測ると面積では二乗倍で効いてきます。一坪4㎡だったものが3.3㎡になります。従来の一坪が1.2坪に膨らみます。米のとれる耕地面積は変わらないのに1.2倍の税金を取られるわけですから農民はたまったものではありません。

「戦争を終わらせて庶民の生活を豊かに…」という官兵衛の理想には遠くなります。

138、秀吉は6月8日に筑前筥崎において、九州役の恩賞沙汰を行った。主だったところを上げると、島津に本領安堵をしたほか、小早川隆景には筑前一国に加えて筑後、肥前の各二郡、佐々成政には肥後一国、そして官兵衛には豊前6郡12万石が与えられた。秀吉の天下取りに大功があった軍師は、山崎合戦後5年目にしてようやく…、中の下クラスの大名に取り立てられたわけである。

黒田家が大名らしくなったのはこれが最初と見たらいいでしょう。従来の播州山崎の地は「村長」程度の扱いでしたが、ようやくにして「市長」並みの扱いになりました。九州陣で働いた黒田の軍勢は4000人ほどでしたが、その殆どは一時雇の臨時社員です。

彼らを正社員にするには12万石では足りません。それもあって、黒田家中は不満を持つものが多かったのですが、官兵衛は不満を押さえつけます。

官兵衛にしてみれば、兵卒は戦の時だけ金で雇えばよい。それよりも大切なのは現場指揮官(将校)で、優秀な将校を育成するには少数精鋭の方が良いと考えていました。人数が多すぎては指導が行き渡らないからです。後に黒田24騎と言われる面々が揃いますが、いずれも経験豊富な指揮官ぞろいです。

問題はいざという時の為の蓄財でしたが、質素倹約が家風でしたから冗費は徹底的に節約します。さらに、商売の才がありますから堺や京の商人と結んで、商業利益の確保に注力していたものと思われます。

こういう行き方も…派手好きな秀吉には目障りだったでしょうね。秀吉の金権主義に対する抵抗と受け取られたのかもしれません。

139、秀吉は当初、筑前一国を吉川元春に与えると内約していたにもかかわらず、土壇場で反古(ほご)にした。この措置は表向き元春の嫡男元長が父の後を追うかのように日向の陣中で急病死したことを理由にしていた。
だが、そもそも元春を強引に戦陣に駆り出し、筑前一国を与える約束をしていたのは秀吉本人である。

吉川家は不運でした。隠居していた元春が無理やり引っ張り出されて病気を悪化させ、陣中で没します。さらに、家督を継いでいた長男の元長まで陣中の無理が祟って死んでしまいます。吉川家では急遽、3男の経(つね)言(こと)…後の広家を立てて後継者にしようとしますが、これも秀吉にはなかなか認めてもらえず、ただ働きをさせられた形になりました。

秀吉が吉川元春を無理やり引っ張り出した理由はですが、「意趣返しであろう」というのが多くの歴史家、小説家の一致した見解です。秀吉は二度、吉川元春に危ない目に遭わされています。一つは中国大返しの時の「追撃の恐怖」で、もう一つは鳥取攻めの時に対峙し、秀吉は「敵わぬ」と逃げ出しています。つまり「恥をかかされた」という思いが強く残っていたようです。

その相手が死んで、「してやったり」という感情が働き、ついでに吉川家の廃絶まで画策しようとしましたが、小早川隆景、黒田官兵衛のとりなしというか、睨みが効いて…そこまではできませんでしたね。

後の関ヶ原の戦で毛利輝元、吉川広家、小早川秀秋は三成の西軍に参加しますが、戦闘に参加しないどころか、小早川は東軍に寝返って三成敗戦の決定打になります。その工作をしたのが官兵衛の息子・長政と吉川広家でした。九州での怨恨が、関ヶ原の仕返しになりました。意趣返し…やらぬが花ですねぇ。

140、キリシタン禁令

九州でのもう一つの事件は、秀吉がキリシタン禁令を発したことです。

これは秀吉軍が筑後から肥前にかかる頃に起きた事件がきっかけでした。秀吉の九州征伐の軍勢は37か国25万人と言われますが、九州の東海岸は弟の秀長を大将に吉川、黒田などの軍勢を中心に15万人で南下します。秀吉本隊は10万人を従えて筑後川を下り、肥前、肥後から西海岸を下ります。こちらは目立った戦闘もなく、物見遊山のようなというか、軍事パレードのような行軍です。各地で降伏した大名たちの歓迎を受けて、中央政権の軍隊の華々しさを民衆に見せつける旅でした。そう…信長が武田勝頼を征伐した時の真似です。

が、事件というのは肥前から肥後にかかる辺りで起きました。大勢のキリシタンも行列の見物に来ていましたが、そこにキリシタンの司祭が現れました。キリシタンたちは秀吉の軍勢を歓迎していたのですが、司祭を見ると軍勢に背を向けて司祭の方に集まってしまったのです。これを見つけた秀吉の側近が「けしからん」といきり立ち、秀吉に事実を誇張して報告します。曰く「キリシタンどもは太閤殿下よりも彼らの指導者の命令を聞く。これは殿下に対する謀反である」と。

有頂天だった秀吉が烈火のごとく怒り、禁令にまでエスカレートしてしまいました。

側近とは誰か?「三成だ」ということになっていますが…違うと思いますね。