八重の桜 40 百杖の罰

文聞亭笑一

明治維新は、明治10年(1877年)9月の西郷隆盛の自刃、西南戦争終結をもって終了したとされます。どこで節目にしてもよいのですが、この前後に維新の大物が次々に他界しています。長州の大立者、桂小五郎(木戸孝允)が10年5月に死亡します。

そして、明治11年5月に大久保利通が暗殺されます。

維新政府の中核となった3人…桂、西郷、大久保の死をもって、動乱の時代が終わったといってもよいでしょう。そして、伊藤博文が初代総理大臣となり、山県有朋が軍部の権限を独占します。長州出身者が中心となって軍事大国への道を歩み始めます。

ここで出来上がった体制が、軍部主導のもとに太平洋戦争に突き進み、そして崩壊した後に出来上がったのが、現代日本です。

明治を文明開化と言いますが、鎖国による情報遮断が解除され、一気に多様な価値観が雪崩れ込んできたという点では、現代のネット社会も同様だと思います。

何を吸収して、何を捨てるか。個人のレベルでも、家庭のレベルでも、企業のレベルでも、そして社会としても非常に重要な課題を突き付けられている時代なのですが、これと言った指針は出ていません。自由です。

「自由」とはその意味で気楽ですが、「自己責任」と対になっていますから、それなりの覚悟が求められますね。自由だけ享受し、責任を取ろうとしない輩が増えていますが、それを律するのは法律だけでは無理でしょう。倫理規範が必要になります。

さて、この倫理規範をどこに置くか。これまた自由であるところが悩ましいですねぇ。

161、「同志社は何よりも自由な気風を育てねばなりません」
襄は生徒の自治を何よりも重んじるといった。寮長も自分たち自身で選ばせ、酒や煙草はもとより、買い食いをしない、料理屋に出入りしないなど学則まで、生徒たちの申し出たとおりに決めるという。

自由、自治…耳に心地よく響く言葉です。これを求めて人々は地球上を移動します。

が、自由と「我が侭」は同じことです。地球上の人類が皆、我が侭のし放題を始めたら大混乱が起き、あちこちで喧嘩が始まってしまいます。それを納めるために法律があり、人は法律によって自由を奪われます。法の網目が粗いか、細かいか、国によって違いますし、集団によっても違います。学校には校則があり、会社には就業規則があります。

その意味で一番自由なのが我々隠居族で、公的な縛りは六法全書だけですねぇ。

ところが、地域には慣例法という目に見えぬ縛りがあります。これを破ると井戸端会議の話題になり、噂になり、村八分にもなりかねません。成文化されていないだけに厄介で、定年退職したオジサンたちが地域社会に溶け込む弊害にすらなります。とりわけ、単身赴任で家を空けていた人にとって、地域社会の洗礼は難儀なものです。

自分たちの行動規範を自分たちで決める…これが自治で、自治会などが組織され、規則が作られます。が、この自治会が組織されないマンションが増え、規範のないままに好き勝手が横行するのが現代の現象です。町会、自治会を一つの行政単位とする市町村にとっては、新興マンション群は悩みの種になっていますね。行政、各種団体からの情報の受け皿がなく、そして情報のフィードバックもありません。しかも、マンションの入り口はセキュリティーシステムで防御されています。

こういうところでも、問題が起きれば行政や民生委員などボランティアの責任がマスコミに追及されます。マスコミの不勉強、住民のエゴ……困ったもんです。

162、覚馬は「みねの縁組が整った」とだしぬけにいい、「予科生の伊勢時雄に嫁ぐことになった」という。 八重は意外な気がした。ディビスでさえ「御しがたい荒馬」と揶揄するほどの熊本組の一人と、姪の結びつきなど考えても見たことがなかった。

伊勢時雄が横井小楠の息子であることは前回書きました。横井小楠と山本覚馬が佐久間象山の塾で旧友であったことも書きました。人の縁というものは不思議なもので、地域を越えて繋がっていきます。縁が濃くなったり、薄くなったりと色々ですが、私などは「縁こそ財産」と思っています。<円(金)を貯めるより縁を貯めよ>こんな格言はなかったと思いますが(笑)、地縁、血縁、仕事縁、学校縁など縁が豊富な人ほど長生きしボケないようでもあります。女の方が長生きして元気ですが、やはり縁が豊富だからではないでしょうか。面倒がらずに付き合いは大切にしたいと思います。

