次郎坊伝 41 拠点の城

文聞亭笑一

松下から井伊に復帰して、家康の側小姓になる…というところまでが先週のお話でした。

これに次郎直虎が抵抗した・・・という筋書きでしたが、後世の新井白石の藩翰(はんかん)譜(ふ)、徳川実記、井伊家伝記の何れも「直虎、南渓、松下家が互いに協力して虎松を家康に売り込んだ(会見させた)」とあります。まぁ、いずれの書物も徳川家・井伊家に都合よく物語を組み立ててありますからテレビのように草履番から出世していく方が面白いですね。但し、上記三書には何れも「俸給は300石で召し抱えた」とあります。300石と言えばかなりな高給取りです。

現代の給与水準と単純に比較はできませんが、後に土佐24万石の大名になる山内一豊が初めて信長に仕えた時にもらった石高は50石でした。成人男子の士分の者で、馬一頭、配下に最低3人ほどの部下を持った者でもその程度ですから、14,5歳の若者に対する俸給としては高水準です。

一豊の場合は、馬を調達するために妻のお千代さんが嫁入りの持参金、10両のへそくりでやっと賄ったという逸話があるくらいですからねぇ。虎松(万千代)がもらったのは、その6倍の給与です。多分、井伊谷のどこか…龍潭寺の辺り…を虎松(万千代)の領地としてあてがったのでしょう。

だからこそ、自分の領地を経ずられた近藤重用が文句を言うはずです。

高天神城

甲斐の勝頼が動いた・・・というところで前回の放送が終わりました。

時代的に言えば「信長の鉄砲隊が時代を変えた」と言われる長篠の戦、前夜ということになります。

ただ、武田勝頼が父・信玄以上に積極的に軍事行動を開始したのは、万千代が家康に仕えるより以前からです。万千代が仕え始めたのは天正三年(1575)です。その前年に、武田勝頼は遠州の難攻不落と言われた城・高天神城を陥落させ、「勝頼は信玄以上の戦巧者」という名声を全国区に広めていました。高天神城とは、それほどの要害だったのです。

高天神城の歴史、というか沿革を整理してみます。

場所は掛川市(遠州)の海岸よりになります。御前崎に近い戦略拠点の山城

大井川を越えて、武田軍が遠州を窺うための橋頭保といった位置づけになります

これは逆に、徳川が駿河を窺うためにも橋頭保になります。

最初に城ができたのは鎌倉時代ですが、今川義元が上洛戦を行うころから戦略的重要度が増しました。1560年、この頃の城主は小笠原家で、小笠原忠氏は義元に従って桶狭間に出陣しています。

1568年、徳川軍に攻められ、小笠原長忠は徳川に帰順、徳川方の城になる

1571年、上洛戦に出た武田信玄が2万5千の兵で攻めるが籠城して陥落せず。難攻不落の名声

1574年、武田勝頼が2万5千で攻撃。降伏、開城

これによって勝頼は信玄以上と評判になる。とりわけ京での評価が高まる

城代には今川旧臣で、最初に武田に寝返った岡部元信を置く。

・・・ここまでが万千代が仕官するまでの成り行きです。

高天神城は遠州全域を手にしたい徳川家康にとって、喉元に刺さった骨のような存在です。

東遠江の拠点は掛川城ですが、その南に位置し、海上補給路を妨害します。しかも、城代の岡部は今川水軍の棟梁ですから制海権、河川運輸の支配権を保持します。厄介…疫病神のような城でした。

家康は包囲網を整備していくしかありません。力で攻めたら、天才・信玄でも落とせなかった城ですから勝ち目はありません。水軍の拠点を潰し、駿河、甲斐からの補給路を絶ち、兵糧攻めにして行くしかありませんが、秀吉軍団と違って目立ちたがり屋の多い徳川家臣団はそれを嫌がります。ちょっかいをかけては撃退され、それを繰り返します。それが・・・後世の言い訳を含めて…高天神城の「難攻不落」を後世に伝えたのでしょう。

しかし、この物語にあっては、井伊万千代が300石から3000石に飛躍する機会を作ってくれました。一気に年俸が一ケタ上がります。それは、かの有名な長篠の戦の後のことなのですが、物語の都合上今回になるかもしれませんね。触れておきます。

万千代、武田の間者を斬る

高天神城を包囲している家康ですが、なかなか攻略の糸口が見つかりません。小競り合いはしますが、籠城部隊は岡部元信の采配よろしきを得てHit and aweyで、隙を見せません。手詰まりです。

そんなある夜、武田の間者・刺殺団が家康の寝所に忍び込みます。暗殺部隊ですね。忍者と言えば伊賀、甲賀ばかりが有名ですが、どこの大名家でも同様な秘密警察部隊は用意していました。北条家の風魔もありますが、武田黒鍬組も相当な技量の持ち主です。レンジャー部隊ですねぇ。

これを、警護に当たっていた小姓、宿直番の万千代、小野万福が斬捨て、家康を守ります。

この功によって、万千代は徳川重臣の列に参画することになります。徳川四天王と呼ばれた酒井忠次、本多平八郎、榊原康政と同格の位置に列してきます。井伊直政(万千代)出世物語の始まりです。

長篠城

長篠城はもっと信州に近い場所だ・・・と思っていた筆者の感覚とは違って、随分と浜名湖に近い位置にあります。三河と遠江の境、これまた戦略拠点です。甲斐信濃から京に向かう武田信玄、勝頼にとって南から西に向かう交差点のような位置になります。

今川全盛時代は何の意味もない田舎の山城でしたが、武田が京を窺うためには重要な拠点になります。この辺りに軍需物資の集積地を作らなくてはなりません。しかも、見逃してはならないのは武田軍団というのは騎兵隊なのです。当時の西国の軍勢は歩兵中心でしたが、東国の軍団は騎兵隊です。1万人vs1万人と言っても歩兵中心の1万人と、騎兵中心の1万人では全く比較になりません。

しかし、騎兵中心の武田軍には弱みがあります。それは食料の調達です。人の食料もさることながら、馬の食料が必要です。「草を食えばいいんだろう」と思われがちですが、馬が食う分の草刈りをした経験者としては「バカ言ってんじゃないよ~」と言い返しますね(笑)人間より体の大きい分だけ草が必要です。半端な量ではありません。手っ取り早く馬の食料を求める方法は田んぼのイネを食わせることです。青田刈り・・・という言葉がありますが、あれは実る前のイネを馬に食わせてしまうことです。

長篠城の立地は三河と遠江の境、家康にしてみれば岡崎と浜松の両拠点の中間に位置します。

ここを武田勝頼に抑えられたら、真ん中にクサビを打ち込まれたような位置です。

ここを狙ってきた武田勝頼の戦略眼は、決して凡人のそれではありません。有段者の打ち手です。

家康もそれは分かりますし、それ以上に天才・信長がその重要性を理解していました。全軍を挙げて、長篠へ、設楽が原へと出てきた判断は「凄い」の一言です。

「ここを取られたら家康は潰れる。家康が潰れたら、東を抑える手がなくなり、天下はとれぬ」

結果論だけ見ている我々のような素人・歴史通でも、この戦場に持てる銃器の総てを持ち込み、騎馬軍団の弱みを見極め、乾坤(けんこん)一擲(いってき)の勝負を仕掛けた信長は「戦争の天才」としか言いようがありません。

天才…と言うより、それだけ「天下布武」に没頭していた結果でしょうね。