紫が光る 第37回 五十日、百日
作 文聞亭笑一
先週は第二皇子誕生の場面でしたが、読経やら祈祷やら・・・騒がしい出産場面でした。
それというのも皇后・定子が出産時の事故で亡くなり、その後も一条の寵愛を受けた定子の妹・御匣殿(みくしげどの)が出産事故で亡くなっています。
ですから「二度あることは・・・」と「一条の子を産むというのは命がけ」と云った雰囲気がありましたね。
道長にしては出来うる、すべての魔除けを実行したと云ったところでしょうか。
伊周が懸命に呪詛をやっていましたが、アレはあくまでも作者の想像で、事実だとわかれば島流しでしょう。
そんな危険なことを自らやるはずはなく、やったとしたら母の実家である高階一門でしょうね。
その後、呪詛の罪で罰せられるのは高階一族です。
若紫はおらぬか
敦成親王が誕生して50日目、道長主催の祝いが開かれ、無礼講となってからは公卿達が酔っ払って酔態を見せた様子を、紫式部日記は克明に伝えています。
NHKの脚本も、それを忠実に映像化しましたね。
右大臣顕光が几帳を壊したり、女房と戯れたり、実資が女房の十二単の襟元を数えてみたりと、乱痴気騒ぎだったようですね。
公任が「この辺りに若紫はおらぬか」と作者のまひろを探したのか、それとも物語の中の「紫の上」のような美女を探していたのか。
それはわかりませんが「紫」を連発したようで、それが紫式部と呼ばれるきっかけになったのではないかと言われます。
この頃は既にその辺りまで書き進んでいて、転写本が広く流布されていたようにうかがえます。
当日の公任に対して、紫式部日記には以下のように記録しています(現代語訳)
源氏の君に似たようなほどのお方もお見えにならないのに、
ましてや、
あの紫の上などがどうしてここにいらっしゃるでしょうか。
辛辣ですね(笑)
多才の美男子・公任も形無しです。
その後、道長に呼び出された藤式部は即興の祝い歌を求められます。
いかにいかが 数えやるべき八千歳の あまり久しき君が御代をば
幾千年にも及ぶであろう若宮の御代をどうして数えたら良いのでしょう。
数え切れないほどの久しさでしょう
これに対して道長が
あしたづの よわひしあらば君が代の 千年の数もかぞえとりてむ
私に鶴と同じ千年の寿命があれば、若宮の千年の御代も数えられるのだが
と、返します。
あまりに息の合った歌のやりとりに、気分を害した道長の正妻・倫子が席を立ってしまいます。
二人の関係を疑ったのは倫子だけではありませんね。女房達の多くが疑いを持ちます。
「何か怪しい、何かある・・・あの二人・・・」
彰子からの信頼はありますが・・・まひろの立場はつらくなりそうですね。
早速、赤染右衛門が詰問に来ます。
源氏物語の執筆、紫式部日記(その中の「御産の記」)など、道長の支援と期待は絶大です。
まわりが羨むのもしかたありませんが・・・式部にとっては、住みにくくなりますね。
伊周の悪あがき
敦成親王誕生で焦ったのが伊周です。
妹・定子の産んだ第一皇子の敦康親王が後継者となれば、自らが復権し政界のトップに昇る可能性が高くなります。
が、敦成親王が後継者となれば、只でさえ仲間内で不人気の自分に出る幕がなくなります。
誕生の祝賀、一条天皇の行幸、50日の祝いと公卿達の道長邸詣でが続きます。
伊周も付き合い上参加せざるを得ませんが、日を追う毎に「敦成後継」の雰囲気が醸し出されてきます。
「一条天皇は長子の敦康を後継にする」と信じたいのですが・・・日に日に高まる「敦成慶賀」にイライラが募ります。
焦ります。時を待つ・・・という心の余裕を失っていきます。
そんな折に敦成親王の「百日の祝い」が開かれました。
「五十日の祝い」同様に乱痴気騒ぎです。
今回は天皇と親王へ慶賀の歌を届ける・・・という企画で、公卿達はそれぞれに歌を用意しました。
その記録係と前書きの執筆者に選ばれたのは書道の達人・行成です。行成は敦康親王の侍従長的役割を担っています。
行成が机に向かい、墨を確かめ、筆を執ったとき・・・突如伊周が進み出て「その役、伊周が承る」と行成を押しのけます。
行成も上位職の伊周であり、書の巧さでは評判の伊周ですから座を譲ります。
そして、伊周が書き付けた漢詩が以下です。
読み下し文にします。
第二皇子① 百日の嘉辰 宴を禁省(御所)に於いて合う
外祖左丞相(左大臣)以下 卿士大夫 座に侍る者済々たり
竜顔(天皇)を尺々(間近)に望み 鸞ショウに酌して献酬す
隆周②の昭王 穆王暦数(在位期間)長く わが君又暦数長し
本朝の延暦(桓武帝)延喜(醍醐帝)胤子多く わが君又胤子多し
康き③かな帝道 誰か歓娯せざらん
漢詩としては、さすが名手と言われた伊周ですからなかなかの出来映えです。
今日の主催者、天皇をしっかりとヨイショしていますが・・・居並ぶ公卿達は一斉に顔をしかめました。
敦成の祝いの席なのに、その外祖父の道長を無視するように、「敦康こそが次期皇太子だ」と念押ししているようにも読み取れます。
問題点は次の3点
①祝いの主役・敦成親王を「第二皇子」と表現します。
要するに第一皇子・敦康親王がいることを忘れるな、その外祖父は俺だと自己主張。
次の節で「外祖」と道長を引き合いに出し、自分は第一皇子の「外祖」だと詠います。
この時点で出席した公卿達は、この歌の意味するところを警戒します。
②中国古代・周の名君と言われた昭王 穆王を引用しますが・・・あえて隆周と表現します。
隆・・・中関白家 父の道隆、弟の隆家を連想させます
周・・・勿論、自らの名・伊周
いずれは我が家が一条帝の長期政権を支えるのだ・・・とういう意思と疑われます
③康き・・・と、敦康を連想させる文字・文句を「結句」に持ってきました。
「敦康なれば国家安康」と受け取られます。
起承転結の「起」・発句で第二皇子と敦成を貶め、「結」結句で敦康こそ後継者と結びます。
政権奪取宣言のようなもので、さすがの一条天皇も伊周を見る眼が変わってきます。