乱に咲く花 38 江戸無血開城
文聞亭笑一
いやはや、テレビに映る内容と、維新の大改革の落差、時間差が大きくてまごつきます。
先週、版籍奉還にまで進みましたが、その間にあまたの事件、改革がおこなわれ日本全国は混乱の渦に陥っていました。歴史年表をおさらいしておきます
慶応4年(明治元年・1868)
1月 鳥羽伏見の戦・・・錦の御旗、幕府軍京阪から撤退、将軍・慶喜江戸に逃れる
2月 慶喜、上野寛永寺に謹慎
3月 西郷・勝会談 五か条の御誓文発布
4月 江戸城無血開城 太政官制を敷き明治政府発足
5月 奥羽列藩同盟結成、上野彰義隊の戦
7月 越後長岡城の戦・河合継之助戦死
江戸を東京と改称
9月 会津藩、盛岡藩など降伏 奥羽戦争終結
明治2年
3月 明治天皇東京に遷る・東京遷都
5月 函館五稜郭降伏 戊辰戦争終結
6月 版籍奉還
・・・・・・・
ここいらを……、すべてすっ飛ばしましたね。ですから視聴者としては混乱してしまいます。
慶応4年は内乱の年です。薩長は別として、日本全国の諸藩は尊皇派に就くか、佐幕派に就くかで大揺れでした。早めに官軍に就いた藩は優遇されましたが、佐幕勢力が強かったり、議論が紛糾して参加が遅れた藩は冷遇されています。
どの藩がどうだったのか? 簡単に見分ける方法があります。
現在の「県名」と県庁所在地の都市名を比べてみてください。違う所は「賊軍」とされたか、「日和見のケシカラン奴」とされたところです(笑)
具体的に言えば関東、中部が殆どそれですね。この辺りの県名の変遷を見れば、維新時の藩の内情が分かって実に面白いですよ。皆さんのお住まいの県はいかがでしょうか。歴史と伝統・・・これがあるから選挙の区割りも改革できないでいます。
新政府に睨まれた藩をまとめておきます。
朝敵とされた藩;松江、姫路、松山、高松、尾張、水戸、小田原、川越、佐倉、松本、高崎
曖昧藩;熊本、宇和島、徳島、金沢、富山、岩槻、土浦、
最もひどい仕打ちを受けたのは越後で、海辺の寒村であった新潟を県庁とされ、県名も新潟県にされました。東北は皆、朝敵ですが早めに降参した山形、秋田などは目こぼしされています。
熊本、徳島、富山も県名が県庁所在地に復活したのは明治10年以降です。
このリストを見て面白いと思うのは国宝の城が残ったのが、彦根を含めていずれも朝敵藩です。政府の「城打ち壊し令」に住民たちが抵抗したんでしょうね。国宝ではありませんが、重文として残っている城もこの中に多いですねぇ。急激な改革は難しいものです。
江戸城、無血開城
維新戦争の中で奇跡的だったのは、幕府が全面降伏した江戸城の明け渡しでした。
この立役者となったのが幕末三舟といわれる勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人です。勝が独りで西郷を説得したように伝わっていますが、この三人に大久保一翁を加えた幕府の終戦処理プロジェクトが活躍したればこそ、西郷が東海道を駆け回って戦争を回避したのです。
幕府は先ず、降伏条件を決め、それを持った山岡鉄舟が駿府で西郷以下と交渉します。
その間、慶喜を徹底抗戦派に拉致されぬようにと、高橋泥舟が上野寛永寺で監視します。抗戦派が慶喜の身柄を握り「将軍の命令である」などと大義名分を与えないための処置です。
そして、勝海舟は江戸市中の顔役、火消、博徒などを組織し、焦土作戦の準備をしています。これはナポレオンがロシアで負けた前例に倣い、官軍を江戸市中に引き込んだ後に、周りから火をかけて焼き殺してしまおうという焦土作戦でした。この顔触れの中に新門辰五郎、清水次郎長などがいます。火消したちは、言い換えれば火付け,放火のプロです。
江戸市民100万人を人質に取ったような、破れかぶれ作戦ですから凄みがあります。
この作戦に西郷も気が付いていたようですね。うかつに総攻撃などしたら勝の思う壺にはまりますし、そうなった時、最も被害に遭うのは先鋒として陣取っている薩摩兵なのです。
二人の会談は二度あります。
3月13日、高輪の薩摩屋敷で会います。この時は互いの降伏条件を確認しただけで終わり、翌日、田町の薩摩藩の蔵屋敷で会います。この場面が映画や、ドラマに良く出ます。
