次郎坊伝 38 重き荷を

文聞亭笑一

先週を休刊しましたので、テレビと同期させるために#37を飛ばします。

それにしても・・・一気に時の流れを早めましたねぇ。永禄12年(1569)をやっていると思いきや、北条氏康が死んだ知らせに武田信玄が欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する場面が出てきました。氏康が脳卒中で倒れ、死去したのは元亀2年(1571)です。一気に二年ほど飛んでしまいました。

この間に、物語の脇役である徳川家では大きな変化が幾つもあります。

まずは、家康が岡崎城を息子・信康に譲り、曳馬の地に新城を築城して、「浜松」と地名を改めています。井伊谷の近くですし、直政が養子に入る松下家も築城に狩り出されていますから、井伊家が無関係でいたとは思えませんが…、直虎は家が取潰されて出家した尼ですから築城の役務に関しては無風であったということでしょう。

「徳川が傍に来たのか。しのを松下家に嫁入りさせておいてよかったかも…」程度の感慨だったかもしれません。

家康の本拠移転

家康はなぜ、先祖代々の本拠地・岡崎を離れて浜松に拠点を移動したのか? 

その理由は小説家によってマチマチに描かれます。

●側室を持ったことで正妻の築山殿と不和になり、逃げだした・・・という説があります。

次男の、後の結城秀康を産んだのが浮気(?)の相手、築山御前の女中をしていた女です。

浜松で西郷の局(3男秀忠、4男信吉の母)を見染めて、築山殿の嫉妬を避けるため…。

この時代に大名が側室を持つのは当然ですから、築山殿を悪女に仕立てる筋書きですね(笑)

●来るべき信玄との決戦を不可避として、遠州を固めるために陣頭に立ったという説があります。

国境に戦略拠点の高天神城があります。この城をめぐって武田勝頼との熾烈な攻防戦を繰り返しますので、戦略、戦術論から見た意見でしょう。

●旧来の勢力(家臣団)を地元から引き離し、家康の指揮権を強固にするためという説もあります。

家康軍団は酒井、大久保、石川、鳥居などの地侍によって支えられています。いわば合議制。

家康の能力でまとめているというより、地侍たちの集団に神輿に担がれたといった立場です。

後の四天王でも本多平八郎、榊原小平太は、まだ二十歳そこそこですし、井伊虎松は子供です。

参謀に本多正信を据え、子飼いの家臣団を形成するのは、まだまだ先です。

●制圧後もくすぶる本願寺派(一向宗)との軋轢(あつれき)を避けた・・・という説もあります。

とりわけ本多党、石川党には一向宗系の者が多く、民衆と結託し反乱を起こす可能性があります。

が・・・最大の理由は経済ではなかったかと考えます。岡崎は東海道の沿線ではありますが、海から離れた内陸です。物流ルートは陸路と矢作川の水運です。この当時の家康軍団は8千人と言われますが、これだけの人数の兵団を迅速に移動させるには、何としても大型船の海・海路を使いたいですよね。

浜松は浜名湖という海への出口を持った汽水湖の辺です。しかも、すぐ近くを天竜川の大河が流れます。物流、兵と兵站(武器・食料)の移動には最高の立地です。さらに、戦には金がかかります。ある程度の経済規模がないと軍資金の調達ができません。武田(甲州金山)、上杉(佐渡金山)、北条(伊豆金山)のような、金のなる木があれば別ですが、三河、遠江には金鉱、銀鉱はありません。そうなれば、商業の発展しそうな場所へ移動し、経済規模を拡大するしかないでしょう。

姉川の戦

家康の盟友・・・と云うよりは主君の信長は上洛要請に応じない越前の朝倉を攻めます。この戦にも徳川勢は狩り出されていますね。木の目峠を越えて越前に攻め入ったとたんに、後方で浅井長政が裏切り、挟み撃ちの危機に瀕します。信長の妹・お市が袋の両端を縛った小豆袋を届け、兄に浅井の裏切りを知らせた話が有名です。

信長は単騎若狭から朽木を越えて逃げますが、家康軍は秀吉と共に殿軍をさせられます。この軍の中に井伊家の者たち、旧臣がいたかどうかは分かりませんが、ともかく大変な苦労をして逃げ帰ったことは間違いないでしょう。

それでもなお信長に従わなくては、武田からの脅威に対抗して生きいていけないのが徳川の実力でした。トランプのような危ない男について行かなくては、自国の防衛がままならない今の日本国に似ています。

信長はその報復として小谷の浅井を攻めます。これにも徳川が狩り出されます。

姉川の戦は、籠城していた浅井軍に援軍の朝倉勢が加わり、浅井・朝倉連合軍vs織田・徳川連合軍の戦です。織田vs浅井、徳川vs朝倉といった構図でしたが、朝倉を蹴散らした徳川勢が浅井勢の裏にまわりこみ、これで大勢が決したと言われています。

この戦で家康は「徳川は野戦に強い」と自信をつけましたが、それが武田信玄との戦いでは裏目に出ました。他人の応援に出てきただけの朝倉勢と、上洛戦の初戦と意気込みを燃やす武田勢では全く別の敵でした。「失敗は成功の元」と言いますが、「成功は失敗の元」でもあります。姉川戦での大活躍が嘘のように、無様な負けを喫します。

仏坂の戦

元亀三年(1572)武田信玄は傘下の軍団を四つに分けて上洛戦を開始します。

甲斐、信濃を留守にしますので、海津城に残る高坂弾正を中心に領国守備部隊を置きます。

秋山信友の軍は木曽から美濃へ進出して、信長の奇襲を警戒しながら信玄本隊が東海道を進むのを待ちます。信長が岐阜から木曽、伊那を経由して後方にまわりこむのを封じました。

信玄の本隊は長篠を経由して悠々と浜松に向かいます。

さらに山県昌景の別動隊が伊那から三河へと向かいます。家康が浜松から出撃して掛川などに移動して対抗するのなら後ろに廻り込むという機動戦略部隊です。作戦として全く非の打ちどころがありません。「さすが信玄」と囲碁・将棋の名人・本因坊の手筋を見る如くでした。

元亀3年10月22日、山県昌景率いる武田別動隊5千の兵が鳳来寺街道を南下し、井伊谷三人衆の一人・鈴木重時の本拠地である山吉田から井伊谷を経由して、信玄との合流点である三方が原に向けて進軍してきます。城主の鈴木重時は二年前の堀江城の戦で戦死していて、後継者の鈴木重好はまだ15歳でした。しかも城は普請中で籠城もできません。城を捨てて菅沼家の井平城に向かって逃げますが、追跡されて仏坂で追いつかれます。井平城の井平飛騨守、菅沼俊之、近藤石見など、いわゆる井伊谷三人衆が応援に駆けつけて山県勢と決戦します。井伊家の残党も参加したでしょうね。

結果は徳川方の惨敗。井平飛騨を始め88人が戦死し、井伊谷に逃げますが、ここも襲われ、龍潭寺を始め、井伊谷は焼き尽くされてしまいます。直虎たちも逃げるしかなかったでしょう。

仏坂の地名は行基開山のお堂に上がる坂がきつく、信者たちが「重き荷を担(にな)いて登れ仏坂、法の功徳(くどく)に雲晴るゝらむ」と唱えながら登ったことに由来します。家康の遺訓に似ていますね。