水の如く 42 猪突猛進

文聞亭笑一

鶴松の死から、朝鮮出兵と進む秀吉の精神状態…極端なほどの躁鬱症状です。「病気」と切り捨てるのも一つの観方でしょうが、そればかりではなさそうな感じがしています。

何冊も歴史小説を読みましたが、この間の経緯に関して納得のいく説明をしているものはありません。落胆して、それから、また気力を奮い起こすには、誰かの助けがあったはずです。女でしょうねぇ。秀吉の周りにいる男たちが仕掛けたことではないでしょう。秀吉の周りにいる女と言えば、まずは茶々ですが、茶々も同様に気落ちしています。互いに傷をなめ合っても攻撃的にはならないと思います。

・・・では正室の寧々か。寧々は秀吉を元気づけるために最大の努力を払ったと思いますが「ならば、明国にでも攻め込んで憂さ晴らしをしてきなはれ」とは言わなかったと思います。寧々はどちらかと言えば秀長、利休、官兵衛などと同様に、戦争反対、内政重視ですから言うはずはないでしょう。むしろ、「あんた、もうよしなはれ。豊臣は甥御たちに渡したら良いじゃありませんか」と、引退勧告をしたと思いますねぇ。

秀吉の辞世と言われる

露と落ち 露と消えにし我が身かな 難波のことは夢のまた夢

という歌を作ったのはこの頃ではなかったかと…推測してみました。秀吉は死の直前に「秀頼を頼む、頼む、頼む」と耄碌していますから、とても、これだけの歌は読めなかったでしょう。歌の良し悪しはよくわかりませんが、この歌は名歌と言われる部類に入るのだそうです。おおかた、お伽衆の一人であった名人・細川幽斎が添削した作品でしょうが、鶴松の喪中に作ったものではないかと…勝手に推察します。この時代、戦争続きでいつ死ぬかわかりませんから、多くの武将は辞世を早めに作ってあったようです。そうでないと、敵の矢玉にあたってから和歌など詠む暇がありませんよね。

寧々とは別に、秀吉が頭の上がらない女性がいます。大政所と呼ばれた母親の「なか」です。悲嘆する息子を見て、彼女が慰めたのだと思います。

「藤吉郎よぅ、お前もえらく出世して関白様にまでなったけんど、もとは尾張の百姓の倅じゃねぇだか。関白なんぞ甥っ子に譲って隠居した方がいいだよ。おまえも姉のともも、私の腹から生まれた子じゃわい。秀次でも、秀勝でも、秀保でも、誰でもいいじゃねぇか。譲っちまったらどうだや。それによぉ、寧々さの縁者の秀秋もおるしよぉ」

これが…秀吉の気分をガラリと変えたのではないかと…推理してみました。

豊臣家の永続に思い悩むのは「や~めた」  さーて…戦争ゴッコしてあそぼ!

165、遠征の準備に熱中するかたわら、秀吉は鶴松に代わる豊臣家の後継者を指名した。
姉の子、秀次である。そして、秀長の後継者には秀保を据えた。
この時、秀吉は55歳、人生50年と言われたこの時代、既に老境に差し掛かっている。自分には子ができぬと諦めたうえでの決断であった。

秀次、秀勝、秀保は秀吉の姉、ともの子供たちです。この姉と秀吉は、そりが合わず、家督を譲る気になれずにいたのですが、鶴松の死と、母や寧々の助言と、自らの諦めが手伝って秀次を関白に、秀保を大和大納言に指名しました。「どうでもいいや」という感じだったのではないでしょうか。

もう一人、寧々が可愛がっていた…寧々の実家の甥である木下秀秋も相続人候補だったのですが、若年にすぎて選から漏れました。秀秋…後の小早川秀秋です。秀次を後継者に指名することで、この、秀秋が邪魔になります。

秀吉は官兵衛に命じて、実子のいない毛利輝元の養子に押し込もうとしますが、それを察知した小早川隆景が「自分の養子に」と貰い受けます。輝元にはすでに秀元という後継者候補の養子がいたのです。この辺りの駆け引き、人間模様が後の関ヶ原における小早川勢の裏切りに深く関係していきます。NHKがどう描くか…私個人としては楽しみです。

ともかく、豊臣家の束縛から抜け出して、秀吉は自らの妄想に邁進してしまうことになりました。日韓両国にとって不幸な関係の始まりです。

166、官兵衛が肥前・名護屋に縄張り奉行として赴任し、築城に取り掛かったのは10月である。兵站基地としての機能だけで良いと考えていたのだが、秀吉は聚楽第同様の豪華さを備えたものを要求してきた。4万5千坪の敷地に天守閣から城下町まで備えた城を作ることになってしまった。

