八重の桜 37 第2次攘夷運動

文聞亭笑一

明治九年、八重と襄の新家庭がスタートしますが、世の中は甘い新婚生活を許さないほどに騒がしくなってきます。

明治新政府は、発足当初から一見すると安定しているように見えますが、その実、内部抗争に明け暮れていました。強引に改革を進める大久保利通・岩倉具視の主流派に対し、慎重派の木戸孝允が段階的移行説を唱えて抵抗し、板垣退助などは野党的な自由民権運動の旗を振ります。

薩摩出身でも、大久保に組する者、西郷についていく者では敵味方に分かれます。そして、島津幕府への夢を捨てきれぬ島津久光がいます。

長州とて同じことで、大久保主流派に属する山県有朋などと、木戸派は主張を異にします。さらに前原一誠などの過激保守派もいます。

大久保が進めているのは徴兵令による国民皆兵で、武士の特権であった軍事力の保持を平民にまで銃を持たせ、国軍として中央政府に指揮権を集約することです。この政策は、もともと西郷隆盛が進めたものなのですが、外交政策の相違から西郷が閣外に去り、その後を山県有朋が引き継いでいます。そして、陸軍の中心だった薩摩の将校たちは批判勢力として帰国してしまいました。

大久保の進める政策は…一口に言えば西洋化です。士農工商の身分制度を早期に崩壊させ、産業を近代化し、富国強兵を進めるというもので、そのためには目に見える形で改革を国民に示さなくてはなりません。幕府政治の象徴であり、旧藩の象徴であった城の打ち壊しなどを強引に進めます。この運動をかろうじて免れたのが世界遺産の姫路城、国宝の松本城などです。武士階級が保存運動をやった城はほとんど打ち壊されましたね。百姓や町人などの民間人が保存運動をしたところだけが残ったとも言えます。

この西洋化に対して、各地で反乱が起きます。それは将に「攘夷」運動です。黒船に始まった尊皇攘夷運動が、形を変えて再燃したのです。ペリーが浦賀にやってきたのが1853年ですから20年の時を経て、再び攘夷熱が巻き起こりました。尊皇攘夷運動は討幕という目的に姿を変えて戊辰戦争へと展開していきましたが、第二次攘夷熱は「尊武攘夷」とでも名付けましょうか。武士道精神復活を看板に掲げます。

武士道と言えば佐賀・鍋島藩の「葉隠」がとみに有名ですが、その佐賀で江藤新平が真っ先に反乱を起こし鎮圧されました。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という冒頭の文句が知られていますが、「義のためなら死をもいとわず」という意味で、現在の米軍の行動を見ていただければ分かり易いと思います。米国の国益とあまり関係のないシリアなどに「化学兵器廃絶」という国際ルール(正義)を貫こうと爆撃を加えようとしています。これは米国の国是ともいうべきものなのでしょう。世界の警察官を自認していますからね。

この攘夷運動は「欧化政策反対=外国語反対=キリスト教反対」と連想ゲームを展開し、襄や八重の同志社を襲ってきます。上記は等式とは呼べませんが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の喩えの通りの論理展開ですから、数学のようには証明できません(笑)

150、「何でも経験してみるものです。良いものは良い」
八重に衝撃が走った。<良いものは良い>胸にすとんと言葉が落ちていく。
この言葉を自分はずっと探していたと八重は思った。

言葉にはリズムがあります。そのリズム感の良い言葉は胸に響きます。これには個人差があって、一概には言えませんが、日本人にとっては七五調というものが比較的合い易いようですね。和歌、俳句などがそれで、都都逸や民謡、歌謡曲などもこのリズムの延長にあります。これは幼年教育、家庭教育などの環境によるもので、いわゆる『伝統文化』の一つですね。知らず知らずに染まっているものです。

八重の胸に「ストン」と落ちたのは…什の訓(おし)えと似ていたからでしょうね。

「ならぬものはならぬ」父母から絶えず聞かされていた言葉のリズムに近いのです。

それが…否定形から肯定形に代わっています。八重のような前向きの人にとって、否定語よりも肯定語が響きやすいのは当然です。会津藩は、「幕府を守る」という国是を持つ組織でしたから「…してはいけない」というトーンが強かったのですが、襄の話す言葉は常に前向きです。開拓者精神にあふれています。これが…八重に勇気を与えます。

この言葉のやり取りがなされたのが蒲団か、ベッドかの話です。他愛のないこと甚だしいですが、明治の日本人すべてが「良いものはいただく。良いものは残す」という前向きの精神にあふれていました。それが、今日の日本を作り上げた原動力だと思います。

