次郎坊伝42 決戦・設楽が原

文聞亭笑一

いよいよ、いわゆる「長篠の戦」の場面になります。

戦国の戦法に大変革を起こした戦い

戦国の混乱から統一に向かう転換点となった戦い

鉄砲伝来から、本格的に武器としての価値が認められた戦

信長の天才的素養が花開いた戦・・・

色々に評価されます。歴史教科書には必ず出てきますね。天正3年(1575)のことです。

教科書には長篠の戦と記されていますが、戦いの現場は設楽が原です。設楽が原は、長篠城よりやや内陸に入ります。当時は一面の草(くさ)叢(むら)でした。

ここを決戦場に選んだのが信長の罠です。武田騎馬隊が騎馬兵力の威力を十二分に発揮するためには、馬を走らせやすい草原が最適です。狭い谷間や、森林地帯では威力が半減します。敢えて敵の有利な条件の場所を選ぶ・・・誘う…危険な賭けです。

しかし、一方で信長が頼りにしていたのは鉄砲です。鉄砲の威力を発揮するためには見通しの良い場所、敵を狙い撃ちにできる場所が最適です。どちらにも有利、不利が出やすい場所を選んだということは、戦闘技術論的に言えば「大いなる賭け」ですね。

何度も言ってきました通り源平の戦以来、騎馬兵とは戦車並の戦力です。一騎の騎馬武者は、歩兵10人に匹敵します。しかも、武田軍の強みはこの騎馬兵が馬の扱いに実に巧妙で、一般的な騎馬兵に倍する威力を発揮します。同兵力が草原でまともに戦ったら織田・徳川に勝ち目はありません。

西部劇によく出てきた場面ですが、騎兵隊がインディアンと戦闘する場面があります。西部劇の騎兵隊は馬上から銃を撃ちます。槍と刀のインディアンはバタバタ倒されて…メデタシ、メデタシとなるのですが、それは100年以上後の話で、当時の火縄銃で出来る話ではありません。火縄銃は一発撃ったら弾込めに1分はかかります。これを馬上でするわけにはいきません。

16世紀の日本の騎兵隊の武器は、馬上で振り回す槍です。槍で歩兵を刺すのではありません。殴ります。これをまともに食ったら即死ですね。歩兵は逃げるしかありません。馬の速度と、槍の速度の相乗効果で衝撃の威力(G)は5倍、10倍だったでしょう。

・・・そんな観点で、トランプと金正恩の脅しあいを見ます。互いに敵の武器の性能、運用の技能を、どこまで把握しているのでしょうか。北の精神力Vsアメリカの物量・・・織田・武田に重ねます。

信長の思惑

信長にとって、長篠城で粘る徳川方は東の防波堤です。

京都(天皇、将軍の権威)は抑え、東海から近畿一円は支配下に置きましたが、織田政権の政治組織は軟弱です。柴田、丹羽などの古参の部下に政治力はありませんし、松永久秀、細川幽斎、筒井順慶などは日和見です。それに、足元の大阪には石山本願寺が敵対しています。

明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益などは優秀な政治家ですが、いまだ人民の支持を受ける政治家には育っていません。信長自身が独裁政治をするしかない環境でした。

乾坤一擲でしょうね。武田を潰すか、自分が滅ぶか、壮大なる「賭け」だったと思います。

信長が頼りにしたのは種子島・・・鉄砲です。新兵器の威力に総てを賭けたかもしれません。

三丁の鉄砲を一組にして連続発射を試みる。これが巧く行けば勝。さもなければ負け。

相当な実験を繰り返したのではないでしょうか。訓練もしたと思います。さもないと歴史書にあるような連続発射はできないと思います。このプロセスは・・・なぜか全く資料がありません。

資料がないのはぶっつけ本番であった証拠・・・と云うのが一般的解釈ですが、史料がないのは資料を消したということかもしれません。その方が信長の天才性を際立たせます。鉄砲の産地の堺、近江国友村辺りでは、徹夜の生産作業と、秘密訓練が繰り返されていたようにも思えます。

井伊の材木

井伊に限らず、三河から長篠にかけての一帯から数万本の丸太が伐り出されました。歩兵一人に付き、一本の丸太を担いで進軍した・・・と云いますから、相当な量でしょう。テレビでは随分と太い丸太を伐り出していましたが、実際は間伐材のような直径10㎝程度の木であったと思われます。草原に杭をうち、横木を渡して作る柵ですから太過ぎては扱いが面倒になるだけです。現代ではあまり見られなくなりましたが、刈り取った稲を干すためのハザ、あれを作る感じだったでしょうね。造りがぜい弱であっても、ともかく、馬の突進を停めればいいのです。馬術競技では障害飛び越えという種目がありますが、数十キロの鎧兜を装着した武将を載せて柵を飛び越えることのできる馬はいないでしょう。

武田軍はなぜ突撃をしたのか

草原に馬防柵が並んでいます。それが何を意味するのか・・・そんなことは、武田軍とて当然承知しています。にもかかわらず、武田騎馬隊は何度も無謀な突撃を繰り返し、名のある武将が次々と倒されてしまいました。馬場美濃、山県三郎兵衛など信玄以来の名将や、昨年ドラマの準主役だった真田昌幸の兄二人も倒れます。

一つは「鉄砲三段打ち」という信長の工夫を読み切れなかったことでしょう。一斉射撃は予想できても、二段目、三段目、弾込めしての一段目・・・と繰り返す射撃に先陣が崩れてしまいました。

普通はここで突撃をやめて作戦を変更するのですが、なぜか、突撃を繰り返します。

そうなった二つ目の理由は、織田方の重臣・佐久間信盛の裏切りを想定していたからだという説があります。佐久間は三方が原の戦の折、徳川に援軍として派遣されていた一人です。信玄指揮下の武田騎馬隊にはトラウマがありました。武田方・山県の調略に乗り、武田が突撃して白兵戦になった段階で、織田方の横を突くという約束がなされていたようです。勝頼、山県はそれに期待して、何度も突撃を掛けたという説です。佐久間にしてみれば、織田家最古参でありながら信長には疎まれていましたから、可能性のない話ではありません。また、後にこのことが、疑い深い信長にバレて、追放処分になったのではないかとも言われます。

・・・が、結局の所、佐久間も鉄砲三段撃ちの威力に驚いて、裏切らなかったというものです。

三つめの理由は徳川の別動隊・酒井忠次の部隊が勝頼の本陣の裏山である鳶の巣山に奇襲を仕掛け、高所を占領してしまったことでしょう。勝頼としては退くに退けなくなり、突撃してしまったという説で、徳川が書いた歴史書はこれを大きく宣伝しています。

この奇襲で武田方の穴山梅雪は勝頼の命令も待たず駿河に向けて退却を始めてしまいました。武田軍の指揮系統がかなり混乱してしまったようですね。また、梅雪に関しては「徳川から好条件で誘われていた」とも言われます。

まぁ、色々な条件が重なった結果でしょうね。武田は大量の死者を出して甲斐に逃げ帰ります。