八重の桜 39 女学のススメ

文聞亭笑一

同志社の創業は苦難続きです。福沢諭吉の慶應義塾が、順調に立ち上がっていくのとは正反対に、内憂外患…トラブル続きでした。それでもなお、理想に燃えて「前進あるのみ」と立ち向かっていったのが新島襄です。ここ数回の放送は、そういった襄と八重の血と汗の物語になりそうですね。

158、覚馬は明治元年に著した「管見」の「女学」の項で「女子も男子と等しく学ばねばならぬ」と説き、襄も、「女性といえども学問によって目を開かねばならない」と、常々繰り返していた。

八重にとっては、兄も、夫もフェミニストというのか、女性の立場の改革に熱心でしたから、当時の女性から見たら翔んでいる女性でした。しかも、会津の籠城戦では男勝りの活躍をしています。自身の生き方に自信があります。その彼女に、同志社女学校開設の話が舞い込んできます。一旦はたじろいだものの、兄の著した「管見」を熟読していますから、逃げはしません。果敢に立ち向かいます。

ところで「管見」と題名ばかり出てきますが、内容の紹介ができていませんでした。

「管見」は兄・覚馬が、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に囚われ、幽閉中に口述筆記させた政権構想建白書です。管見とは「細い管から世間を見る=狭い考え方」と卑下した表題ですが、中身は横井小楠の「国是三論」や、坂本龍馬の「船中八策」より詳細で、21項目からなります。これを見た薩摩藩家老の小松帯刀が仰天し、西郷隆盛に「新政府はこの方針でやれ」と指示したというほど、中身の濃い物でした。

長くなりますが、21項目を要約して紹介してみたいと思います。

1、政体  天皇のもとに三権を独立、分立して天皇の権限を委譲すべし

        行政、司法、立法を兼務してはならぬと説きます。

        幕府というのは、この三権を将軍が一手に握っていました。

2、二院政 公家と大名による上院、四民(士農工商)からなる下院を設置

3、学校  京、大阪、開港地に学校を建設し、西洋文明を取り入れよ

4、国体  藩を解散し、文化を同じくする単位で郡、県制に再編成すべし

5、建国  国家の基本は農業ではなく商工業とすべし

6、製鉄  鉄は文明の基本である。国家として製鉄に資本投入すべし

7、貨幣  金本位制とし、貿易を想定して紙幣を用うべし

8、衣食  肉食を取り入れ、毛織物を盛んにし、庶民の力を蓄えよ

9、女学  子供を立派な大人に育てるために、女子教育は極めて重要

10、平等 遺産相続は全部の子供に平等にすべし

11、醸造 酒は主食の米から作らず、麦、ブドウ、ジャガイモから作るべし

12、条約 外国軍艦の出入りは規制する

13、港  兵庫開港時の体制を基本とすべし

14、軍事 軍艦は国家のみが保有する

15、救民 種痘の奨励、性病予防の喚起

16、髪制 結髪の禁止(丁髷廃止)

17、変仏 墓守に堕落した僧侶に学問をさせ、寺を学校として開放する

18、商業 損害保険制度を充実せよ

19、時刻 西洋と同じ24時間制

20、暦  太陽暦を採用

21、官医 天皇の侍医は西洋医にすべし

こういう発想はどこから出てきたのでしょうか。系譜をたどると佐久間象山にたどり着きます。象山が外国から仕入れた思想が、象山塾から勝海舟、吉田松陰、横井小楠、橋本左内、山本覚馬、小林虎三郎、河合継之助・・・維新史を彩る面々に伝わっていきます。坂本龍馬は勝海舟を経由した孫弟子ですね。そして福沢諭吉も岡見清凞を経由した孫弟子になります。

