水の如く 41 ブレーキの壊れた車

文聞亭笑一

ホンダの創業者・本田宗一郎の言葉に「ブレーキがあるから車は走れる」という言葉があります。ハンドルを握ったことのある方なら納得いただけると思いますが、車にとってはエンジンよりも、ハンドルよりも重要な機能ですね。止まらない車に乗る恐怖…死を覚悟せざるを得ません。ブレーキが効いても、凍った雪道などでその恐怖感を経験された方もおありでしょう。私は若い頃(昭和40年代)にブレーキオイル・パイプの破損で全くブレーキの利かない状態を経験したことがあります。エンジンブレーキと、サイドブレーキで、何とか事故をせずに首都高を降りましたが、生きた心地がしませんでした。

秀吉の政権が、自らブレーキを失って、いや、壊して…、暴走を始めます。

秀吉が政権を執ったのは、賤ヶ岳の合戦でライバルの柴田勝家を破り、信長の後継者であることを天下に示して以来です。が、その頃の秀吉の帷幕(閣僚)は、尾張以来の弟の羽柴秀長、蜂須賀小六、前野将衛門という面々に、軍師としての黒田官兵衛加えた体制でした。

ところが、秀吉の立場が安定するにつけ、帷幕の若返りを図ります。蜂須賀小六は死に、前野将衛門や黒田官兵衛は遠ざけられ、軍事面では加藤清正、福島正則が台頭し、内政面では石田三成などの奉行衆が重用されます。

組織の若返りは結構なことで、「新しい革袋には新しい酒を」と言われる通りですが、ブレーキ役としてのご意見番まで外してはいけません。企業などでは社外役員や監査役などがそれに当たります。組織が若返って推進力(エンジン)が強くなるほどに、ブレーキも大切さを増します。

さて、司馬遼太郎の「播磨灘物語」を中心に、時に、桜田晋也の「大軍使黒田官兵衛」からの引用で進めてきた「水の如く」ですが、今回の場面に関しては事実をサラリとしか伝えていません。官兵衛が中津、大阪で隠居していた時期だからでしょうね。仕方がないので安倍龍太郎の「下天を謀る(藤堂高虎伝)*1」や、火坂雅志の「軍師の門*2」からの引用で穴を埋めます。

161、月は満ちれば欠けるものである。それと同じく、天下統一を成し遂げた豊臣政権にも、その瞬間から、かすかなほころびが見え始めた。
最初に射した翳(かげ)は、秀吉の弟、大和大納言秀長の死であった。(*2)

豊臣秀長については、かつて、堺屋太一が小説(名前を忘れた)で史上最高のNo2と褒め称えていましたね。堺屋にせよ、司馬遼にせよ、大阪人は豊臣贔屓が多く、美化する傾向にありますが、地味な存在でありながら小一郎秀長という人物は兄の欠点をカバーする意味で、政権の中で重要人物だったようです。

秀吉の言に「内々のことは宗易に、公事のことは宰相に相談せよ」と伝えたという記録が残っています。宗易とは千利休、宰相とは秀長のことです。ただ、これは小田原攻めが始まる前までのことで、秀吉に子ができ、秀長が病がちになると情勢は変わってきます。

秀長は大阪留守居という名目で小田原に参戦していませんが、これは秀長の肺結核がかなり進んで、軍旅に耐えられなかったためだと思われます。秀吉の小田原での傍若無人な振る舞いの多さは、諫言を吐いてブレーキをかける者がいなくなった気安さでしょうか。

162、天下統一も検地も刀狩りも、唐入りを念頭に置いた総動員体制作りだったが、
秀吉はいよいよ具体的な出兵準備にかかろうとしていた。
秀長は早くからこれに反対していた。
第一に、両国に攻め込む大義がない。
第二に、緒戦に勝っても兵員と兵糧、弾薬の補給が続かなければ敗北する。
第三に、民百姓に大きな負担を強い、国土は疲弊するばかりだ。
第四に、豊臣家は信望を失い、諸大名からも見放される。
まるで未来を予見したかのように、的確な指摘をして諌めた。

(*1)

秀長の反対はどれもこれも正論ですね。「兄者、拙いぞ。やめなはれ」とでも言っていたんでしょう。しかし、秀吉は聞く耳を持ちません。何がそこまで秀吉を突き動かしていたのでしょうか。私など凡人には見当もつきません。

