乱に咲く花 36 将軍逝去

文聞亭笑一

さて、これからしばらくネタ本が切れて、混迷状態に入ります。わずか数秒間の予告編だけが頼りですが、今週はどうやら将軍家茂が亡くなり、幕府が迷走を始める場面のようです。

この辺りからの長州藩の動き、よく分かりません。長いこと引用して来た司馬遼太郎の「世に棲む日々」も高杉晋作の死で終わっています。あちこちから資料をかき集めて続けてみようと思いますが、テレビとの連動性は薄れると思います。「9月刊行予定」というネタ本が手に入るまでの間、話の後先はご容赦ください。

さて、やる気のない幕府軍がますますやる気を失う事態になりました。

長州征伐に動員されたのは西日本を中心に30藩ばかりですが、タテマエとはいえ将軍の命令に従っています。その将軍が亡くなってしまいましたから命令は宙に浮きます。後継の将軍が決まり、その将軍が再度命令を出せば方針は継続しますが将軍が決まらないのです。

誰しも「後継者・第15代将軍は慶喜であろう」と考えますが、これに抵抗する勢力があります。それが江戸城の大奥でした。「たかが女の園ではないか」と考えがちですが、250年前に作った春日局の掟が重たく幕閣を支配します。勿論、その掟を利用して反慶喜派、守旧派が暗躍しているのですが表面には出てきません。時の老中を動かして「幼年の田安亀之助を後継に」という案を持ち出します。

この案にはそれなりの根拠がありました。家茂が江戸城にいるときに「後継者は亀之助を」と指名していたというのです。大奥での発言ですから幕閣にしても、上級役人にしても直接聞いたことはありませんが「将軍の内意である」と言われたら逆らえません。

が、長州と戦争をしていて、しかも戦局は思わしくありません。思わしくないどころか「負けた」「また負けた」と敗報ばかりが届きます。この事態を切り抜けるには大奥を無視してでも慶喜に将軍職を受けてもらうしかないのです。

その慶喜、この人の心の中は多くの歴史家、小説家も読めなかったようですが、何を考えていたのか頑として将軍職を引き受けません。将軍後見職のままです。後見職として仕事を続けるのかと思えば、「いない者の後見はできぬ」と理屈を言います。まぁ…その通りで、後見する相手がいないから、後見職は何もしないという屁理屈が通ってしまいました。

困り果てた老中の板倉勝(かつ)静(きよ)は仲裁、調停を松平春嶽に頼みます。
「なに、天皇からの勅諚があれば、あやつは請ける」と大義名分を作ろうとします。
一方の孝明天皇も、この人は大の夷人嫌いではありますが「政治は幕府がやるべきだ」という考え方の持ち主です。それもあって、妹婿である家茂の死には大いに落胆していました。
公武合体こそ天皇の希望なのです。ですから慶喜の将軍職襲名には、期待こそすれ反対はしません。幕府がしっかりしていてくれないと困るのです。     (半藤一利 維新史)

徳川家のお家騒動ですね。他の大名がこんなことをすれば即刻お取潰しを免れませんが、そこが将軍家の身勝手です。家茂が後継指名した田安亀之助は慶喜の一ツ橋家と同様な御三卿の一つですが、なにしろ幼すぎます。飾り物としても、内憂外患の中で役に立つかどうかもおぼつかない幼さです。泰平の時代ならそれも成り立ちますが、国内戦争の真っただ中にあり、諸外国は日本国の隙を虎視眈々と狙っています。以前にも書きましたがイギリスは薩長に肩入れし、フランスは幕府の支援をして、混乱がきわまれば日本国を東西に分断して侵略しようと、その機会を狙っています。そのことを…一番よく知っている筈の慶喜がゴネているのですから、歴史家にも小説家にも、その心のうちが読めないのです。

天皇の心理に関しては全くわかりません。明治新政府が天皇を神格化してしまいましたから、神様に心理などあってはいけないのです(笑)昭和天皇ですら、心のうちは秘密のベールですし、現在の天皇、皇后も人間的感情は機密事項ですね。

とはいえ、人間ですから喜怒哀楽は当然あります。家茂の死に落胆したのは事実でしょう。

妹の和宮の気持ちを想えばなおさらだったでしょうね。紆余曲折はありましたが、家茂と和宮は実に仲の良い夫婦だったようです。

連戦連敗の報告で、幕府が勝てる状況ではなかった。が、慶喜は「俺が出陣すれば勝てる」と頑張った。が、・・・出陣を控えて関西地方は猛烈な台風に襲われた。至る所大水の被害や崖崩れで進軍もままならない。慶喜がいかにいきり立っても自然現象が出陣を許さないのである。
そうこうしているうちに、慶喜は突如出陣を取りやめ、軍の解散を朝廷に願い出た。
一緒に政権を担う会津藩主、桑名藩主の猛反対にも聞く耳を持たなかった。
これには天皇も呆れたようだ。慶喜の求めに応じて出した長州征伐の勅諚は、慶喜独りの心変わりで反古にされたのである。こういうところは慶喜の人間性を疑うしかない。

