八重の桜 38 新しい家族

文聞亭笑一

今週からまたNHKのネタ本が切れました。手探りになります。

放送と同期しなくなりますがご容赦ください。

今週は、同志社の立ち上げの場面で、京都府の妨害や、宣教師たちの批判的態度、さらには熊本から転校してきた学生たちの抵抗などが描かれると思いますが、少し主題から外れた話をしてみます。

明治新政府は、改革急進派の大久保利通が中心になり、「目に見える改革」を強引に進めていました。「ご一新」を国民全体に知らしめようと思い切った政策を次々に打ち出します。廃仏毀釈運動では仏教寺院がやり玉に挙げられましたが、もう一つ、幕政の象徴として標的にされたのが城郭です。明治初年、全国には186の城郭がありました。すべてに天守閣が建っていたわけではありませんが、この天守閣こそ旧体制の遺物…打ち壊してしまえという方針が出されます。

新政府の首都となった東京を中心とする関東では、次々と天守閣が破壊されて行きます。城門の一部や、内装の美術品が寺社や豪農、豪商に引き取られて残りましたが、ほとんどの部材は二束三文、薪代わりとして燃やされてしまいました。

関西以西は、政府の影響力が及ばず、破壊されなかった城郭が多かったのですが、九州はその後の西南戦争で、戦火に焼かれたり、政府軍による打ちこわしにあって全滅しましたね。昭和4年に施行された国宝保存法に残された城郭は僅か22城、そのうち天守閣が残ったのは18城にすぎません。

今から考えると、実に惜しいことをしたものです。

ついでですから、残った城を紹介しておきます。

世界遺産  姫路城

国宝    松本城 犬山城、彦根城

重要文化財 弘前城、丸岡城、松江城、高梁城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城

戦火焼失  名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城

失火による焼失 松前城

世界遺産の姫路城は勿論、国宝、重文の天守閣はぜひ後世に残しておきたいものです。

さて、それに…もう一つの大改革が進んでいました。

年貢米 税と名を変え金納と 勤皇政府の百姓虐め

政府には金がありません。戊辰戦争で諸外国からの借金は年間予算の10倍近くにも膨れ上がっています。これを返済しないことには不平等条約の改正もままなりません。相場変動のあるコメでは税収が不安定になりますから、一気に金納に切り替えました。相場リスクを百姓に押し付け、政府は安定収入を得る…というやり方です。この改革で暗躍したのが悪徳商人(?)ですねぇ。米相場を巧みに利用して蓄財しました。

西南戦争勃発前夜、全国に不満のエネルギーが蓄積していました。

154、同志社にやってくる生徒も30人を超え、ラーネット、テーラーの教師としての雇い入れ、京都在住許可も聞き届けられた。そうしたある日、襄がアメリカに滞在中知り合ったボストンの富豪シアーズから、住居の建築資金が送られてきたのは、思いがけなく、襄の喜びは大そうなものだった。

当初、数名の生徒から始まった同志社英学校ですが、徐々に生徒が増えてきます。生徒のレベルもまちまち、勉学の進み方もまちまちですが、「読み」「書き」が中心ですし、寄宿舎住まいで切磋琢磨しますから習得は進みます。そもそも、この時代に英語を学ぼうというのですから、意欲が違います。教育の課題はまさにこの意欲の有り無しによりますね。後の京都師範学校長・西村師が教師志望の学生に「教えない教え方をせよ」と訓示したのは、まさに、このことだろうと思います。

先日、小中学校の都道府県別成績順位が新聞に載っていました。秋田県、福井県が上位で争っています。かつての教育県は上位ランキングに顔を出しません。豊かになって、意欲を出す選択肢が増えたのか、それとも子供たちの活力が減退したのか、原因を探ってみるのも教育課題ですね。

155、襄の父母、それは八重にとっては舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)に他ならなかった。一度嫁いだ身であるとはいえ、その時も他家に入ったわけではなく、舅姑に仕えたことのない八重は新たな不安に心が揺れた。

核家族化が進んで、舅とか姑とかいう言葉が聞かれなくなりました。大家族が消え、三世代同居という家族構成が見られません。近所に住んでいても交流の少ない親子が増えて、爺婆と孫との接点が薄らいでいます。これは進歩か、それとも退歩か、意見は分かれるかと思いますが、子供の人間性を伸ばすには世代間の交流が欠かせないと思います。ましてや母親が社会進出する傾向にあっては、祖父母による幼児教育ほど安心なものはないと思います。漫画の世界では、日曜夜の「ちびまる子」も、「サザエさん」も二世帯同居です。家賃負担もなく、保育園の心配もいらないのに、あえて別居するのはもったいないですねぇ。引用した文章に「舅姑に仕える」という表現が出てきますが、その感覚は既に現代では消えているでしょう。現代の爺婆は、自分の意見を嫁に押し付けるほど傲慢な者はいないのではないでしょうか。

ともかく、八重には新しい家族構成が待ち受けていました。

156、八重は胸にボンネットを持ったまま頭を下げたが、洋装の自分を伺うような目で見る民治ととみの視線が、なぜか忘れられなかった。その眼差しは、襄が、いつものように八重の手を取って人力車に誘う時にきわまり、何か忌まわしい物を見つめる時のように、眉をひそめるのであった。

上州(群馬県)安中から襄の両親と姉、それに甥が出てきます。安中藩は中山道の要所である碓氷峠の関所を管理し、西国からの敵が関東に入る際の最初の難関でもありますから、譜代大名の中でも信任の厚い藩主に任されていました。板倉家が入る前は井伊、水野、堀田などが城主を務めています。

維新からまだ10年、上州・安中の田舎から出てきた両親は、八重の服装にはたまげたでしょう。ボンネット(帽子)に洋服、スカートに靴といういでたちは、襄の両親を驚かすには十分でした。<本当に日本人か?>と疑ったでしょうね。

さらに…襄がやるアメリカ仕込みのレディーファストも驚きです。男尊女卑が当たり前の時代に生きてきた者には信じられない光景です。「とんでもない嫁をもらったものだ」と、この先の京都暮らしに失望したかもしれません。

157、襄の父、新島民治は、かつて安中藩江戸屋敷詰の祐筆を務めていた。襄も、江戸神田小川町にあった江戸屋敷内の武家屋敷で生まれている。江戸城が開城となってからは安中でおよそ8年間過ごしている。
八重は民治もとみも老いているとはいえ、気位が高そうに見え、気おくれを覚えた。そして、漠然とではあるが、初めて舅姑に仕えることの辛さを感じた。

祐筆という役割は、現代の言葉でいえば秘書です。殿さまの私文書を含めて代筆するのが仕事ですから、藩の機密を含め藩政のすべてを掌握している立場でした。3万石の小藩とは言え、東京本社秘書室ですから気位は高かったと思います。礼儀作法を含めて、江戸期の習慣が色濃く残っていたでしょうね。

八重とて、会津時代は日本的伝統の中で生きてきましたし、什の訓えで育てられてきましたから、舅姑との付き合いに困ることはありませんが、仕事の上では外国人教師と洋装でアメリカンモード付き合い、家に帰れば日本式に切り替えるというバイリンガル、二重人格的対応をしなくてはなりません。これは辛かったと思います。

嫁姑の関係に限らず、新しい環境になじむには苦労はつきものです。三日、三月、三年などと言いますが、相手を理解し、自分を理解してもらうには時間がかかります。新入社員が会社に馴染むのも同じ、先輩たちの気づかない苦労をしています。地域社会もまた同じ。会社人間が地域の住民になるのにも時間がかかりますね。