水の如く 36 領国経営

文聞亭笑一

秀吉の発した伴天連追放令は、後に家光が発したキリシタン禁止令ほど強いものではありませんでしたが、それでも九州の信徒にとっては衝撃的でした。ザビエルが平戸に来て以来、営々と信者を増やしてきていたものが突然禁止されます。

先日訪ねてきた平戸にはフランシスコ・ザビエルの像があり、ザビエル教会が立っていますが、これは明治以降に再建されたものでしょう。秀吉の時期から徳川幕府に至る300年はキリシタンにとって受難の時期になります。

秀吉がキリシタンを嫌ったのは「自分以上の権威」に対する危機感によるもので、神道、仏教などとの関係からの宗教的な意味合いは薄かったと思います。

官兵衛のように表面上は棄教を装って、内心で信仰を続ける者には特別な罰を課してはいません。ですから伊達政宗にしても、細川ガラシャ夫人にしても、秀吉政権の中で信心を続けています。家康も信心とは別に南蛮貿易には興味津々で、後にウイリアムス・アダムス(三浦按針)やヤンヨース(八重洲)等を近くにはべらせて、海外貿易の顧問として使っています。

では誰が秀吉にキリシタンの害を吹き込んだか?

千利休が疑われます。彼は堺の商人の代表として秀吉政権に参加していますが、ポルトガル、イスパニアなどは堺にとっての商売敵です。そして、博多商人たちが新たなライバルとして秀吉政権に取り入ってきました。さらに堺内部でもルソン助左衛門など堺商人の主流派に対抗する新興勢力が台頭しています。いずれも海外貿易で堺の商権を荒らし回ります。堺の権益を守るには、まず、ライバルの弱みを叩きたいところですよね。宗教という異次元の所に目を付けて揺さぶりをかける……さすがに利休は政治家です。利休自身も大徳寺で禅宗の僧侶の列に連なっていますから、宗教戦争的な部分も想定されますが、仏教、特に禅宗はそれほど他宗教にはこだわりません。

もう一つ、高山右近の態度がクリスチャンにとっては裏目に出ました。あまりにも純粋な信仰に、秀吉が怖れを感じたのです。大名の地位を捨ててまで信教に殉ずる…こういう者が現れては秀吉が築き上げてきた「太閤人気」が危うくなりかねません。

141、翌年8月、肥後で在郷の地侍団が大反乱を起こした。秀吉から封ぜられた肥後の国主は佐々成政であったが、統治に失敗し、大反発を受けた。
官兵衛は秀吉から命ぜられてその鎮撫に出向いた。

秀吉の九州征伐は戦そのものよりも戦の後にいくつかの問題を残しました。

戦の前の調略戦での約束事と、戦後に発令された配置が大きく異なっていたからです。

とりわけ地侍が「面白くない」と不満が起きたのは肥後でした。肥後(熊本県)は有力な戦国大名がおらず、小規模な武士団が群雄割拠していた土地柄でしたから、本領安堵はするものの、彼らの上に国主として佐々成政を置きました。つまり、肥後の地侍は秀吉直属の大名ではなく、佐々の家来という位置づけです。これが気に入りません。

さらに、彼らの上にかぶさった佐々家は、地侍たちの自己申告による石高を信用せず、検地を始めました。しかも検地に使う尺は、石田三成の導入した新しいモノサシです。

「お前らの申告は信用ならんから監査する」「使うモノサシは今までより短い(京尺)」というのですから腹が立ちます。越中から移ったばかりで、土地不案内の佐々家の侍の目を盗んで横の連絡をし、一揆を起します。一斉蜂起ですね。とても佐々の軍だけで押さえきれるものではありませんが、佐々成政は救援要請をするのが遅れました。これが事態をより深刻にしてしまいました。

災害救助でも良くある話ですが、迅速に自衛隊に出動要請をすれば小規模で収まるものが、メンツにこだわって打ち手が遅れるケースが多々あります。原発事故も米国に支援要請すれば良いのに…メンツにこだわりましたね。

142、官兵衛の留守を狙って豊前6郡の黒田領でも土豪たちが反乱を起こした。留守居の長政がこれらと戦い、特に最大の土豪である宇都宮鎮房との戦いで惨敗を喫してしまった。豊前の地侍たちは、にわかに中央で成立した豊臣政権をいかがわしく思っているだけでなく、その政権から送り込まれてきた黒田何某という国主などに従いたくはなかった。