現在ではJR田町駅の改札口を出たところに勝・西郷会談場面として大きなタイル製のモザイク画が飾ってあります。地上への階段の上あたりですから階段と会談をもじったのでしょうか。さらに国道を少し北に歩くと「勝・西郷会談の地」という石碑が建っています。会談当時はそのあたりが海岸線で船着き場だったようです。明治五年に新橋横浜間に鉄道が敷かれますが、薩摩藩が用地買収に応じなかったため、田町、品川間は海中を埋め立てて敷設されました。鉄道建設をしたのが伊藤博文・井上聞多の長州コンビですから、薩摩の嫌がらせでしょうね。現在の品川駅は全く海中の、出島のようでした。(図・参照)
薩摩屋敷の跡にはNECのロケットビルが建っています。
余談はさておき、3月14日の会談で両者の対立点は一つだけでした。
「将軍・慶喜の生命の保証」この一点に、勝はこだわります。
これって、太平洋戦争の終戦の時の「天皇」とよく似ています、というより、そっくりです。
幕府の象徴が死を免れるということは、幕臣すべてが死を免れるということで、抵抗する理由が無くなるからにほかなりません。幕臣たちを抑えるための方策です。
「将軍の命さえ保証出来たら武装解除する、江戸城も明け渡す。さもなければ徹底抗戦する」と西郷を脅します。
西郷も独断できません。駿府へ、京へと走り回り、強硬派の岩倉、三条、大久保を説得します。これに一役買ったのが木戸孝允(桂小五郎)で、弁舌たくましく公家や大久保をねじ伏せました。
「江戸市民百万人を殺して、何のための御一新か」
西郷の京都往復は10日間かかりましたが、その間に勝は次の手も打っています。
勝はこの間に横浜に単身で乗り込み、公使のパークスに「いざとなったら慶喜のイギリス亡命」の約束を取り付けています。それがあって江戸前の海にはイギリス軍艦が遊弋し、官軍の海上からの動きをけん制しました。官軍にとっては気持ちの悪いことです。
かくして無血開城が実現しました。江戸市民にとって、長い、長い半月間でした。
高橋泥舟…聞き慣れぬ名前だと思います。私の座右の銘でもある歌を詠んでいます。
欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う
上野寛永寺で、慶喜に説教しながら作った歌でしょうか。
この後は…一昨年の大河ドラマ「八重の桜」ですねぇ。上野彰義隊の戦、宇都宮合戦、二本松少年隊、長岡の戦、会津落城そして函館・五稜郭へと戦闘が続いていきます。
「維新は無血革命である」というのは嘘で、各地で多数の血が流れました。歴史の教科書には出てきませんが、全国の藩という藩で「勤皇」と「佐幕」に意見が割れ、多くの血が流れています。その後も萩の乱、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争と続きます。人の心に巣食う「欲」とは実に怖いものです。
今年のドラマは吉田松陰とそれに連なる人脈の物語ですが、最少の犠牲で済ませた功績者は、勝海舟から龍馬に繋がる人脈だろうと思います。
国内での戦争では関係ないのだが、万国公法がすべてに通じると西郷は思っていた。この後も、明治の政治家、軍人、官僚たちは皆、国際法を順守することが何よりも大事だと考えていた。
国際法を守らなければ世界の一員になれないと信じ、大切にしていたのである。
が、昭和の軍人たちはこれを無視した。宣戦布告文書にあった「国際法を順守し」の文言を削ってしまったのは東条英機である。マレー上陸作戦ではタイに無断で上陸してしまった。
官軍の者たちに国際法の教育をしたのは坂本龍馬だったでしょうね。勝海舟が長崎や米国訪問で仕入れてきた知識を龍馬が咀嚼し、彼なりのわかりやすい解釈で、薩長の要人たちを教育した成果でしょう。日本の内戦に英仏など列強が介入できなかったのも、薩長、幕府共々に国際ルールを遵守していたからだと、引用した部分で「維新史」の著者・半藤一利は強調します。
力を背景に国際ルールを無視した行動を行う国がありますが、ルールを順守してこそ平和が保てます。とはいえ、ルールには限界があります。箸の上げ下ろしまでルール化できません。
そのあたりですよね。どこまでルールとし、どこから倫理規定とするか…悩ましい所です。
個人情報保護なども、解釈に幅があり過ぎて世の中を住みにくくしています。
目下、国勢調査の時期ですが、あの程度の情報なら目くじら立てることもあるまいと思うのですが、嫌がる人もいるんですねぇ。調査員をしている人たちが悩んでいます。そこに住んでいること自体を…知られたら困る人もいるのでしょう。情報化時代のマイナスの側面、影の部分なのでしょう。余計な詮索はしないことにしています。