八重の桜 36 明治の活力

文聞亭笑一

今週の放送は八重の婚約から結婚、同志社を立ち上げるまでの話ですが、ややホームドラマの趣があって歴史から離れます。そこで、八重が襄と知り合って、結婚に至るまでの明治6年から8年あたりの日本を振り返ってみたいと思います。

♪ 汽笛一声新橋を はや わが汽車は離れたり…

新橋、横浜間に鉄道が開通したのは明治5年です。着工してから僅か3年で世界の最先端技術の成果を走らせてしまいました。これは…考えて見たらすごいことです。蒸気機関どころか鉄道という概念すらなかった処に、この短期間で線路を建設した土木技術には舌を巻きます。この鉄道建設の指揮を執ったのは伊藤博文ですが、当初の計画では新橋から品川まで直線で鉄路を建設する予定でした。ところが…、三田には広大な薩摩屋敷があります。将軍になる夢を捨てきれぬ島津久光が陣取っています。

「なにぃー、長州の足軽の子倅が立ち退けだと。許さん」

となって、薩摩屋敷を避けた路線に変更しなくてはならなくなったのですが、薩摩屋敷を避ければ…そこは海です。埋め立てし、防波構造にしなくてはなりません。技術的にも、予算的にも大工事です。これをわずか3年でやってのけたのは凄いと思います。そして、それができたという江戸期の技術力の高さを再発見します。城づくり、灌漑工事、治水工事などで欧米並み、いやそれ以上の土木技術があった証でしょう。

明治7年5月には台湾出兵をしています。初めての対外戦争ですね。この戦争の発端は台湾の住民が、漂着した琉球漁民50人余りを虐殺した事件がきっかけです。その報復に西郷従道を大将として台湾に乗り込み、制圧しています。全権大使として大久保利通が、北京に乗り込み、賠償金支払いと琉球列島が日本固有の領土であることを清国政府に認めさせています。一方的勝利でした。

明治8年に入ると、江華島事件が起きます。日本海軍が東シナ海貿易ルート開発のため朝鮮沿岸の測量をしていると、突如、無通告のまま、朝鮮軍砲台から砲撃を受けました。当時の韓国は鎖国政策を続けていて、日本でいう「攘夷」運動があったのです。これに対し日本の軍艦・雲揚は猛烈な反撃を加えます。砲台は破壊し、上陸隊は民家を焼き払います。まるで薩英戦争でイギリス軍にやられたことの裏返しですね。下関事件の裏返しでもあります。艦長の井上少佐は薩摩出身で薩英戦争の経験者でした。ここでも、全権大使の黒田清隆がソウルに乗り込み「修好条約」締結を迫ります。大型軍艦5隻を従えたこのやり方は、まさに、ペリーにやられたことの物まねです。この条約で、朝鮮は開国することになってしまいます。条約の中身ですか? 治外法権を含め、かつて、幕府が飲まされた条件を、そのまんま朝鮮に飲ませたのです。

いずれの事件も当時の中国、朝鮮が国際法に関して無知だったことが、災いを呼び込みました。現在、両国が主張する「歴史認識」ねぇ…。どこまでさかのぼって議論しましょうか。とにかく、中国は条約として旧琉球列島の日本国籍を認めています。

146、襄と八重の仲人は槇村が快く引き受けてくれた。しかし、クリスチャンの襄との婚約がもたらしたものは喜びだけではなかった。八重の周囲に波紋が様々な形で広がった。生徒の中には八重と目を合わさず口を利かないものもあらわれた。
クリスチャンと婚約した八重を厭(いと)う親の差し金だった。

新しいことが始まると、人間社会は「2:6:2の法則」に従って争いを起します。

10人いたら、新規の提案に賛成する人が二人、反対する人が二人、そして形勢を眺めつつ勝ち馬に乗ろうとする人が6人、…こういう比率に分かれ、賛成派と反対派が争います。どちらかが優勢になると、日和見していた6人は雪崩(なだれ)を打ってどちらかに味方しますから、一気に決着がつきます。「和を以て貴しとなす」日本社会では、とりわけこの傾向が強く出ます。まして、日本の中でも最も日本らしい町・京都です。反対派が尖鋭化すれば、推進派はかなりの覚悟と根性で臨まないと支えきれません。