肥前松浦半島の名護屋城にはかつて訪ねて…というか、大手門界隈だけに残る石垣だけ見てきましたが、こんな山ばかりの土地に大城下町があったなどとは信じられない地形です。確かに海を見渡す高台で、天気が良ければ壱岐の島が遠くに浮かんでいるのが見えます。下の写真は、後に名護屋城の建材を利用して建て られた唐津城ですが、こんな感じの天守閣を始め、大阪城にも匹敵するほどの城が作られたようです。

何とも、壮大な無駄ですねぇ。このお陰で8公2民と言う重税で搾り取られた農民たちは気の毒としか言いようがありません。消費税10%どころの話ではありませんよね。まぁ、戦争とはそういうものです。

167、城が完成してから二か月後、西国勢を中心とする遠征軍が、名護屋城から続々と出征し始めた。第一軍・小西行長、宗義智。第2軍・加藤清正、鍋島直茂、第3軍・黒田長政、大友吉統、第四軍・毛利吉成、島津義弘、第5軍・福島正則、長宗我部元親、第六軍小早川隆景・立花宗茂、第七軍・毛利輝元、第八軍・総大将の宇喜多秀家、第九軍・豊臣秀勝、細川忠興…総数16万人である。官兵衛は軍監として第六軍の小早川隆景に同道している。

この布陣、岡山以西の大名家は総動員です。総数16万人。この大軍勢が一旦、壱岐の島に集合したというのですが、先日見てきた港にはとても収容しきれませんね。当時はわかりませんが、現在の人口1万人程度の町に16万人と、それを満載した数百艘の軍船などは泊まれません。多分、3班ぐらいに分かれて壱岐・対馬を経由して釜山を目指したのでしょう。布陣は重厚ですが・・・、顔ぶれを見てください。戦の経験の薄い若者が並んでいます。

行長、清正、長政、毛利吉成、正則、宗茂,秀家…などが部隊長です。体育会系の猪武者が並びます。「やぁやぁ我こそは…」の豪傑ぞろいですが、組織での戦には不慣れですし、政治、調略などは頭にない連中です。

しかも、壱岐では小西行長が抜け駆けをします。加藤清正の到着を待たず、海の道に慣れた対馬の宗義智の手引きで単独で釜山城を攻撃し、陥落させてしまいます。これに怒った清正や長政が猪突猛進しますから、指揮命令系統などあって無きに等しい戦争ゴッコになってしまいます。小西行長隊は西海岸を猛進し、加藤清正は中央を進み向かうところ敵なしで、ソウルを落とし、さらにピョンヤンにまで進んでしまいます。

名護屋にいた秀吉はこの報告に有頂天になり、自分が陣頭指揮すると言いだすのを家康と前田利家が引き止め、石田三成らの三奉行が太閤代理で乗り込みます。益々、軍の指揮命令系統が乱れます。太平洋戦争でもそうでしたが、どうも、日本軍と言うのは戦争の基本を知らないようですねぇ。組織戦が下手です。団体競技が苦手のようです。

168、軍監とは総参謀長のことである。その官兵衛の立てる作戦計画に、一部隊長である小西行長が従わず、加藤清正や息子の黒田長政までが同調し、総大将の宇喜多秀家や、三成以下の奉行たちまでが更なる深入りを主張するに及んで、官兵衛は匙を投げ出さざるを得ない。病気と称して帰国することにした。

官兵衛たちがソウルまで進軍したところで部隊長たちを呼び集め、統合作戦会議を開きます。官兵衛が気になったのは朝鮮軍が弱すぎることと、小西たちの住民に対する残虐行為が目に余ること、更には補給線が伸びすぎて食料弾薬が続かないことです。

後にナポレオンがロシアに深入りして大敗を喫しますが、全く同じ状況を予感していました。ソウルに全軍を集め、海の道を確保すること、さらに、住民を慰撫して味方に付けることを提案しましたが、息子の長政まで言うことを聞きませんし、参謀総長の意見に同意したのは小早川隆景一人だけでした。

官兵衛にしてみたら「勝手にしやがれ」というところでしょう。

案の定、官兵衛が帰国した後から明の大軍が出動してきます。各地で劣勢に陥ります。

更には朝鮮人ゲリラ部隊に苦しめられます。命綱の補給路も海戦に敗れて遮断されてしまいました。このあとは…悲惨な撤退戦になります。

しかし、奉行や小西行長らからの報告は「勝った」「勝った」「また勝った」でした。

太平洋戦争の大本営発表でしたね。それに騙される秀吉も耄碌しています。