どうなる家康 第31回 織田家相続

作 文聞亭笑一

北庄城の落城、お市と茶々の会話場面・・・お市と竹千代の恋心、幼き頃の約束事・・・

これでようやく、今回の古沢脚本の基本図式が読めてきました。

約束を破った竹千代(家康)への恨み、裏切られた母の思いを引き継ぎ、織田家再興に向けて秀吉や家康を相手に捨て身の政略を仕掛けていく茶々(淀君)・・・これを基本線として物語を捏造しようという魂胆のようですね。

捏造・・・は、言い過ぎですかねぇ?

 しかし・・・家康とお市の恋はあり得ません

家康・竹千代が今川家に行くべき所を、織田に奪取されて人質になったのは6歳の時です。

家康の生まれは1542年、単純計算で尾張の人質時代は1548年となります。

一方のお市、生まれは1547年です。

1548-1547=1 お市は1歳

竹千代が監禁されていたのは熱田、お市が生まれ、育ったのは清洲、まず接点はありません。

溺れる赤ん坊(1歳)のお市を、幼稚園・年長組の竹千代(6歳)が救う

・・・30cmほどの水深の、幼児用プールでの出来事ならあり得ますが・・・ その事を1歳の幼児が記憶に留めていることができるでしょうか。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」こんな遊びができるのは3歳児くらいからではないでしょうか。

素人の私ですら、この程度の歴史考証(?)はしますが・・・小和田先生はどういう考証をしているのでしょうか。

「竹千代とお市の約束があり得た」とお考えだから前回の放送を許可したのでしょう。

それとも・・・意見を無視されましたかね。

ならば考証役を降りた方が良いですね。

それに・・・今回は配役を大胆なほどのケチっていますね。

秀吉の取り巻きで軍師の黒田官兵衛、子飼いの清正、正則、三成などといったところを登場させず、すべて弟の小一郎・秀長に代行させています。

経費削減ですかね。

ならば、大河などと銘打つのを止めたら良い、民放ができない大型番組を作ることこそ公的放送の役目です。

視聴率を気にする民放のヒガミ、ヤッカミ、ガーシーなどの犯罪者を出す泡沫政党の批判を気にしていてはいけません。

 背筋伸ばせNHK!!

織田家相続

この時期、不思議なことは「織田勢力圏」に攻め込もうという勢力が現れなかったことです。

織田勢力圏の東は、丁度・・・フォッサマグナ東端の隆起山脈地帯でした。

東海道は富士川、中山道は碓氷峠、北陸道は親不知です。

北条が碓氷峠を越えましたが・・・撤退しました。

西は、備中・伯耆のライン(現在の岡山・鳥取)で、毛利との交渉が成立しています。

四国は長宗我部がやりたい放題、九州は島津のやりたい放題で、双方とも中央政治に感心なし。

その意味では・・・織田家相続権者が信長政権の跡目争いをしている余裕があったのです。

清洲会議の時点で、幼児の正嫡・三法師を飾り物に据えましたが、織田家を相続する資格のある者は四人います。

①次男・信雄

②三男・信孝

 が血統として本命ですが、政治的実力として見ると

③信長の妹・お市を妻にした柴田勝家

④五男・秀勝を養子にしている羽柴秀吉

四者の準決勝として行われたのが賤ヶ岳、北の庄です。

①④連合が②③連合を潰しました。

決勝は①対④になります。①信雄の応援団として家康が登場します。

織田家の御曹司・信雄

織田信雄という人、これまでの歴史家、歴史小説家の評価は芳しくありませんが、信長の息子の中では長生きした一人です。

秀吉という・・・天下一の知恵者? 詐欺師?がいます。

その相方・呆け役・馬鹿殿として、戦国物語に描かれるのが信雄です。

一度は「馬鹿殿スター・志村けん」にやらせてみたかった役柄ですねぇ(笑)

実は信雄、それほどの馬鹿殿ではなかった様です。

むしろ知的能力には普通(凡人)以上で、あれこれの意見を聞きすぎて・・・決断がぶれてしまった・・・典型的二代目タイプだったのではなかったか。

親の信長が偉大すぎて(即断即決タイプ)比較されるのが気の毒です。

信雄が代表を務めてきた清洲の尾張・伊勢政権・・・信長が派遣した付家老が仕切ってきました。

「良きに計らえ」と言っておけば内政は安定しています。

が、外交はそうはいきません。

準決勝が終わり、柴田、滝川、そしてライバルの信孝が消えた今、秀吉と「組むのか、戦うか」決断が要ります。

準決勝までは秀吉と組んできましたが・・・、ここのところ秀吉の態度が気に入りません。

上位目線で、信長以来の付家老達に指図してきます。

自分(信雄)は信長の息子である=殿様である

秀吉は信長の家臣である=織田家の家臣、つまり自分の家来である

にもかかわらず・・・時に、いや、頻繁に家老を通じて内政に干渉してくる・・・ケシカラン!!

これが・・・小牧・長久手の戦い、秀吉と家康の合戦、互いの知恵比べへと発展していきます。

家康にとっても秀吉に臣従するつもりはありません。

「いずれは一戦を・・・」と覚悟していますから、信雄からの支援要請、援軍要請は「待っていました」と、渡りに船です。

「主筋をないがしろにする横着者を退治し、織田本流を立てる」

大義名分も立ちます。

外交合戦

相手の敵は味方・・・孫子の兵法以来、戦略の基本は変わりません。

今もロシアがアフリカで、フランスに揺さぶります。クーデターなど起こさせます。

織田家相続戦・決勝戦に参戦した家康は「敵の敵」に外交作戦を展開します。

大阪から退去しましたが、紀州の雑賀孫市などと組んで勢力を維持している本願寺。

信長時代の四国征伐が未実行に終わり、息を吹き返した長宗我部

秀吉とは馬が合わない越中の佐々成政

などに後方攪乱を依頼しながら・・・清洲、そして小牧へと陣を進めていきます。

一方の秀吉、得意の宣伝力で兵力、軍事力の差を広報していきます。

とりわけ秀吉が警戒したのは近衛前久以下の公家衆で、彼らの動きを封印しました。

秀吉が、終生・首尾一貫して持ち続けた価値観は「欲と金」の金権政治です。

公家や、宗教家などが持ち込む倫理観などは邪魔になります。その点では信長と似た独善的なところがありました。

秀吉に付いていけば領土が広がる、石高が上がる、・・・いわゆる出世ができる

これが秀吉に人気が集まる秘訣なのです。秀吉の元には10万近い軍勢が集まります。

かくして木曽川の周辺に両軍勢力が布陣します。

互いに睨み合い・・・先に動いた方が不利と互いに相手の出方をうかがいます。