官兵衛が新しく赴任した豊前6郡とは京都(みやこ)、築城、中津、上毛、下毛、宇佐です。大分県の北部に当たります。古代から栄えた場所で、宇佐神宮などは八幡信仰の発祥地でもありますから、誇り高き土地柄です。とりわけ天皇家とのつながりを重んじる風土がありますから、一筋縄ではいきません。「黒田?Who?」という感じだったでしょうね。

「関白と威張るが百姓上がり…、播磨の片田舎の目薬や上がり…、そんな奴らの命令になど従えるか…」というのが黒田家を迎えた豊前の地侍だったでしょう。それに、戦の前までは本領安堵を約束していましたが、宇都宮鎮房には四国への転封が言い渡されます。これを拒否しましたから、肥後と同様に黒田家の家臣団に組み入れられることになり、大名格ではなくなってしまいました。宇都宮家の誇りが許せません。

宇都宮という家ですが、本家は栃木県の宇都宮です。その分家が鎌倉時代に豊前の地頭に任じられて、それ以来この地に根を張っています。一筋縄ではいきません。

官兵衛と栗山備後などの老練の政治家が留守をした隙に、宇都宮一族や百姓一揆に反乱を起こされ、若い長政は血気にはやって鎮圧に出ます。宇都宮鎮房の籠城する城井谷城を強攻しようとしますが、天然の要害を利したゲリラ戦に散々に打ち破られてしまいました。

143、長政は宇都宮一党を持て余し、陰惨な謀殺をやっているが、このことは官兵衛にも無縁とは言えず、この男にとって生涯の汚点と言ってよい。
しかし官兵衛は地侍を何とか慰撫した。そのため半年かかった。
官兵衛はおよそ人を殺すのを好まなかったが、しかし、新領の鎮撫は短時間にやらぬともつれる。無理もした。血を見ることも多かった。

さすがの官兵衛もこの反乱には手を焼きます。秀吉に仲介を頼み、宇都宮の娘と長政の偽装結婚を条件に和睦し、宇都宮家の本領を安堵するという虚偽の条件です。ただ、秀吉からは「自分の転封命令に従わなかった宇都宮は殺せ」という密命が付帯していました。

婚礼の席で、長政が宇都宮鎮房を斬り殺し、母里太兵衛、後藤又兵衛などが宇都宮の家来たちを襲って斬り殺すという汚い手を使いました。背に腹は代えられぬ…などと言いますが、外交を得意とした官兵衛も、今までの10倍にあたる内政を統治するには失敗しました。息子長政の失政と言われていますが、官兵衛の失策でもあります。

144、官兵衛は秀吉が語ったというその話を聞いたとき、背筋に冷水をかけられたような戦慄を覚えた。お伽衆の山名禅高がいうには
「わしの亡き後、天下をとるのはあの瘡頭じゃ」…と、側近たちに話したという。

今回ここまで話が行くでしょうか?しかし、秀吉と茶々の話を書いても面白くないので、官兵衛の隠居願いに繋がる話にします。

秀吉は政策ブレーンとして石田三成や増田長盛、長束正家、前田玄以などという経済官僚を側近に置きます。いわば内閣府です。その他に、かつての名門の大名や茶人などをお伽衆という形で周りにはべらします。

この話を官兵衛に伝えたのは、かつて家来たちから城を追い出されたという経歴の鳥取城主・山名宗全です。秀吉は名門の者たちを傍に置いてかしずかせることで、見栄を張るという癖があります。茶々にこだわったのもそれです。

石田や増田が政治談議に花を咲かせている席に秀吉が現れ「わしの後天下をとるのが誰か」と公案を出し、「徳川だ」「前田だ」などと議論するのを嗤って否定したと言います。

瘡頭とは官兵衛のことで、伊丹の土牢にいる間に患った皮膚病で官兵衛の髪の半分は抜け落ち、瘡蓋状になっていました。ですから、テレビに登場する官兵衛はそれを隠すための頭巾をかぶっていなくてはならないのですが…、まぁ、いいでしょう(笑)

トップから警戒される…ヤバい!! 官兵衛は隠居、引退を決意します。