乱に咲く花 39 岩倉使節団

文聞亭笑一

先週は国会の内でも外でも、安保法案に反対する勢力が大騒ぎをしていました。物事を変えるという行為には、必ず賛成と反対があって議論が紛糾します。議論で埒が明かなくなると、少数派は示威行動をはじめ、それがエスカレートすると暴力沙汰になります。そうなると治安部隊が乗り出して、悪くすると内戦になります。中東、アジア、アフリカで内戦状態にある国々の殆どがこのプロセスで戦争をしています。これに、利権の絡む外国が干渉してきますから話は複雑になり、出口すら見えなくなってしまいます。

毎度のこと…と言えばそれまでですが、人類3千年の歴史はその繰り返しです。

大河ドラマ「花燃ゆ」の時代も「開国」というテーマで、攘夷派と開国派が争いました。結果は、攘夷派が勝って開国するという理屈に合わぬことになりました。理念と世の中の実態が噛み合わなかった結果です。言い換えれば幕府と外様雄藩との権力闘争という側面が強かったですね。国会での安保議論も、つまるところはそれで権力闘争にすぎないと思います。民主党としては、解散、総選挙に持ち込みたいのでしょうが、そこまでの盛り上がりには至らないでしょうね。

それはさておき、明治と年号を変えて明治新政府が発足しました。

5か条の御誓文という新政府の骨子が示され、天皇が東京に遷り、遷都が実行されます。

しかしこれだけでは政体として何も機能しません。

廃藩置県は確かに大改革ではありますが、地方自治体の首長の任命者が将軍から天皇に変わっただけで政治機構は変わっていません。新政府はむしろ「急激に変えるな」という指令を出していたほどで、藩政府はそのまま継続していました。

ただ、大きな違いは「武士」という階級が消滅したことで、軍人としての武士は失業することになります。版籍奉還とは今までの給与体系は御破算・・・ということですから、藩からの役料だけが武士の収入になります。

わかりにくいと思いますので付け加えると、江戸期の武士の給与は二階建てでした。先祖代々引き継いで来た俸給があります。50石10人扶持・・・などと言うのがそれで、いわば基本給に当たります。そして、勘定方、郡奉行、目付…などと言う役目に就くと、役料がつきます。これが職務給・役職手当ですね。ですから無役の武士は基本給しかありません。

版籍奉還とは、この基本給を召し上げてしまうという改革ですから…解雇に他なりません。 役にありつけていればまだしも、無役だった者は一文の収入もなくなります。浪人ですね。とりわけ幕府の旗本8万騎などは幕府が無くなってしまいましたから、全員解雇のようなものです。知行地のある者は百姓をすることもできますが、蔵米をもらっていた武士は資産ゼロです。

どの程度の失業者が出たのか? 朝敵になった松本藩の例で推測してみます。

維新時の松本藩6万3千石の、藩士の数は家族を含めて5750人です。

東隣りの田野口藩1万6千石は藩士の数が130人です。

石高で見ると4倍ですから、単純に推計すれば藩士の数は520人程度ですね。

一家で10人ほどの大家族に見えますが、中間や小者と言われた人々も家族に含まれています。

当時の松本藩の全人口は122、400人ですから、地方行政としては、多めに見積もっても200人程度で済むのではないでしょうか。半数以上は失業したことになります。しかも、上層部には薩長出身者が天下りでやってきます。朝敵藩ですからその数も多かったでしょうね。

家老、若年寄などの門閥上級者ほどクビになったでしょうから、失業者の数は4000人ほど出たかもしれません。いずれにせよ・・・この人たちは路頭をさまようことになります。

これが日本全国、いたるところで起きていますから大混乱です。江戸で流行った狂歌があります。

上からは 明治だなどといふけれど 治まるめえ(明)と下からは読む

上(政府)から読んだら「明治」、下(庶民)から読めば「治明」だと皮肉っていますね。

明治政府は、国家ビジョンなき船出であった。
新政府は樹立したものの、日本をどういった国家にするのか要人たちは青写真を持たなかった。
大久保は官僚統制による国家像をイメージしていた
山県は帝政ロシア型の軍事大国をイメージしていた
土佐系で、龍馬の薫陶を受けた者たちは貿易立国を目指していた
岩倉、木戸、などにはイメージすらなかったかもしれない。
それもあって、内政が固まらないというのに、岩倉を全権大使とし、木戸、大久保、伊藤博文などを政府代表として随行員46人、留学生42人の大使節団を欧州に派遣した。