現代日本人は八百万の神々を忘れ、葬式仏教に失望し、無宗教と言いながら「科学教信者」になっています。が、だとすれば…その教祖は佐久間象山です。以下、その経典です。

宇宙に実理は二つなし。この理のあるところ天地もこれに異なる能(あた)わず。

鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。

近世西洋人の発見するところのあまたの学術は、要するにみな実理にして、まさに以て我が聖学を資(たす)くるに足る。

つまり、科学こそがこの世のすべてだという思想です。

話を主題の戻しますと、覚馬の言う女学とは

女学  子供を立派な大人に育てるために、女子教育は極めて重要

ということになります。子供の教育をするのは女性の役割、次世代を作るのは女性。未来を切り開くのは女性…となります。私などは「そうだ!」と納得してしまいますねぇ。

この分野で親父がどんなに頑張っても、母親には敵いません。子供たちは母親に向かって学び、父親の後姿を見て母から学んだことを検証します。母親がしっかりした家庭からは、しっかりした子が育ち、母親がグータラな家庭の子は、グータラに育ちます。

「女子教育は極めて重要」全く同感です。

余談になりますが、現代の政党政治にあっても「管見」に匹敵するのが綱領です。党としての基本方針で、これに賛同するもののみが党を構成します。3年で頓挫した政党がありますが、あの党には綱領がありません。「政権を執る」という方針だけで集合した明治維新の薩長と変わらぬ組織です。「解党的出直し」と言っていますが、綱領を掲げて賛成する者だけでまとまった方が良いですね。

159、新しい校地の南には御所があり、北には相国寺がある。千年の古都である京の地、しかも神道の権化である御所と、仏教の総本山相国寺に挟まれて同志社が誕生したことの意味を考えれば考えるほどに、八重は奇跡に近いとさえ思うのだった。

京都の町は、どこに行っても仏教の本山だらけです。ですが、相国寺は臨済宗の本山というだけではなく、金閣寺、銀閣寺を従えた室町幕府の旦那寺です。明治維新の当時は、すでに規模も小さくなっていたでしょうが、足利義満が創建したころは御所の北側すべてにまたがる大寺院でした。御所の北を守る仏法の聖地という位置づけですね。

その間に、外国から来た新興宗教が割り込むのですから、確かに八重の思う通りでしょう。もともとは薩摩藩の京都屋敷だった場所を、山本覚馬が西郷隆盛から譲り受けたものです。「京に薩摩の根拠地はいらぬ」とポンと投げ出した西郷も大物ですが、その地にキリスト教をベースにした学校を建てようという覚馬も腹が座っています。改革というのは、そういう大物の決断によって歯車が回り始めます。アップルのスマホも一人の創業者の決断から生まれたものですよね。

明治新政府も大久保利通という大政治家が独断と偏見?で強引に改革を進めています。革命的政策は大勢で相談して決まる物ではなく、誰かの発案を強力に推進する政治家によって実行に移されます。「やってみなければわからぬ」物は「まずやってみる」政治家がいて成功、失敗が判明します。机上論では一歩も前に進みません。

160、伊勢時雄は母のつせから「もしお前が耶蘇を捨てきれないのであれば、ご先祖様に申し開きができぬ。私は生きてこの世におれませぬ」と、改宗を迫られたいう。
時雄の父・横井小楠は明治2年2月5日、寺町丸太町下ルあたりで刺殺されたことは、八重も兄の覚馬から聞いていた。

熊本バンドの中に伊勢時雄がいます。後に八重の姪・みねと結婚し、同志社第3代総長になりますが、この頃はまだハネカエリの学生です。

彼の父・横井小楠は維新十傑と呼ばれるうちの一人で、薩長以外では公家の岩倉具視、肥前の江藤新平と並んで例外のうちですね。開明的思想家、政策家で越前の松平春嶽に重用されました。幕府を内側から倒した功績者と言えるかもしれません。

横井小楠が暗殺された理由は、薩長の一部の者が「横井はキリスト教を国教に定め、天皇家を転覆させる陰謀を働いている」と讒訴し、暗殺したものです。が、小楠は西洋文明を早期に移入するためには毒も薬も一緒に受け入れねばならぬという主張が、反対派によって曲解・宣伝されてしまった結果です。佐久間象山といい、横井小楠といい、先進的思想家は排除の論理の憂き目にあいます。

時雄の母にすれば「キリスト教のために殺された」と考えますから、息子までキリストの犠牲にはしたくなかったのでしょう。