その意味で、最近の日本企業は心配です。良いも悪いも取り入れ、ついでに、欧米人を社長として崇め立て大枚を支払います。「良いものは良い」ですが「ならぬものはならぬ」ということも忘れないでいただきたいものです。

151、明治9年3月28日、廃刀令が発布され、大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁じられた。数日後、武村俊秀が山川浩を訪ねてきた。武村は浩に、帯刀令を痛烈に批判する新聞記事を見せた。武村が書いたものだという。

士族の不満に火をつけたのがこれ、帯刀禁止令です。「武士は食わねど高楊枝」武士には誇りと意地がありました。たとえひもじくとも満腹のように振る舞うというプライドです。腰に二本差している…武器を持ち、正義を貫く…これこそが武士の生きがいです。武士道の世界です。これを取り上げる…革命です。失業中の士族にとって最後のよりどころであるプライドまで奪われます。不満は最高に高まって当然です。

が、歴史的にみると、大久保独裁と言われたこの政策は日本の将来を大きく左右しました。野蛮国から先進国家への大きな転換につながりました。アメリカ合衆国を見てください。あの国はいまだに野蛮国です。国民から銃を取り上げることができていません。丁髷(ちょんまげ)のままで「世界の警察官」だなどと威張っていますが…所詮は丁髷文化です。

ただ、今の日本は行き過ぎです。国家としてまで廃刀令をやることはありません。近隣は「ならず者国家」が取り囲んでいますよね。国民は廃刀しても、国家まで廃刀してはいけません。「寄らば斬るぞ」と自衛力が行使できなくてはいけないと思いますよ。

152、9月、熊本洋学校の生徒たちが、同志社英学校に入学してきた。彼らはその結束の固さから、後に熊本バンドと呼ばれることになる。彼らは「奉教趣意書」に誓約したために国を追われた者たちで、生活のすべてに宗教的規律を重んじるほど信仰は篤く、その上ジェーンズの元で高度な教育を受けており、広範で深い知識を有していた。

熊本藩は戊辰戦争においては中途半端な態度を取りました。横井小楠など尊皇攘夷の思想的指導者や、宮部鼎蔵の様な過激的政治家、川上玄斎のようなテロリストを出すなど、幕末の脇役(?)を大勢輩出しました。横井が作戦を立て、宮部が指揮し、川上が先陣を切って幕末の嵐の中に乗り出せば、薩長以上に活躍したと思いますが、いずれもバラバラ…。その上、殿さまの細川公は優柔不断。結局は乗り遅れます。会津ほどではありませんが賊軍のレッテルを貼られます。

このレッテル、政府に仕官すると大変なのです。軍隊では「将」にはなれません。官吏では課長どまりです。この差別は大正期まで続きます。軍の将官は薩長独占、高級官僚は薩長土肥でしたね。

賊軍出身者が身を立てるには学問しかありません。読み書きそろばん…西洋知識の読み書きそろばんができるのが、まずは必要条件です。そして人間力が十分条件です。

この熊本バンドに、後の徳富蘇峰、蘆花の兄弟がいます。八重のライバルです。

153、10月末、ついに明治政府への反乱が立て続けに起こった。熊本バンドを追い詰めた士族による熊本・神風連の乱。福岡の秋月の乱、山口の萩の乱。 政府軍に敗れた士族らは西郷のいる薩摩に流れていった。そして東京でも…

20年前の攘夷運動が組織的に暴発します。第一次攘夷は、京の都を舞台に「鴨の河原に千鳥が騒ぐ あわや血の雨 涙雨」などと小規模な戦闘でしたが、第二次攘夷は軍によるクーデターです。武器は刀ではなく鉄砲、大砲です。

山口、秋月、神風連…政府軍の数と銃器の威力に数日で鎮圧されます。政府軍は士族が思っていたほど腰抜けの平民ではなく、士族以上に軍人としての教育を受けていました。徴兵令から3年、その間に政府軍の軍事力は飛躍的に向上していました。戊辰戦争の時の比ではありません。しかも、その政府軍には食いはぐれた会津などの賊軍士族が多数、下士官として混じっています。仇討の心意気にあふれています。次の歌は西南戦争の時です。

薩摩人 見よや東(あずま)の益荒男(ますらお)が 下げ佩(は)く太刀の鋭(と)きか鈍きか (山川浩・元会津藩家老)