どうなる家康 第33回 将を射んと欲すれば

作 文聞亭笑一

先週の家康は穴掘り場面ばかりでしたね(笑)

 それも鍬の使い方を知らぬ役者が力も入れずに岩を削る?しぐさ、映像の作成者は土木作業をしたことが無いのではないか・・・鍬や鋤、鶴嘴、万能・・・こういう農具を見たこともないようで馬鹿馬鹿しい映像を垂れ流しました。

土木作業、農作業を馬鹿にしているのかなどと・・・腹が立ちます。

役者達が皆、泥だらけの顔をしていましたが、土木作業で顔に泥など付きません。

衣類は泥まみれですが、顔の泥はタオル、手ぬぐいで汗とともにマメに拭き取ります。

こういう作業を外国人労働者に任せて、学生アルバイトですらやらないのが、現代の日本人なのでしょう。

国土交通大臣を、長期間にわたって公明党に任せている現政権、現場を知らなすぎます。

非常時になってからでは遅いですね。平和呆けしています。

今回の大河は原作者・脚本家もさることながら、プロデューサーが酷いですね。

まるで戦国時代の文化や風俗を理解していません。

戦国という時代に現代人、それもジャニーズが紛れ込んだような物語展開です。

戦国時代が・・・元禄時代になってしまいます。

こういう想定、「現代人が歴史の中に紛れ込む」は井出孫六の小説「戦国自衛隊」でありました。

関ヶ原の戦いに自衛隊の一部隊が紛れ込んでしまうと言う想定でした。

ドラえもんの「どこでもドア」ですね。短編小説、漫画としては「アハハ・・・」と楽しめますが、大河ドラマで一年間付合わされたら食傷です。

秀吉という男

小牧・長久手の戦いと言われる秀吉と家康の戦いは、家康の完勝に終わりました。

しかし、秀吉とその参謀・黒田官兵衛などは「家康の胆を冷やす陽動作戦」などと誤魔化して公家衆や、堺の商人達に宣伝します。

秀吉の強みは公家、商人という宣伝網(マスコミ)を握っていたことで、自在に噂をばらまきます。

とりわけ淀屋を中心とする大阪商人は、秀吉の支援の元に全国に商権を確立すべく、秀吉とは一心同体でした。

一方の家康、広告宣伝にはオンチです。

小牧長久手戦は、野球なら「15-0 7回コールド」という完勝でしたが、味方である長宗我部、雑賀、佐々などの同盟国には伝わりません。

「勝った」と手紙で知らせましたが、それよりも大阪商人のもたらす情報・・・その情報量が風評を支配します。

「羽柴軍は小牧に籠もる徳川を、池田を囮として誘い出した。

この策に嵌まった徳川は砦から出てきたが、羽柴軍の追撃で小牧山に逃げ帰った」

太閤記などでは、「事あるごとに先輩風を吹かせ、恩義を売る池田勝入を始末するために中入り策を採用し、家康に処分させた。

敗軍に名を連ねた堀政秀を含め、織田家での先輩筋は政権から遠ざけた。

次は北陸の佐々を退治する」

などと・・・我田引水。

これが嫌で太閤記の作者の大村幽古は執筆途中で逃げ出しました。

残りを書いたのは太田牛一、信長公記と同一著者ですが、秀吉の宣伝部長のような役割でした。

秀吉は「人たらしの名人」などと社交術の天才のように言いますが、むしろマスコミと使い方の名人、広告宣伝の達人という方がふさわしいと思います。

そう、トランプのような・・・

敵は誰だ

戦に負けた秀吉、カッと来たのを鎮めて次の策へと意識を切り替えたのは・・・さすがです。

我々凡人は、カッと来て、毎度愚を繰り返します。

残り70,80y得意の距離です。

ベタピン・ワンパット・・・良いイメージで一打、アッ!・・・ザックリ・・・くそ! またザックリ

やっと乗せたらキャディーさんの一言「ゴルフ場は田畑ではありません、耕さないでください」

ますます血が上って3Pat、4Pat 二桁叩いて「もう止めた」 これぞ凡人

秀吉は原点に戻りました。

「わしゃぁ誰と戦っておるんじゃ? 家康じゃない、信雄じゃ」

敵の総大将は信雄で、家康は援軍・・・これを双方一度に叩いてしまおうと出陣してきた秀吉でしたが、手強い徳川は放置して、信雄を攻める手に出ます。

池田・森は家康の背後の三河に中入りして失敗しましたが、秀吉は信雄の背後・伊勢に中入りをします。

大軍による皆殺しの脅迫と、降参すれば本領安堵の飴と鞭、信雄の部下達は唯々諾々と飴に群がります。

まぁ、当たり前。

伊勢、西尾張が秀吉に調略されて・・・ボンボン信雄は和議・停戦協定に応じます。

家康に相談する間もなく脅迫し急がせた交渉役は誰だったのでしょうか。

こういう交渉ごとは時間との勝負です。長引いたら成立しません。

如何にボンボン・馬鹿殿の信雄でも「家康に相談してでないと・・・」と決断できない提案です。

それを決断させてしまう・・・こういうことのできるスタッフが秀吉の傘下にいたのか? 

黒田官兵衛の名が思い浮かびますが、小牧・長久手戦に黒田の記事はありません。

多分、大阪城建設工事に没頭していた頃でしょう。

もしかして・・・秀吉が直談判したのか? そうかも知れませんね。

上田合戦

徳川と真田・・・ボタンの掛け違いというのか、それとも本質的に位相が合わなかったのか、事あるごとに対立し、真田一族が戦国物語の主役として活躍します。

創業時の徳川家を、あれだけ痛めつけ、翻弄した真田家が、松代10万石の大封を維持して明治まで生き残ったのは不思議でもあります。

それだけ・・・時代ごとに知恵を働かせてきたのでしょう。

旗頭・総大将の信雄が和睦してしまったら、徳川軍は戦いの正義を失います。

ショウガネェ、ヤーメタ・・・と、本国に引揚げるしかありませんが、秀吉との戦いはここからが本番です。

まずは足下、領国を固め、北条との同盟をより強固にしなくてはなりません。

北条には督姫を送り込んでいますが、上州沼田を手放さない真田昌幸が北条と対決し、しかも、上杉と提携しています。

更に言えば真田が本拠とする上田城は、上杉への押さえとして徳川の資金で築いた城なのです。

真田=表裏卑怯・・・と言う評判通り、強豪の隙間を生き延びてきたしたたかさですよね。

池波正太郎の真田太平記は「知恵は力をしのぐ」という観点で真田一族の活躍を伝えますが、野党的に過ぎます。

全体、日本国の政治には影響力がなく・・・評価は分かれます。

上田攻めに向かった徳川軍は小牧長久手では本領守備に回っていた大久保党、鳥居党などが中心になります。

僅か1500の真田勢を7000の大軍で攻めました。

「城攻めは3倍」の法則以上です。

が、徹底的に負けました。

どう負けたか・・・池波正太郎「真田太平記」をお読みください。

事実を10倍くらい膨らまして微に入り細に入り、面白おかしく綴っています。

負けた方の大久保彦左衛門「三河物語」には「負けた」としか書いてありません。