どうなる家康 第30回 火事場泥棒

作 文聞亭笑一

どうする家康/伊賀越えの放送があった直後に書いています。

ああぁ~やんなっちゃった、あぁあぁ~驚いた

「無茶苦茶でござりまするがな・・・」という、懐かしい台詞を思い出しました。

昭和20年代、ラジオから流れてくる番組は「君の名は」を筆頭に国民的人気でしたが、その中の一つに「お父さんはお人好し」がありました。

花菱アチャコのお父さんと、浪花千栄子のお母さんの掛け合いで、大阪弁が飛び交う悲喜劇でした。

お人好しのアチャコ親父が騙されて、しっかり者の千栄子母さんが後始末・・・。毎回似た物語でしたが、大阪弁のやりとりが面白くて聞き入っていました。

騙されたり、叱られたりしたアチャコが発する定番の台詞が「無茶苦茶でござりまするがな」

今回の伊賀越え・・・まさに・・・無茶苦茶でござりまするがな 家康をギロチン台に据えて本多正信と百地三太夫が謎かけ遊び・・・登場人物も、場面設定も漫画、劇画、お笑い場面。

娯楽番組と割り切れば・・・何でもありですが、歴史感覚を狂わせますね。

戦後のラジオ番組のついでに・・・「お父さんはお人好し」の後は、爺婆が浪花節を聴いていました。

広沢虎造の次郎長伝など・・・懐かしく思い出します。

私の歴史好きは、もしかして祖父母と聴いていたラジオの浪花節が基礎にあるのかもしれません。

関西系の企業に就職したのも・・・アチャコ、千栄子の大阪弁への憧れかもしれません。

中国大返し

秀吉の実行した中国大返し・・・信じられないほどの、もの凄いプロジェクトですね。

毛利の大軍と敵対する備中高松で講和を成し遂げ、そこから姫路経由で230km先の山崎で光秀軍と対陣するまでに僅か10日間です。

この時間軸、短すぎる時間が「本能寺の変・秀吉黒幕説」に繋がります。

「あらかじめ用意、準備していなくては実行できない」と言うのが推論の根拠です。

私もそう思いますねぇ。

何もかも・・・巧くいきすぎです。

まず、毛利との交渉ですが、これは秀吉側が大幅に譲歩すれば成立しても可笑しくはありません。

それまでの交渉で秀吉は「長門、周防は残す。

安芸は信長様のお心次第、その他は召し上げ」という条件を提示していたと思われます。

「本能寺の変を受けて・・・」大幅譲歩し、安芸ばかりか備後、石見、出雲まで毛利の権利を認めるというのですから・・・安国寺恵瓊も乗りました。

いや、安国寺恵瓊は信長が倒れたことを知らされていて、秀吉との同盟に乗っていたのでしょう。

「備中高松城を囲んでいたダムの堰を切って泥沼にし、毛利の追撃を防いだ」と言いますが、追跡する気になれば迂回路はいくらでもあります。

さらに小早川水軍を使えば撤退する秀吉軍を待ち伏せすることすら可能です。

瀬戸内の制海権は毛利が握ります。

「秀吉と毛利との間で、本能寺事件以前に密約があった」・・・毛利に有利な条件で同盟する・・・

「秀吉と光秀の間にも、信長打倒の密約があった」  ・・・まず倒す。

その後のことは相談・・・

「明智、羽柴、毛利・・・この三者を繋いだのは近衛前久以下、公家衆」 ・・・バックに帝が・・・

さて、信長を倒した後をどうするか・・・明智にも羽柴にもそれぞれ思惑がありました。

明智光秀・・・将軍位の宣下、朝廷の権威を背景にする

羽柴秀吉・・・明智を犯罪者として糾弾し、武力討伐してしまう‥弔い合戦

三日天下

光秀の行為が計画的犯行か、それとも衝動的犯行か? 後者であろう・・・と言う説が大半です。

光秀は何事にも慎重で、計画的で、策略・謀略の名人だったと言われます。

光秀の言葉に

「仏の嘘は方便という。武士の嘘は策略という」があります・・・真偽不明・・・

近衛から「帝の御為や、やんなはれ」とそそのかされ、秀吉から「やったら手伝うがの」などと焚きつけられ、そこに・・・無防備な信長一行が本能寺にいます。

千載一遇のチャンスです。

実行後・・・光秀の思惑はことごとく外れていきます。

まずは信長の首を確認できませんでした。

信長死す・・・の確証がありません。

これが・・・多くの人が光秀の呼びかけに参加しにくい要因になります。

先週の「家康伊賀越え」でも使われましたね。

万が一、万万が一信長が生きていたら、明智に乗ることは身の破滅です。

六天大魔王・信長・・・閻魔様よりも怖い! 皆殺しと言うことをしたのは日本史上で信長だけです。

次に肝心の朝廷、近衛前久や吉田兼見などは雲隠れして会ってくれません。

大量の銀貨を献納しますが「おおきに」と・・・それだけ。

将軍宣下の話などできません。

光秀は土岐源氏の支流を名乗っていましたから自分は「将軍=源氏」の条件に合うと考えていました。

更に、盟友と期待していた細川藤孝は出家して、明智方に付くのを断ります。

与力の筒井順慶も「国衆に相談して・・・」と態度を明確にしません。

そうこうしている間に池田恒興、中川瀬兵衛、高山右近には秀吉からの誘いの手が伸びます。

織田軍旗本部隊・近畿勢の明智軍団はバラバラになってしまいます。

軍事的にも、政治的にも、大義名分でも劣勢に立った山崎の合戦は、明智軍の自殺的戦いとなりました。

善戦したのは「逃げ道がない」と兵達が玉砕したからです。  本能寺に信長を討って、僅か十日後の出来事でした。

この時間軸・・・秀吉の行動が如何に異常かわかります。

あらかじめ用意が無ければ無理でしょう。

安土城炎上

誰が、何のために焼いたのか? 

