乱に咲く花 37 維新

文聞亭笑一

話の展開が急に早くなりました。毛利家の若君が生まれたと思ったら、早くも美和の指導で畑仕事をしたりしています。時間軸が伸びたり縮んだりしますから追いかけるのも大変です。

将軍家茂が死んで、跡目をめぐって幕府がごたごたするのが慶応2年(1866)7月です。

そして、同じ年の12月、孝明天皇が逝去します。わずか半年の間に、国家元首…国際的に見ればどちらが本物の元首かわかりませんが…日本の元首が居なくなってしまいました。これには日本人も慌てましたが、日本に進駐している欧米列強も慌てたようですね。開国要求、貿易自由化を要求しているのですが、要求すべき相手が誰だかわからなくなってしまいました。後に日本の維新史を書いた英国通訳アーネスト・サトーなども「どないなってまんねん?」という意味の記事を書いています。

天皇の逝去に関しては、病死説と毒殺説があります。戦前は「天皇を毒殺するなどと言う畏れ多いことは、言うだけでも大逆罪である」という雰囲気でしたから誰も唱えませんでしたが、戦後は多くの歴史家や小説家がこの説を開陳し始めました。

孝明天皇は「公武合体」「佐幕」の人でしたから、既に「討幕」に舵を切っていた薩長にとっては実に扱いにくい人でした。しかも、薩長にとっての大義名分は「勅諚」つまり天皇の意志で動いているのです。討幕・・・に天皇が合意しなければ、全てが嘘になってしまいます。

そのあたりを、半藤一利の「維新史」では次のように語ります。

孝明天皇は、嫌がる慶喜に天皇の意志として将軍宣下をした。それが12月5日である。
ところが、その20日後、孝明天皇は突然亡くなられてしまった。36歳、働き盛りである。原因は天然痘と言われ、事実高熱や発疹などの症状が出た。ところが、軽症で済むと診断され、快気祝いの席の準備もなされていた矢先、突然に薨去されてしまった。

天然痘に関しては、この時代にはすでに種痘などの西洋医学が導入され、不治の病ではなくなっていました。重症であれば別ですが、どうも…そのようではありません。

そこで暗殺説が出ます。治療薬に混ぜて毒を盛ってしまえと誰かが画策したというのです。

小説としては実に面白い仮説ですが…、事実はどうだったのでしょうか。

暗殺を仕掛けた者として薩摩藩が疑われています。鹿児島県出身の読者の皆さんには心外でしょうが、この当時の大久保・西郷のやり口はかなり強引です。都市部に伊勢のお札をバラマキ、「えじぇないか」運動を起こして世情を混乱させたりしました。一種のデモ行進ですね。

さらに、江戸市中では辻斬り、強盗などやりたい放題の犯罪行為を繰り返して社会不安を煽っています。現代の朝日新聞のような霍乱(かくらん)行動を繰り返していました。「討幕のためなら…なんでもあり」というのが当時の薩摩藩の戦術だったようです。戦国時代の乱破部隊(忍者)の動き方ですね。それを指揮したとされる益満久之助は、上野での彰義隊との戦いで味方に見捨てられて戦死していますから、西郷による「証拠隠滅ではないか」などとも言われます。

いずれにせよ、孝明天皇の薨去は幕府にとって大打撃になりました。朝廷内にあって佐幕論を唱えていた支柱を失ってしまいます。これで、慶喜は一気に弱気になります。

ここからの京都の政情は大混乱です。

岩倉具視を中心とする討幕勢力が、薩長を使って主導権を握ります。

一方、朝廷と幕府の双方を立てる公武合体派の越前(松平春嶽)、土佐(山内容堂)、宇和島(伊達宗城)などは軟着陸の政権交代を目指します。更に、会津(松平容保)桑名藩などは現状維持を主張します。これに広島(浅野家)、大垣藩などどちら就かずの者たちが入り乱れ、それぞれの思惑が飛び交います。

私たちが過去に経験してきた政治混乱と対比すれば、自さ社政権が誕生したころでしょうか。

いや、もっとひどかったでしょうね。小党乱立、合従連衡・・・

この混乱が一年近く続きます。戦争勃発の機運が高まった慶応3年(1867)10月、山内容堂が佐幕、討幕の調停を買って出ます。容堂は後藤象二郎が提案した「国家改革案」を採用し、合議制の国家運営を提案します。

この案のことを、後に「船中八策」と呼びます。後藤が坂本龍馬から仕入れたといわれますが、龍馬もまた、勝海舟から教わったという国家の青写真です。オリンピックのエンブレム問題ではありませんが、誰が発案したとしても政治の表舞台に押し出したのは後藤象二郎であり、山内容堂です。著作権を云々しても仕方ありません(笑)

八策をおさらいしておきましょう

1、政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷に一本化する(大政奉還)

