水の如く 37 豊臣バブル

文聞亭笑一

前回はだいぶ先まで書きすぎましたね。半分は今週の放送予定のようですし、官兵衛の隠居願いはもっと先のようです。そうなると…、私の手元にある資料では引用するような事件がありません。困っております(笑)

ともかく、黒田家は新任地に落下傘で降り立ったような環境ですから、地元民たちは「お手並み拝見」と冷ややかに新領主を迎えます。それに加えて宇都宮一党が「黒田はうそつきだ。本領安堵の約束を反古にして、自分が領主になるという卑怯者だ」と宣伝しますから、やりにくいことといったらこの上ありません。政治経験の浅い息子の長政やその部下たちがイライラし、力づくで鎮圧しようとするのは当然のなりゆきです。

長政が総攻撃をかけた城井谷城ですが、城の大手門が右図の写真のように巨岩、巨石を利用した天然の要害で、人数が多いからと言って攻め落とせるものではありません。この時の長政の動員能力は2000人ほどだったと言いますが、わずか300人の宇都宮勢に手こずってゲリラ攻撃を受け、大勢の死傷者を出して撤退せざるを得なくなりました。

圧倒的火力を有する世界最強の米軍が、アルカイダやイスラム国などのアラブゲリラにてこずるのと変わりありません。先ずは民衆の支持を取り付ける・・・という官兵衛の行き方しかありません。

ところが、隣国の肥後では暴動が拡大して、佐々成政はその責任を問われて切腹させられています。宇都宮一族を放置していたら増上慢になってきている秀吉が何を言ってくるかわからないという不安もあります。「秀吉に泣きついて仲裁を仰ぐ」と言うのが最善の道でしたね。

145、中津に築城

先週の#36で「黒田のもらった豊前6郡は現在の大分県の北半分にあたる」と書いたのは大間違いでした。京都郡、築上郡は現在の福岡県に当たります。周防灘に面する地域で、福岡県の行橋市から大分県の宇佐市に至る一帯が領地になります。平野部は海岸線に近い所に広がり、山間部の谷合に耕地が点在します。

この地域を統括し、交通の便を確保するためには、戦国以来の山城では不便ですから、官兵衛は領地の中央に位置する中津の海岸近くに城を築きます。英彦山から耶馬溪(やまけい)を流れ下る山国川の河口に、12万石に相応しい新城を縄張りしました。

改めて地図に見入ると、海岸近くに政治の拠点を持って来たというのはさすがですね。物流、流通の大切さをよく理解していたと思います。陸路を使うよりも海路、水路を使う方が遥かに効率的です。こういう発想は官兵衛自身が縄張りした大阪城築城で身につけたのでしょうか。経済に関する目配りが他の大名たちとは一味違います。

余談になりますが、中津城は関が原の戦まで黒田家の居城でしたが、黒田長政の関ヶ原での大活躍で黒田家は筑前福岡52万石に栄転し、その後に細川家が入ります。更に、細川家が小倉に拠点を移したため一時は廃城になりますが、その後、小笠原家が入り、さらに奥平家が入って明治まで中津10万石の藩都として城下町を維持しました。江戸時代に藩主の交代は当たり前で、関が原以来ずっと同じ城を維持した大名家の方に希少価値があるほどでした。これは、一種の反乱予防措置で、城主と民衆が一体感を持たないように、一致団結して幕府に対抗しないようにと言う政策でしたが…薩摩、長州、土佐、肥前など討幕の中心となった雄藩は皆、無転勤大名家でしたね。

明治まで話が飛んだついでに、中津藩出身で明治に活躍した人に福沢諭吉がいます。そう、慶應義塾の創始者で一万円札の顔です。諭吉の思想にはイマイチ距離感を覚えますが、一万円札は好きですねぇ。大好きです。お近づきになりたい…(笑)

146、茶々の才能

秀吉は茶々を第二夫人に迎え、我が世の春を謳歌しています。今回の配役は美人型ではなく、気の強そうな、やんちゃ顔の女優を配していますが、案外実際の茶々に近いのかもしれません。ただ、そのうちに演技が変わるかもしれませんが妖艶さが出ていませんね。気が強くて頭が切れるだけなら正夫人の寧々と同じタイプになってしまいますから、全く違う性的魅力にあふれていたと思います。

茶々に関しては、どの歴史書も、小説も、良い書き方をしていません。悪女の代表みたいに言われることの方が多いのですが、果たして実像はどうだったのか? 

