紫が光る 第33回 箒木三帖
作 文聞亭笑一
いよいよ「源氏物語」の執筆が始まりました。最初の第一帖が一条天皇に届けられます。
テレビ画像によれば・・・冊子の形態をしていましたから桐壺更衣が光源氏を産む辺りまででしょうか。
だとすれば・・・周りから虐められて苦労する桐壺更衣が定子に重なり、桐壺帝と一条自身が重なってきます。
そして生まれた皇子・光源氏が敦康親王に重なります。
一条天皇の興味をひくには、できすぎた構成ですね。それもあってか、江戸時代の本居宣長なども『「須磨の巻」が先に書かれたのではないか』という説を唱えます。
「石山寺で・・・湖を眺めながら須磨の巻から書いた」という説になります。
しかし、今回の脚本家は『紫式部が宮廷内で起きていることに関して、道長から事前に語り尽くせぬほどの情報を得ていた』・・・夜更けまで道長の話を聞いていた・・・という想定を入れていました。
そうすれば・・・一条帝の気を引く書き出しの工夫も出来ます。
一条が愛してやまない定子、彼女は公家連中の殆どから白い眼で見られ、イジメに近い状態でしたね。
『この子、光源氏がどうなっていくのか・・・』という興味は「吾が子・敦康の将来は・・・」と重なって「次を読みたい!」という誘惑にかられます。
箒木三帖の「箒木」
しかし、今回の脚本家は『紫式部が宮廷内で起きていることに関して、道長から事前に語り尽くせぬほどの情報を得ていた』・・・夜更けまで道長の話を聞いていた・・・という想定を入れていました。
そうすれば・・・一条帝の気を引く書き出しの工夫も出来ます。
一条が愛してやまない定子、彼女は公家連中の殆どから白い眼で見られ、イジメに近い状態でしたね。
『この子、光源氏がどうなっていくのか・・・』という興味は「吾が子・敦康の将来は・・・」と重なって「次を読みたい!」という誘惑にかられます。
源氏物語のはじめは桐壺の巻、箒木の巻、藤壷の巻の順に物語が展開します。
仮に・・・最初に天皇に渡された内容が「桐壺の巻」だとすれば、桐壺巻は
桐壺帝に愛される楊貴妃のような絶世の美女・更衣(下級妾)がいた
⇒帝の寵愛が偏り、上位の女御や同僚の更衣からイジメに遭う
⇒桐壺帝の皇子・光源氏を産む
⇒桐壺更衣は先輩、上司のイジメが原因で病気になり・・・死ぬ
⇒桐壺帝の嘆きは深く、ひたすら桐壺更衣を思慕する
しっかりと一条帝の心を捕らえておいて・・・「ドーン!!」と、光源氏を青春真っ只中の若者として次の巻に登場させます。
それが「箒木」の「雨夜の品定め」・・・男達の猥談のような章です。
その中に光源氏が詠んだ歌というので
箒木の 心をしらで園原の 道にあやなく惑いぬるかな
が出てきます。
「園原」が故郷・信州の名所なので・・・ちょっと脱線したくなりました。
園原 ・・・長野県 下伊那郡 阿智村 智里・・・中央道・恵那山トンネル出入り口
私の故郷・信州には「県歌」なるものがあって、小学生の必須科目?でした。
この歌が歌えないと「おまえは信州人ではない」と、余所者にされてしまいました。(笑)
信州の明治の教育者が「子どもたちに故郷の地理歴史を教えたい」という想いから作詞し、曲をつけて、女学生達に教えました。
彼女たちが全県に散らばって小学校の音楽の先生になり・・・
子どもに教わって大人も歌い、県民全体が歌うようになります。
「県歌・信濃国」の歌詞は6番まであります。
が、3番までが必須科目、覚えなくてはなりません。4番からは余録でした。
①信濃国は十州に 境またがる国にして・・・と、地域の概要を語ります
②四方に聳ゆる山々は・・・と、日本アルプスの山々や、大河の源流を歌います
③木曽の谷には・・・から、地場の名産、得意の産業などを語り
④訪ねまほしき園原や・・・と、観光案内ですね。園原を名所の真っ先に上げています。
⑤旭将軍義仲も・・・と、歴史上の人物を謳いあげ
⑥吾妻はやとし日本武・・・に続き、最後は学問のすゝめですね。その昔の教育県ですから(笑)
血統書付きの山猿・・・を自認する文聞亭ですが、園原?・・・と、訪ねたことがありません。
今回の大河が始まる前に、「舞台の一つだから・・・」と訪ねた友人の話だと、箒木になぞられたヒノキは既になく、むしろ近郊にあった満蒙開拓団からの引き揚げ者遺跡が目に付いたと云います。
檜は長生きの木ですが、紫式部の時代から既に1000年がたちます。
当時の巨木が・・・現在までは保たないでしょうね。
園原は歌枕として有名だったようで、万葉以来の名歌? 著名人の歌が残ります。
信濃路は いまの針道刈ばねに 足踏ましなむ沓履けわが背 万葉集・東歌
梢のみ あとは見えつつ箒木の もとをもとより知る人ぞなき 柿本人麻呂
園原の 山をいかでと嘆く間に 君も我身も盛り過ぎ行く 大伴家持
原は、みかの原、あしたの原、園原 (枕草子) 清少納言
箒木の 心を知らで園原の みちにあやなく惑いるかな 源氏物語 紫式部
数ならぬ 伏屋に生る名のうさに あるにもあらず消る箒木 源氏物語 紫式部
園原と 人もこそきけ箒木の なとか伏屋に生い始めけむ 大弐の三位
最後の歌の作者、大弐の三位は紫式部の娘・賢子です。親子で園原、箒木を詠んでいます。
園原の箒木は訪ねたことがありませんが、恵那山トンネルの神坂峠SAには何度も立ち寄りました。
全くの山の中です。季節によっては珍しい山菜や、希少な茸などが手に入ります。
古代の人たちがなぜこんな場所を歌枕にしたのか?
中山道の先の先は・・・異境です。
エキゾチックな・・・なんとなく桃源郷的な雰囲気を感じたのかも知れません。
現代では「星の里」とも呼ばれ、都会では観ることの出来ない満天の星を求めて観光客が集まるようです。
ところで・・・信州の佐久の語源は「柵」だとも云います。
柵・・・トランプがメキシコとの国境に作っているのと同じ意味で、柵の向こうは蝦夷の国・・・つまり、信濃までがヤマトの範囲で、その先は蝦夷、外国というのが古代人・万葉世代の感覚でしたね。
坂上田村麻呂、源義家・・・征夷大将軍が遠征して、東北地方が日本の範囲に入ったのが平安時代でした。
まひろの出仕、藤式部
出仕する・・・宮廷務めをすると言うのは「上級国家公務員に採用」でもあり、名誉でもあります。
それ以上に、まひろの家にとって嬉しかったのは弟・惟規の抜擢人事と、父の為時に公務の陽が射してきたことです。
惟規は何と3階級特進で六位蔵人に抜擢されました。
蔵人は、位階は六位ですが、天皇の直接の部下・秘書官です。
普通の公家は四位以上しか昇殿できないのに、蔵人は天皇の側近として宮中に侍ります。
殿上人に準じる・・・破格の昇進・・・と言うことになります。