2、議会を設け、重要事項は会議で決める(国会開設)

3、人材活用のため身分の上下を廃止(士農工商の廃止)

4、外国との不平等条約を改定する(条約改定)

5、日本らしい憲法を作ろう(立憲国家)

6、海軍を増強し、防衛力を拡充する

7、藩の軍隊を解体し、日本軍を創設する

8、為替レートを世界の常識に合わせて改定する

これをベースにして出来上がったのが「五か条の御誓文」です。明治新政府が最初に出した政令ですね。日本最初の海外使節団である「咸臨丸」の成果が、勝海舟から坂本龍馬へ、龍馬から後藤象二郎へ、そして後藤から容堂に伝わり、容堂の大演説で国家の指針へと繋がっていきました。維新後、土佐藩はパッとしませんでしたが討幕前夜に果たした役割は大きかったと思います。

こういうところを、今回のドラマではさらりとパスですね。

歴史を考える者にとっては不満な筋書きです。が、長州はこの話には参画できていませんでしたね。桂小五郎なども藩の内政が大変で国家像などに手が回らなかったのでしょう。

こういうドタバタのさなかでしょうか? 美和(文)が京都に行くことになります。

京には薩摩藩が7千人の兵を送り込んでいます。

会津藩兵、新選組、見回り組、など幕府も兵を常駐させていますし、近隣諸藩の藩兵も招集されています。そのほか、遠方の藩兵も京への行軍の途中にあります。

毛利藩・奥の中臈であり、藩主の孫の守役である美和が、本当に京に行ったんでしょうかねぇ。…ちょっと信じられません。女旅は危険すぎます。

ただ、長州兵も京に向かっていましたから、途中まで同行したのかもしれません。

11月15日京の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が暗殺されるという事件が起きた。
戦争を始めたい薩長にとって龍馬は邪魔者である。「内戦をするな」「万機公論に決すべし」と主張する龍馬は、武力討伐を決心した薩長にとって目障りである。しかも、薩長同盟を仲介してくれた恩人だけに粗略にはできない。とりわけ西郷などは龍馬の扱いに窮した。

誰がやったか…というので、あまたの小説家が龍馬暗殺犯人を仕立て上げ、面白おかしく物語をでっち上げます。不肖、文聞亭もその一人で、珍説を小説にしましたが、実行犯が誰かよりも黒幕は誰かというところに興味があります。

龍馬の潜伏先を知っていたのは薩摩藩と土佐藩の一部の者しかいなかったはずです。

さらに、慶喜が大政奉還をした翌日に暗殺されているというところが劇的です。

犯罪捜査では「龍馬が死んで得をするものは誰だ」と考えるのが鉄則ですが、得をするものが多すぎて…定説が導き出せないのです。

鳥羽伏見で幕府軍1万5千と薩摩を中心とする官軍5千の戦が火ぶたを切った。数の上では幕府優勢だが、戦いは数の多い方が勝というものではない。この戦いでは薩摩の新式砲と新式銃が大変な威力を発揮した。
当初は五分の戦であったが、翌日一気に形勢が決まった。薩摩軍の後方に立った三本の錦の御旗が幕府軍の志気を一気に低下させてしまった。

歴史書では「錦の御旗の威力」を大々的に語ります。大義名分という観念ですが、現場の将兵は果たしてそのことが分かっていたでしょうか。多分、わかっていなかったと思います。

むしろ驚いたのは大阪城に居た将軍・慶喜で、指揮官が戦意を失ってしまいます。

戦争をやっている最中に大将が船で江戸に逃げ帰ってしまいますから、現場はお手上げですね。

「大将が逃げた」というのは、先週もお話した小倉での戦いで老中・小笠原壱岐が逃げたのと全く同じです。今度は将軍が逃げたのですから、それ以上のダメージですよね。総崩れになるしかありません。

今週のNHK物語では江戸城明け渡しから、会津戦争までを一気にやってしまうようですが、この間に全国の藩では猛烈な内部抗争の嵐が吹きまくります。討幕か、佐幕か……1万石程度の藩でも上へ下への大騒ぎです。しかも待ったなし、官軍は東海道、中仙道、北陸道を進んできます。議論している暇はありません。さぞかし大変であっただろうと同情したくなります。

更には版籍奉還、廃藩置県まで行くかもしれません。一気に2年から3年が経ちますね。

先日、金沢の兼六園に行ってきました。

加賀百万石・金沢藩、前田家はどうしていたのでしょうか。

実は幕府の要請で京に向け行軍中でしたが、将軍が逃げた、薩長が勝ったとの情報が入り、途中から引き揚げています。

期を観るに敏・・・というのか、即座に北陸道鎮撫軍の先鋒として官軍に参加しています。お利口さんでした。