後に、自尊心の塊のようになり、家康と一切妥協せず家を滅ぼした元凶のように描かれますが、これは徳川幕府による歴史の捏造です。家康は茶々を散々騙しておいて、最後に捨てたのですが、それを隠すために悪女に仕立て上げたのだと思いますね。

関が原の後14年間、豊臣家がなぜ潰れなかったのか。あれだけ華美な生活を続けるのに摂津、河内、和泉の現在の大阪府から上がる年貢72万石だけでは足りません。しかも、家康が要求した神社仏閣の修理費たるや莫大な金額でした。秀吉の貯め込んだ金銀を食いつぶしていくはずです。が、大坂の陣が終わっても、大阪城のご金蔵には金銀が溢れていました。なぜでしょうか。

茶々には抜群の金融業者としての才覚があった、というのが最近の説です。要するに、金貸しです。秀吉の残した莫大な金銀を信用に金融支配をしていたとみるべきでしょうね。言ってみれば日銀総裁的な機能を果たし、その利ザヤは72万石の収入に匹敵したかもしれません。関が原の後は建設ラッシュで、一種のバブルでした。徳川恩顧の大名は江戸城建設、名古屋城建設や利根川改修、木曽川改修などに狩り出されますが、その資金繰りは大阪城からの借財や、裏金ではなかったかと推測できます。

茶々に、こういう知恵を付けたのが石田三成、小西行長などの経済官僚でしょう。秀吉に重用された大阪の米問屋・淀屋などが運用実務を取り仕切っていた可能性があります。家康と政治権力と茶々の金権…その対決が大坂の陣と考えると、政府VS経団連みたいで、別の歴史が見えてきそうです。

147、信長公記、太閤記

この頃から秀吉は自分を飾るための「自伝」の執筆に取り掛かります。信長公記は信長の祐筆であった太田牛一をお伽衆に加えて、彼が書き溜めてきた日記をもとに編集しています。木下藤吉郎などという記録は殆どなかったものに草履取りの活躍、炭奉行としての活躍、石垣の分業制など秀吉自身の活躍場面をはめ込ませました。

もう一人、播磨以来の祐筆・大村幽古に太閤記を書かせます。こちらは秀吉の自慢話を口述筆記させ、それに世間の出来事などをはめ込んで編集させます。が、中国攻め辺りから大村幽古自身が事実を知っています。秀吉の発想ではなく、竹中半兵衛、黒田官兵衛の着想であったものを自分の手柄の様に書かせようとする秀吉に嫌気がさして、途中で逃散します。仕方がないので…秀吉は途中から太田牛一に描かせています。

大村幽古は、どちらかと言えば司馬遼太郎型作家でしょうか。自身の思想・史観があります。一方の太田牛一は山岡荘八型でしょうか。主役の賛美に徹します。

148、聚楽亭の建設、お土居

朝廷から第6の摂関家、「豊臣」の姓をもらった御礼にと、秀吉は京都御所を守るためのお土居(防塁)を作り、聚楽亭を建てます。

豊臣…この姓を作った近衛前久以下の公家たちの思いは…どうだったのでしょうか。

「下郎上りが生意気に…」「思い上がり者め」「けど…しょうがおへん」「なら、ひとひねりしてみまひょか」…こんな会話があったかどうか…。公家にとって面白くないことだけは事実です。豊臣…字をそのまんま読めば「豊かなる臣下」です。

「大金持ちの成り上がり者でんな」「所詮は帝の臣下でおじゃる。大したもんやおまへん」こんな気持ちだったのではないでしょうか。

お土居…これほど無駄なものはありません。軍事的防衛能力には期待できません。が、素人の公家に対しては、雀脅しと言うか、アピール効果はあったでしょうね。

聚楽亭も、京文化の粋をすべて注ぎ込みました。その意味で秀吉にとっては万博パビリオン「豊臣館」と言った位置づけだったでしょう。北野の茶会と言い、秀吉の広告宣伝能力は見事としか言いようがありませんね。京の民衆に秀吉人気は絶大です。冷ややかな公家と熱狂する庶民…これが当時の京都だったと思います。

さらに、お土居の工事は失業対策工事として大いに結構な政策でした。巷に溢れる浪人、浮浪者に仕事を与えます。おカネを回します。まさに万博効果でしたね。