寺院が反対したのは、全国に広がった廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)運動の黒幕が、キリスト教ではないかという疑惑によるものですが、疑われても仕方ない状況証拠はたくさんあります。「学校」と名の付くものは、そのほとんどが港町や、外人居留地近辺に作られていました。そして、学校と並んで教会が建っています。<学校=英語=教会>こういう図式が知れ渡っていました。仏教関係者が反対に回るのは当然です。そして、京都の町衆も、なにがしかの形で仏教界と深い利害関係にあります。お寺という金蔓に繋がっています。

147、その頃、中央政界から離れた西郷は、薩摩に戻って学校を開いていた。 生徒の大半は職を失い、日本のありように不満を持つ士族たちであった。

明治初年の政権の目まぐるしさは、ここ数年の首相交代どころではありませんね。

参議(大臣)になった。辞めた。また戻った。また辞めた。西郷、木戸、板垣などは年に2,3度もこれをやっています。内閣としての一体感などは全くありません。要するに、自分の意見が採用されれば内閣に残るが、採用されなかったら辞めるという態度で、妥協して落としどころを探るという、是々非々の考え方は全くありません。

西郷隆盛は参議を二度辞めています。一度目は戊辰戦争が終結したときです。「おいどんの仕事は終わったでごわす」と、鹿児島に帰ります。が、国軍を作る、徴兵令を敷くという軍制改革になると、西郷抜きでは話が進みません。再び登場します。

そして、岩倉使節団で岩倉具視、木戸、大久保がいない留守に、実質的首相として独裁的に振る舞い、佐幕派大赦や征韓論を進めます。これが、明治5年ごろです。

そしてまた、引退。この人の思想、信条などは、実に謎に包まれています。司馬遼太郎ほか、歴史作家がその心を推察し、いろいろな説を唱えますが…実際のところは西郷本人しかわからないでしょうね。「掴みどころがないほどの大人物」という盟友・勝海舟の評価しか、表現のしようがないようです。

148、明治8年11月29日、ついに同志社英学校が開校する。生徒数はわずか8人。年齢も経歴もさまざまであった。その中にデイビスの従者だった勇次郎の姿もあった。
「この学び舎で共に生き、学び、成長していきましょう。あなた方は私の同志です。同志諸君、ようこそ」

同志社ばかりではなく、これが明治の学校です。「私教える人、あなた教えられる人」という感覚ではなく、共に学ぶという姿勢がありました。「自治」という感覚も強かったですね。官などから指図を受けるのではなく、先生・生徒がたがいに相談しながら学校運営をやっていくという姿勢です。私の卒業した高校も全国で17番目にできた中学校ですが、その応援歌の中に「自治を叫びて80年」という一節がありました。

明治の教育者には、これより後の人ですが、京都大学の西村教授の有名な言葉があります。西村教授は「教えても伸びぬ。教えない教え方をせよ」と、指導者たちに訓示しています。生徒が水を飲みたくなるように仕向け、水を欲しがったら与えよ……ということで、「教える」ことより「学ぶ」ことを重視しています。

教育の本筋はこれだと思います。教育という言葉が…教える立場の言葉ですよね。勉学、学習と、生徒の立場の言葉に変えたほうが、結果が出るかもしれません。

ともかく、日本の子供たちの学力はじりじりと低下しているようです。「教育」が暴走しているためかもしれませんねぇ。

149、明治9年1月3日、八重と襄はデイビス邸で結婚式を挙げた。日本で行われた最初のプロテスタントの挙式である。

近ごろはクリスチャンでないのに、やたらと教会で結婚式を挙げたがります。信教とは全く関係なく、女性がウエディングドレスを着たいだけのことなんですねぇ。ならば敢えて教会でやらなくてもいいはずですが、もう一つの理由が「誓いの言葉」にありそうです。

「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しき時も、

これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

どうやらこの言葉が好きなんでしょうね。女は、これを男に誓わせることに、至上の喜びを感じるようです。………いや、女に誓わせたい男もいますかねぇ。(笑)

ただ、教会型結婚式が増えてからの方が、離婚率が上がっていることも確かです。仲人という、わがままを言えない監視人がいないからでしょうか?

どうでもいいことですが、誓いの言葉の、言葉の並び方が日本語と違うことに気づきました。日本では「悲喜こもごも」や「貧富の差」などと、良くない言葉が先に来ますが、キリスト教では良い言葉が先に来ていますね。これも文化の違いでしょうか。

ともかく、洋装結婚式第一号として、襄と八重の結婚式が執り行われました。