次郎坊伝39 時代の変わり目

文聞亭笑一

今回の物語では永禄年間から元亀を足早に過ぎて、天正年間に移りましたねぇ。

今川家が掛川城を明け渡して、実質的に滅びたのが永禄12年(1569)です。その後に続くのが元亀年間で、これは実質2年ほどです。この間に中央では信長と足利義昭の確執が表面化し、いわゆる「信長包囲網」によって全国の大名の目が中央政権奪取に向かい、戦国の総仕上げのような大規模合戦が各地で起きています。

テレビドラマでは次郎坊・・・と云うより、おとわと龍雲丸の新婚・蜜月物語をしていましたが、そんな呑気な時代ではありません。生きるか死ぬかの戦争の時代です。井伊谷だけが平和をむさぼっていられる状況ではありませんでした。

家康にしても信長の要請で越前朝倉攻めから逃げ帰り、その報復戦の姉川の戦に狩り出されています。東奔西走で犠牲者が出ますし、その補充のために百姓たちも戦場に狩り出されます。

さらに信玄の上洛作戦がありましたから百姓仕事などする暇がないほど、忙しかった時代です。

元亀(げんき)年間(1570-1572)

元亀という年号は足利義昭が自己主張のために朝廷に奏上して、改元された年号です。

義昭は「自分は将軍になった。将軍の権威を復活させる」という目的で、改元を企画します。

信長はこれを拒絶、「必要ない、縁起担ぎもいい加減にしろ!」と義昭を叱責します。

しかし、自分の権威を天下に示したい義昭は、信長が朝倉攻めで北陸に向かった留守を狙って公家衆と語らい、改元をしてしまいます。更には本願寺とも諮り、武田、上杉、毛利などの全国の有力大名に「信長討伐」の号令をかけます。

その意味で「元亀」という年号は、将軍義昭による信長包囲網構築の時期とも言えます。

この構図・・・現代に当てはめると実に酷似したケースがありますねぇ。

マスコミは共産党、民進党などを「革新」といい、自民・公明を「保守」と言いますが、何をベースにそういうのか?自民・公明は資本主義をベースにします。一方の共産・民進党は社会主義(共産主義)をベースにします。現在の資本主義を守ろうとするのが「保守」で、社会主義に向かうのが「革新」であるという70年前の論理ですが、すでに社会主義のメッカ・ソ連はなくなり、共産中国も資本主義にどっぷりと漬かっています。

私などは日本における「保守」「革新」の定義を

現行憲法をかたくなに守ろうとするのが保守

    〃  現実に合わせて改正しようとするのが革新

と考えますから、マスコミ屋さんの定義とは正反対になります。従って保守本流は共産党と社民党で、どちら就かずでウロウロしているのが民進党でしょう。民進党が空中分解しそうなのは党内に保守と革新が同居しているからです。党の方向を示す「綱領」すら作れませんから烏合の衆ですねぇ。小沢というカリスマがいて、鳩菅という目立ちたがり屋がいて、一時期天下を取りましたが、その期間が元亀年間でしょうね。将軍・義昭の時代です。

「元亀」は、信長が義昭を京都から追放することにより「天正」に改元されます。

これは信長の要求というより、義昭を煽って信長包囲網に加担していた公家たちが、信長の報復を恐れて自発的にゴマすりをした結果でしょう。

信玄の死因

諸説ありますが、従来からの定説となっているのは結核です。

これは信玄が溺愛した諏訪の姫(勝頼の母)が結核で亡くなっていること、甲信地方は結核で死ぬ人が多かったことなどと、信玄が喀血を繰り返しているからです。

とはいえ、血を吐く病気は結核だけではありません。胃癌、胃穿孔などでも吐血しますし、食道静脈瘤破裂などもあります。血を吐いただけで死因は特定できませんが、「3年間喪を伏せよ」と遺言したほどですから自身の体調不良に関しては厳重な緘口令が敷かれていたことでしょう。侍医といえども記録は許されなかったと思います。

虎松の帰還

ドラマでは成人した虎松が井伊谷に戻ってくる場面を放映していました。虎松(後の井伊直政)は1561年の生まれです。8歳で鳳来寺山に逃れ、井伊谷へ直親の13回忌で戻ってきます。

これが天正2年(1574)ですから13歳。中学一年生ですねぇ。まだ子供です。反抗期です。

この虎松が家康の小姓として徳川家に入り、徳川家臣団No1の立場まで駆け上がっていく出世物語が始まるのですが、そこに至るまでの紆余曲折に2,3回のドラマ展開をするのでしょうか。

松下虎松から井伊虎松に戻るだけでも結構大変な政治折衝が必要だったと思います。南渓和尚の腕の見せ所でしょうね。

高天神城が武田勝頼に奪われる

天正2年の段階で信玄は死にましたが、遠州の大半は武田勢力圏に入っていました。武田家が斜陽になったわけではありません。むしろ、信玄が健在であることをカモフラージュしようとして、信玄存命中よりも攻撃的になっていました。

これに似ているのが北朝鮮の現政権で、やたらと居丈高に振る舞いますが…、軍事政権が国民の信頼をつなぎとめるためには、むやみやたらに戦争を仕掛けて「勝った、勝った、また勝った」という実績を積み重ねるしかありません。やればやるほど国際包囲網に包み込まれて孤立するしかないのですが、始めた以上はエスカレートするしかないでしょうね。

二代目ですが武田勝頼は今川氏真とはまるで違います。優秀な軍人、武将です。体育会系です。

信玄が残した遺訓を盾に、勝頼を軽視する信玄の重臣たちの鼻を明かそうと焦ります。その分だけ戦争を起します。外交や経済進出よりも武力攻撃が増えます。

そうなれば領国の税負担が重くなり、民意は離れていきます。占領地である駿河、遠江、信濃に隠れ野党が発生しますねぇ。じわじわと結束力が衰え、批判勢力が増えていきます。

「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」

信玄の遺訓が、度重なる戦いの度に薄らいでいき、史上最強軍団と言われた武田軍に亀裂が入っていきます。

先日、高校の同年会がありましたので、仲間二人と帰省の途中にある武田家の菩提寺・恵林寺と武田神社(躑躅が崎)を訪ねました。快川和尚の偈「心頭滅却すれば火も自ずと涼し」を眺めながら、信玄の人となりと、その治世を偲んできました。

信玄の遺訓の碑に刻まれた文言、「およそ戦いは五分の勝を以てよし。勝ちすぎては驕りを生ず」をながめながら「そうだよなぁ、腹八分目が良いんだ」などと、改めて読み直してきました。

碑文はもっと長文だったのですが・・・途中は忘れました(笑)