テレビや小説の中では熊本組が八重に対する敵役として登場しますが、彼らが特別だったわけではありません。高校生や大学生になれば自我に目覚め、権威に反抗したい年頃なのです。八重に「鵺(ぬえ)」とあだ名を付けましたが、先生にあだ名をつけるなどと言うことは我々の時代でも、現代でも学生たちの遊びの一つです。高校の音楽の先生に「チャボ」などとあだ名をつけ、陰口をたたいていましたねぇ。担任は名前(猪瀬)をもじってイノセント(無邪気)など…。夏目漱石の「坊っちゃん」を読めば仇名のオンパレードです。

京都府顧問を辞めた覚馬は、京都市会議長になります。京都博覧会などで町衆の人気が高かったためでしょう。府知事として権勢を振り回す長州出身の槇村に対抗させるために、會津ブランドの山本覚馬が京都人に受けたのかもしれません。いつの世でも、都市住民は権力者を嫌います。

163、二年上級組の背後にあの徳富猪一郎がいると聞いて、ただの諍いでないような気がした。学校を広く人材育成の場と考える襄と、あくまで伝道師養成の場と考える宣教師たちの根強い対立が、生徒たちにも影を落とし始めているように思われた。

二年上級組がストライキを始めます。事の発端は二年生という学年が二クラスあったことで、熊本出身を中心にした上級組と、3か月遅れで発足した一般組を統合して一クラスに編成替えしようとしたことから、上級生意識が燃え上ってしまいました。

良くある話ですねぇ。企業でも新卒組と中途採用組がしっくりいかない事例があります。そういう組み分けをするから対立が起きてしまうのですが、これに扇動者が現れると問題を複雑化させます。単純な問題、課題に付録やおまけをつけて、より大きな、より抽象的な課題に膨らませます。

問題解決の手法は、まず分析ですね。分析は字のごとく課題を「分けて」「折って」解決可能な小さい単位に分解します。分解して、簡単なものから片付け、残った物はさらに分解します。これを徹底すれば、たいがいの問題は解消できます。

これと反対なことをしているのが原発事故への対応で、問題を大きく、大きく抽象化しています。「原発の是非を問う!」などとこれ以上膨らませないほど膨らまして抽象論、哲学論に仕立て上げます。選挙のキャッチフレーズには、この種のアドバルーンが林立しますが、それで問題が解決した事例は一つもありません。課題の解決は微分方程式で、理論、理念は積分方程式で…微積分は数学だけに使うものではありませんよね。

164、襄はさらに「私が幾度か説諭しても、生徒諸君はこれに服さず、理解させることができなかった。すべて私の不徳の致すところです。しかし同志社の校則は厳然としたものです。されば校長である私は、その罪人を罰します」というなり、ステッキでやにわに左手を打ち始めた。

この場面は「百杖の罰」として新島襄を語るときに必ず出てくる話です。自己に厳しく、という典型的な例で、なかなかやれることではありません。だれしも自己防衛が先に立って、現実から離れた脇道に迷い込んでしまいます。言い訳、話のすり替え、法律論争……いずれも自己防衛のための手法です。

こんなことを書きだしたら30年前の研修を思い出しました。心理学者C、アージリスの自己防衛の学説です。言い訳も学問的に研究されると辛いですねぇ(笑)

最も多い自己防衛の手段は「反論反撃パターン」です。現代ではディベートテクニックなどと言う立派な名前がつき、ビジネス手法として研修の材料になっていますが、私はあまり感心しません。まぁ、口喧嘩ですからね。喧嘩のために空手やボクシングを習うようで…何となく卑怯の匂いがするからです。

次に多いのが「無視」ですね。相手の攻撃に一切反応しないという態度をとります。

「話のすり替え」もよく使う手ですね。都合の悪い話から逃げます。

「引用」という手もありますね。あれは自分の意見ではなく専門家の意見を紹介しただけだ…という手で、最近のマスコミはやたらに専門家を登場させます。何かあれば責任を専門家に押し付けて「報道しただけ」と逃げます。

逃げずに立ち向かった襄は、流石に宗教家だと思います。