どうなる家康 第32回 長久手に死す
作 文聞亭笑一
先週は古沢脚本の出鱈目さに、キツい批判をした文章を書きました。
早速、読者から「薬罐の湯が煮え立っているみたい」とレスを頂きましたが、それほどではないにせよ・・・史実(歴史)と創作の境目をはっきりさせないと、若者達の錯覚を招きます。
最近の若者達は本を読みません。
ネット情報や映像から知識を仕入れます。
とりわけ信用度の高いNHKからの情報は「真実」と誤認させます。
NHKにその自覚があるのか?
そこを指摘したかっただけです(笑)
ガーシーなどとは違う意味で「NHKよ、自覚を持て!」と声を上げています。
池田恒興という男
秀吉と家康の対決・・・と、いうよりは「織田家相続争い決勝戦」となった小牧・長久手の合戦ですが、そこで物語の中核に躍り出るのが池田一族です。
後に・・・徳川政権下で加賀百万石に次ぎ、
「岡山32万石+鳥取32万石=池田64万石」のNo2外様大名となり、明治維新までしたたかに生き残ります。
そうそう、世界遺産の姫路城も今の姿に築いたのは恒興の次男・輝政です。
池田恒興・・・信長の乳母の子です。
信長とは乳兄弟、赤ん坊の時から常に一緒に育っていますから信長とは双子の兄弟のような関係です。
信長が織田家の家督相続をする際に、ライバルの弟・信行を暗殺しますが、その実行犯は池田恒興ですし、桶狭間、姉川、比叡山焼き討ち、長島殲滅など信長の戦いでは常に最前線で戦っています。
それだけに「織田家に近い」と信雄・家康から期待されましたが、秀吉の中国大返し、山崎の合戦で秀吉方の中核として大活躍しました。
さらに賤ヶ岳合戦、北の庄落城では東への押さえとして大垣城を預けられています。
秀吉勢力のNo2とも言える存在なのです。
その地位を捨てて、 「織田家に忠節を尽くす」などと言うことはあり得ません。
更に、相続争い決定戦の先鋒として戦略拠点・大垣城を預けられている立場でもあります。
秀吉からは今回の報償として「美濃・尾張の太守」の約束もあります。
ボンボンの信雄は池田が味方に入ることを期待したかも知れませんが、家康や参謀の本多正信は全く期待していなかったと思います。
むしろ、池田に調略を掛けることで、秀吉と恒興の間にすきま風が吹くのを期待したのでしょう。
それもあって、池田恒興は旗幟鮮明にする必要が出ました。
犬山城攻略はそのためのデモンストレーションです。
さらに、娘婿の森長可が尾張侵攻の要衝・小牧山を狙います。どちらから見ても戦略拠点ですね。
小牧山はいち早く徳川方・榊原の軍勢が押さえていました。
小牧を攻めようとした森軍は、前から榊原、後ろから酒井の軍に挟撃されて(羽黒の戦い)敗退します。
池田と森・・・今回の相続決勝戦の主役として抜擢され、池田は西美濃、森は東美濃を預けられています。
何としても手柄を立てたい・・・その思いが長久手の戦いになります。
森長可
信長のお気に入りで「鬼武蔵」などと異名をとる、暴れん坊です。
池田恒興同様に、信長の吉法師時代からの遊び仲間でしょう。
ちなみに弟の蘭丸、長丸、坊丸は信長の側小姓・親衛隊として本能寺で討たれてしまいました。
さらに、本能寺の変の直前には川中島4郡の領主として松代・海津城に本拠を置き、上杉の息の根を止めるべく越後高田・春日山城の近くまで攻め込んでいました。
本能寺の変は森家の命運を一気に暗転させます。
弟三人は本能寺で討たれ、長可も信濃勢に嫌われピンチに陥ります。
このピンチは木曽義昌の息子を人質にとってなんとか逃げ帰りましたが、本拠地の東美濃でも四面楚歌、苦労しました。
秀吉の大軍勢を迎えて、ここで手柄を立てなくては・・・と焦ります。
それが羽黒の負けに繋がりました。ますます焦ります。
三河中入り
対陣している相手の後方を攻める・・・これを「中入り」と言います。
敵の注目を分散させるのが狙いで、優勢な方が堅牢な敵の要塞を揺さぶるために使います。
小牧長久手の戦いと言われますが、秀吉対家康の「織田家相続決勝戦」は10万の秀吉が5万の家康を攻めると言う戦いでした。
城攻めは敵の3倍・・・という原則からすると、秀吉側から小牧山に総攻撃はできません。
一方で家康も、半分の勢力で楽田の秀吉陣に正面攻撃を掛けるわけにもいきません。
双方とも決め手がなく、睨み合い・・・そういう膠着状態の中で、功を焦る森長可、池田恒興が信長、信玄が得意とした「中入り」を提案してきます。
小牧山を迂回して、美濃の山道から三河に入り、岡崎城を落とす。
経路になる東美濃は森長可の地盤です。
そこから山岳地帯の小盆地を辿って岡崎を目指す・・・
実に良い狙いでした。
秀吉が情に駆られて甥っ子の秀次を総大将にせず、清正や福島正則などの軍人タイプを軍監にして、指揮を池田・森に任せていたら・・・歴史は変わりましたね。
この作戦の失敗原因は、1軍から4軍、4つの軍団の距離が離れてしまったことです。
第一軍 池田恒興 長男・池田元助
第二軍 森長可 恒興の娘婿
第三軍 堀正秀 恒興の娘婿
第四軍 三好秀次
要するに池田一族の上に秀吉の名代・三好秀次が飾り物として乗っかった形です。
この編成が秀吉の油断でした。
高等戦術の総大将に新人では・・・これが第一の敗因です。
中入りという作戦の要諦は、信玄流に言えば「疾如風・・・疾こと風の如し」です。
外乱を気にせず、目標の岡崎城に向かってまっしぐら、秀吉がやった中国大返しと同じ事で「ともかく2万の軍勢が岡崎城を包囲し、圧倒する」事が狙いです。
岡崎が包囲されたとなれば、小牧山に陣取る徳川軍には動揺が走ります。
気もそぞろ・・・ここが狙い目なのです。
信長の元で戦ってきた池田、森、堀・・・皆が作戦の基本をわかっています。
とりわけ二軍の森はのんびり進軍する第一軍・池田をせき立てます。
問題は第四軍の秀次でした。
ピクニック気分ですから物見遊山、予定より早い弁当・・・進軍が遅れます。
三軍の堀は、御曹司の護衛ですから、苛々しつつも遅れざるを得ません。
一・二軍と三・四軍の隙間・・・そして、三・四を待つために一・二がやった余計な城攻め
「疾如風」の基本から外れた行動、これが池田恒興、元助、森長可の討死の原因になりました。
勿論、この相手の隙を突いた徳川軍の攻撃は見事でした。
小牧から長久手まで、まさに疾如風の行動でした。
更に言えば、秀吉軍別働隊の行動を察知した情報網の成果でしょうね。