幕府は倒しました。幕府によって築かれていた幕藩体制も壊しました。ここまでは破壊作業です。

家を壊して更地にしたのですが、さて、そこにどんな家を新築しようか…設計図どころかイメージもない…これが実態だったようです。

先進国を見て真似するしかない。良い所取りをしよう。・・・こういう発想ですね。

ともかく維新の中心を担った人物が1年半、政府を留守にして海外研修に出かけてしまいました。この間、留守居をしていたのは西郷と山県です。政治家はすべて出払って、軍人系の二人が残った…これが後々の太平洋戦争にまで尾を引きます。トップがいない間に山県有朋のイメージする軍事大国に向けての下工作が着々と進んでしまいました。徴兵制の準備もこの期間になされています。西郷隆盛も現代人が想像する上野公園の犬を引いたイメージではなく、「西郷さんのユッサ(戦)好き」と言われるほどに軍人志向の強かった人のようです。自ずと、そういう志向の強い人材が集まりますので、征韓論、西南戦争へと展開してしまったのでしょう。

ともかく、使節団はヨーロッパ12か国を回っています。

アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、スイス、オーストリア・・・欧米先進国のすべてに近いですね。

この結果が立憲君主制に似た天皇制国家になるのですが、それは帰ってきた後のことです。

明治は治まる明・・・などと言っていた庶民たちですが、庶民たちにも文化革命(?)が起きていました。丁髷(ちょんまげ)、髪型をどうするかの悩みです。

東京と名を変えた江戸で流行っていた歌を紹介します。

半髪頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする
総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする
ジャン切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする

半髪というのは、月代(額のそり落とす部分)を半分にし、小さく丁髷を結んだものです。

総髪は月代を剃らず、後ろで束ねるなり、そのままにしておくもの

ジャン切り頭というのが西洋風の髪型で、現代の髪型に近いものです。

これに関しては政府がわざわざ「どれでもいいよ」と政令を出しています。

「散髪、服装、廃刀勝手たるべし。ただし、礼服の節は帯刀の事」

それもあってか、昭和になっても丁髷姿の人が残っていましたね。私の住む町には「丁髷さん」という屋号が残っていて、この家の当主は明治から昭和まで代々丁髷だったそうです。

木戸孝允はこの布告の6日前に髪を切り、明治天皇は布告の当日髪を切って率先垂範したようです。同じ日に皇后は「鉄漿(おはぐろ)」をやめたとあります。男性の髪型は徹底しませんでしたが鉄漿廃止の方は普及が早かったようですね。やはり、女性の方が流行に敏感なのでしょう。

明治4年11月、岩倉使節団が横浜を出港した。
その期を見計らって、西郷は岩倉、大久保、木戸らと約束した約定を破り独断専行を始めた。先ず、朝敵の大名を全員大赦した。会津も、桑名も皆許された。さらには維新戦争の戦犯などをその能力によって新政府に大量採用した。

全国的に西郷人気が高いのはこの政策によるところが大きいのではないでしょうか。賊軍藩、曖昧藩、などと差別されていた地域の人材が中央官庁に登用され始めます。

新政府の役人は当初、薩長土肥といった官軍の中心を担った人たちが担当していたのですが、残念ながら田舎の村役場の会計担当が国家財務を扱うといったことは無理でした。しかも、薩長の優秀な官僚たちは視察団に入れて連れて行ってしまいました。これでは国家が機能しません。

この時期、西郷は駿府に隠居している勝海舟に、しきりに出馬要請を繰り返しています。

「勝さん、助けてくれんでごわすか」

「やだよ。おいら賊軍の大将だったんだぜ。オイラだけ許されるわけにゃぁいかねぇやな」

「ならば…みんな許すでごわす。江戸に来てくんさい」

こんなやり取りだったでしょうか。

勝と一緒に出仕した山岡鉄舟などは、天皇の侍従になり、明治天皇を相撲で鍛えたと伝えられています。遠慮会釈なく投げ飛ばし、「天皇は体が資本でござる」などとやったとか…。

それもあって、岩倉卿が不在の間に朝廷の大リストラも行われています。女官たちは総免職になったとも言いますし、「おじゃる」言葉など公家言葉は一掃されたようです。

大久保一翁、永井尚志など旧幕府のエリートが復帰して、何とか国政が回り出したのもこの頃のようです。鬼の居ぬ間に…とも言いますが、西郷さんの太っ腹で国内の感情的対立が薄まったのは間違いありません。大久保利通や木戸孝允との約束は破りましたが、やったことは正しかったと思います。鹿児島や山口、高知の地方公務員が霞が関に出てきて、「さぁやれ」と言われて実務ができるはずがありません。そう言う点で三条や岩倉はお公家さんでしたね。実務が分かっていませんでした。

その一方で西郷は「俺はいつ将軍になるのか!」と催促してくる島津久光に手を焼いていました。久光は「幕府を倒して将軍になる。島津幕府創設」と信じ込んでいましたからね。