国内で有り余った兵力、大名の財力を消耗させるためだった…という説があります。

それならば、後に家康がやったように、大土木工事、国家プロジェクトを起して、治水、灌漑などのインフラ整備をすれば事足ります。この当時の河川は荒れ放題で、風水害が頻発していました。民衆の生活は水道もなければ、下水もない垂れ流しです。

これは…誰か、秀吉を焚き付けた煽動家がいますね。秀吉に誇大妄想を植え付けた犯人がいるはずですが、秀吉の周りには見つかりません。

憶測すれば犯人は、秀吉が朝廷に口を差し挟むことを警戒した公家か、それとも…明や朝鮮と交易をしている商人か、いずれかしか思い当りません。

公家が最も警戒するのは、信長がやった天皇の譲位要求です。信長の物まねが基本の秀吉ですから、やりかねません。しかも関白という立場ですから無位無官の信長と違って正統性のある要求になります。「信長はんを越えなはるんなら明国、朝鮮でおますかいのぅ」

商人ならば「関白殿下の息のかかった交易地が沢山欲しゅうおます」てなところ…。

その後の講和交渉に活躍する小西如安、宗義智などが…疑わしくなります。

163、この頃、秀吉は明らかに変質している。
天下統一を成し遂げた頃の戦略の冴え、家臣ばかりか庶民まで魅了したおおらかで、人情味のある人柄は影を潜め、晩節を汚すばかりが目立つようになっていた。
原因は淀殿である。(*1)

淀君は、歴史物語上では悪女にされることが多いですね。この時代を描いた小説では、ほとんどすべてと言っていいほど悪女、悪役ですねぇ。私の書いた小説「篤実一路」でもヒステリー女と言う役回りです(笑)

そう呼ばれる原因の一つは、秀吉を完全に閨(ねや)の虜(とりこ)にしてしまったことです。重要政策にまで口出しし、人事政策を意のままにしようとしました。彼女が使ったのは旧浅井家のゆかりの近江人です。これは石田三成を筆頭にする武士階級だけではなく、商人たちにまで及びます。秀吉が全国の金山、銀山から集めた金銀と言う資本力を使い、息のかかった近江商人を優遇して、経済政策を意のままに動かしました。その意味では凄い政治家だったようです。さらには、金融支配をすべく、金の吹き替えなどもやった(やらせた)ようです。金含有率100%の金貨(慶長大判)を80%にするだけで莫大な富に膨らみます。その金の出し入れで、経済がコントロールできますしね。

豊臣政権の財務大臣、兼・日銀総裁…それが淀殿だったと安倍龍太郎は想定します。

そうされては困るのが大阪、堺の商人たち…その代弁者が利休でした。

邪魔者は消せ・・・利休を切腹させてしまいます。

164、秀吉は千利休に、堺屋敷での蟄居(ちっきょ)を命じた。罪状は以下の通りである。
1、新規の茶道具を用意し法外な高値で人に売りつけ暴利をむさぼっている
2、天皇や関白が通る大徳寺の山門に雪駄(せった)を履いて杖を突いた自分の木造を安置した。
3、禁制の天主教と結んで謀反を企てた。(*2)

理屈と膏薬はどこにでも貼りつく…を地でやって見せたのが、これから始まる石田三成の言いがかり政治です。これから始まる…というのは利休を手始めに、秀次、家康などへの詰問状、冤罪事件の始まりだからです。

あら捜しなど、その気になればいくらでも見つかり、しかもそれを重大事件にすることなどたやすいことでしょう。満員電車で「痴漢!」と叫ばれたら抗弁の余地なく逮捕されるようなもので、防ぎようがありません。電車で観光に行くときにカメラはレンズを外して鞄かザックに入れておかないと危ないのと一緒ですね。

茶道具を芸術品に仕立てたのは利休の始めた茶道です。ただの茶碗、陶磁器ですが……見る人が見れば、好きものが見れば金に糸目はつけません。ピカソの絵が一億円するのと同じことです。目利きのできない私などには「子どもの落書き」としか思えません。

利休の像を彫らせ、山門に安置したのは大徳寺です。利休ではありません。

キリスト教信者の高山右近、黒田官兵衛などは利休の弟子ですが、謀反は企てていません。ただ、三成の政策には反対の野党です。

ともかく…無茶苦茶な理由で罪人をでっち上げます。これが専制君主の怖さですね。

「民主主義はそれほど良い制度ではないが、他のものよりはまし」と言ったのは英国の首相だったチャーチルですが、独裁政治は怖いですね。