話し言葉で、やや冗長な「維新史」を要約してみました。

つい数年前に、慶喜によく似た総理大臣が居ました。「五分前の男」などとその筋では言われていたようですが、国会答弁や記者会見で直前に言われたことをそのまま口にしてしまう人でした。反対派から何か言われれば「反対」と言い、賛成派から言われれば「賛成」と言い、そして、矛盾を追及されたら「学べば学ぶほどわかった」などと言う人でした。総理を辞めてからも中国に招かれれば、行って「中国は正しい」などと言う人です。こういう人を総理に選んでしまった国民は馬鹿でしたが、他に適任者がいないという当時の幕府もお粗末でしたね。

この結果、貧乏くじを引いて広島・宮島での停戦交渉に向かうのが勝海舟です。幕府も人がいないというのか、つい先日まで攘夷派を匿ったという理由で謹慎処分を食っていた勝を全権大使にします。その理由が「おまえは攘夷派の連中とも付き合いがあるから」というのですから…、場当たり的と言おうか、思い付き人事ですね。

勝は単身で広島に赴き、安芸・浅野藩の仲介で長州藩との停戦交渉を宮島で行うことにした。
長州の代表として交渉に臨んだのは広沢兵助と井上聞多である。勝は五分の条件(引き分け)で交渉に臨んだが、勝戦に自信を付けた長州藩は鼻先でせせら笑う。
仕方がないから勝は、江戸っ子丸出しの開き直りで長州の勝利を認めた条件で折り合いを付けた。これがまた、慶喜の気に入らない。再度干されることになる。

「やってられるけぇ。べらぼうめ」というのが勝海舟の気持だったでしょう。

謹慎中の江戸から「用があるから大阪にこい」と呼ばれて、行ってみると「負け戦を勝ち戦の条件で停戦にして来い」と命じられます。幕府の出した条件は

1、撤退する長州軍を追撃しない

2、戦にかかった費用に関して賠償金は取らない

と言うものですから広沢も井上も呆れたでしょうね。「何だこいつは…バカか」と思って不思議ではありません。幕府が勝ったのは周防大島を一時的に占領した時だけで、その大島ですら簡単に奪い返され、小倉に至っては老中が逃げ出してしまうほどの負け戦です。石見(山陰)口では大村益次郎の部隊にこっぴどくやられましたし、山陽道では先鋒の広島藩が攻撃すらせず必死に裏工作をするばかりでした。

「追撃しない」と言いますが、追撃されているのは幕府軍です。賠償金を要求したいのは勝っている長州藩の方でしょう。

話にならない話を、曲がりなりにもつけてきた(停戦合意)勝の交渉力は大したものですが、「俺の指示通りにしなかった。勝はやっぱり攘夷派とグルだ」と江戸に追い返されてしまいます。

このやり取りを聞いた松平春嶽は慶喜を見限ります。

「英明とは臆病のことであるらしい。慶喜は百才あって一つの胆力なし、胆力なければ百才振るえど猿芝居に等しい」と言ったとか。

これに類する総理大臣もいましたねぇ。「原子力のことは俺に任せろ」と…。

この混乱に乗じて政界復帰を目論んだ凄腕の政治家がいる。公武合体・和宮降嫁を成功させたものの、他の公家衆に睨まれ失脚していた岩倉具視だ。彼は同志の公家たちに謀って朝廷改革を奏上した。が、このたくらみは天皇によって一蹴された。

岩倉具視…明治維新、討幕運動の黒幕・参謀総長とも言われます。が、元々は公武合体を推進した張本人で、嫌がる和宮を強引に江戸に送った人です。公武一和の仕掛け人でした。

その岩倉が失脚したのは朝廷内の派閥争いというか権威主義の復活で、門閥のない、家柄の低い岩倉などは「出過ぎた行いをした」「上位職を辱めた」などと言う理由で謹慎させられていました。幕府の敗戦、将軍の逝去は復帰のチャンスです。冷や飯食いの公家たちを煽動して、朝廷改革の意見書を奏上しますが、天皇に拒否されます。

それで大人しくするようなら凄腕とは言いません。そこから…世の流れを睨んで、今度は討幕に舵をきります。薩摩、長州の志士たちを岩倉の私邸に集めて策略を授け、討幕への作戦を仕掛けます。薩摩の大久保一蔵、長州の品川弥次郎などは岩倉邸に出入りすることの多かった代表でしょうね。岩倉の司令で、薩長は討幕への準備を着々と進めます。

鳥羽伏見の戦い以降に使われた官軍の錦の御旗ですが、生地を選び、デザインしたのは岩倉具視です。それを長州に持ち帰り、デザイン通りに作り上げたのが品川弥次郎、松下村塾の生き残りの一人です。そんな縁もありますから、文、いや美和の物語に、錦の御旗の縫製場面などが出てくるかもしれませんねぇ。鳥羽伏見の戦い以降、鉄砲の弾より、大砲の弾よりも、この「旗」が威力を発揮します。諸藩は旗の威力に屈し、次々に新政府軍に参加します。