残っていれば最高級の歴史遺産の城は織田信雄の手の者によって放火炎上してしまいました。

「明智軍に使わせないため」と言いますが、それなら自分たちが籠城すれば良いのです。

信長が用意した天皇の御所・・・これを消してしまいたかった?

ここにも公家の関与を見るのは・・・うがち過ぎでしょうか。

ただ、公家衆というのは実行を他人にやらせて千年生き残ってきた種族です。

やった(やらせた)可能性はあります。

清洲会議

ここからも早いですねぇ。

そのわずか2週間後には「今後の政権運営について」と清洲で会議を開き、長男・信忠の子の三法師を後継者にしてしまいます。

秀吉の独断場とも言うべき手際の良さで、対抗馬の勝家や、「自分が・・・」と期待していた信雄、信孝兄弟を封じ込めてしまいます。

勝ちすぎてはいけない・・・と、柴田勝家にはお市の方との結婚を勧めるあたり・・・憎い気遣いですね。

これも、むしろ・・・お市の色香で勝家を骨抜きにしてやろうという計算だったら「啼かせて見せようホトトギス」秀吉の面目躍起です。

この清洲会議は織田家の軍団長ではない、池田恒興を加えて多数派工作したところが秀吉の勝因でした。

また、丹羽長秀も佐久間解任後の新任軍団長です。

そして勝家派の滝川一益が上州戦線で苦戦し、帰れない間にやってしまいました。

武田領争奪戦(天正壬午の戦い)

どうする、どうなる・・・家康としてはこちらが本命です。

旧武田領は織田家臣団に分割され管理されていました。

甲斐は河尻秀隆、南信濃は毛利長秀、中信は木曽義昌、北信は森長可、東信には滝川一益が北条攻略の責任者として配置されていました。

いずれも赴任して半年も経ちません。

あちこちで反乱が起き、世情不安定です。

とりわけ甲斐は、河尻が信長譲りの苛烈さで強権政治を敷いていたこともあり、「信長死す」の情報は国中を「アンチ河尻」で染めてしまいます。

蟻の大群に襲われた狼・・・そんな感じで河尻秀隆は討たれてしまいます。

その後を「ご馳走様」と収拾していったのが家康でした。

旧武田領は関東の勇・北条氏政にとっても垂涎の地でした。

とりわけ上州は信玄との間で一進一退を繰り返し、上州を攻めると下野の宇都宮や常陸の佐竹、それに安房の里見がちょっかいをかけてきます。

上州の帰属問題にけりをつけ、あわよくば信濃・甲斐まで・・・野望が広がります。

まずは上州・神流川の戦いで織田軍の滝川一益を一蹴します。

勢いに乗って碓氷峠、内山峠を越えて佐久に雪崩れ込み、逃げる織田家臣団を追い立てます。

この時、道案内として活躍したのが真田一族です。

北信では上杉とも話をつけ、向かうところ敵なし、諏訪へと向かいます。

でしたが・・・ここで家康軍の先鋒、大久保隊、鳥居隊と遭遇し、勢いを停められました。

さらに、家康の息が掛った信濃勢、依田信蕃などのゲリラ戦にて手こずります。

広大な関東平野で戦ってきた北条勢ですから狭い谷、山中、小さな盆地での戦いでは勝手が違います。

北条氏直は若神子の陣、家康は勝頼が築いた新府城・・・互いに、フォッサマグナの露出地、断崖絶壁の上でにらみ合います。

この睨み合いに一石を投じたのが真田昌幸の寝返りでした。

北条軍は関東平野を北上し、信越線のルートで兵站(武器、食料)を補給しています。

八王子から大月、富士川からのルートは徳川に封鎖されています。

佐久から、現在の小海線のルートが生命線ですが、これを真田と依田などの信濃勢が分断してしまいました。

なまじ人数が多い分だけ、北条軍はピンチになります。

この、真田寝返り工作をやったのが本多正信だと言われます。

この重要事項を伊賀越えで帰参したばかりの正信に任すかどうか?

やっぱり正信が帰参したのはもっと前ですね。

この時、正信が真田への餌に使ったのが「信州諏訪郡」でしたが、諏訪郡は既に家康が依田信蕃にも約束していました。

このことも・・・後々の徳川・真田抗争の原因になります。尤も諏訪郡は諏訪家代々の領地です。

諏訪がすんなり明け渡すわけがなく、家康政治の失敗の一つになりました。

ともかく、武田の旧領を甲信は徳川、上州は北条とすることで和議が成立しますが、ここでも上州沼田に拠点を持つ真田がへそを曲げます。

家康の言うことを聴きません。

賤ヶ岳の戦い、北の庄落城

翌年になると、中央では羽柴と柴田が激突します。

秀吉が、戦いになるように仕組んだ戦乱ですが、戦う前に勝負は付いていたようです。

賤ヶ岳の決戦と前田利家の寝返り・・・いずれも事前の政治工作でシナリオが作られていたようで、華々しい合戦はお祭り騒ぎ?

柴田勝家が逆転勝利を成し遂げる可能性は殆どゼロだったようです。

北の庄の落城は炎天を焦がす大花火大会・・・後継者・秀吉を知らせるイベントでした。