水の如く 43 虚偽外交

文聞亭笑一

朝鮮の役と言うのは、全く訳の分からない侵略戦争です。戦場となった朝鮮は外交上では蚊帳の外におかれ、秀吉と明国の間で交渉がなされますが、その交渉も秀吉の意向は全く伝わらず、明国も正式な交渉官かどうか…疑わしい人物が担当しています。「交渉」をしていたのは小西行長と、沈惟敬という二人ですが、互いの思惑が絡みあって、手練手管の応酬ばかりです。行長は官兵衛の意見を聞かず、平壌まで進出して大敗した責任を糊塗するために太閤を騙し、沈惟敬は出世のために手柄を立てようとしています。国の代表と云うよりは、国家を持て遊んで自分の手柄にしようという二人です。

何となく…目下進行中の北朝鮮との拉致交渉の様ですねぇ。北朝鮮は「調査をする」と約束はしたものの「制裁解除」だけが目的で、時間稼ぎをしているとも取れます。この時間稼ぎの間に、朝鮮総連が集めた金を本国に送金させてしまえば、それでよしと考えているかもしれません。

「平壌に来れば、調査状況を説明する」というのも、マスコミや外部への情報漏洩抜きで秘密裏に交渉を進めたい意図でしょうが、裏取引の提案でもしてくるでしょうか。

拉致被連や、一部には「行くべきでない」という意見もありますが、ここは敵地に乗り込んで実情を把握すべきでしょう。新しい情報が一つもないようであれば「調査をやっていない、口先だけ」と判断して即、制裁強化で良いのです。

小西行長と沈惟敬の交渉事を作家の桜田晋也は「世界史上においてすら前代未聞の醜聞」と表現しています。日本側が、全く国家としての統制がとれていなかったからです。

・秀吉は現場の実情を全く知らず、勝者として高望みの要求を出します。

・行長は敗者の立場で「臣下になるから日本国王の称号をくれ」と哀願します。

・その官僚である三成など奉行は、失敗責任を糊塗するために汲々としています。

・沈惟敬は権限もないのに、即時撤兵を条件に行長の要求を受け入れます。

思惑が入り乱れている間も、戦場では殺し合いが続いています。被害者は朝鮮の民衆と、日本軍の兵士です。

169、行長は昨年、沈惟敬と最初の交渉に臨んだ時点から入貢封王のみ要求していた。
行長からすれば明が形式上だけでも秀吉に臣従する礼をとってくれれば、自らがしでかした独断専行の平壌和議の失敗を糊塗できる。責任逃れのための見え透いた姑息な策だったが、これに大真面目に載ってきたのが秀吉だった。

入貢封王の「入貢とは臣下として貢物をする」という意味です。つまり、朝鮮と同様に明国の支配下に入りますということですし、秀吉の要求した「明国が秀吉の傘下に入る」とは正反対の意味になります。封王は「属国の王として認めていただく」ということで、これまた正反対ですね。秀吉は明国に入貢封王を求めていたのです。無茶苦茶な交渉ですが、これは小西行長だけに罪をかぶせるわけにはいきません。通訳に立った者の語学力のなさが招いた行違いだと思います。通訳を務めたのは朝鮮と対馬の商人でした。というより、それしかいなかったのでしょう。後は漢文による筆談です。

小西行長にとって、平壌和議と言うのは痛恨の失策でした。50日間の停戦協定を結んだのですが、この間に明軍は40万人の兵力を朝鮮国境に移動したのです。相手方が日本軍の3倍、40万人の兵力を整える時間を与えてしまったことになります。しかも、この50日の間に鴨緑江は凍り、軍の移動ができる時期を迎えます。

日本の外交と言うのは「その場しのぎに…」という伝統(?)が残りますねぇ。河野談話を始め、村山外交、小沢空約束など、近隣諸国に対して脇が甘すぎます。その点では、民間の交渉の方がタフですよ。会社の命運を担って命がけですからねぇ。

170、官兵衛の蟄居は、浅野長政と寧々の尽力で許された。その後、官兵衛が秀吉に物を言う機会はほどなく訪れた。秀吉と、家康・利家の会合に同席を許されたのだ。
「家康殿か、利家殿が総大将であればこうはならなかった。軍法もなく、治世もなき猪武者の血気に任せたのでは、こうなって当然でござろう」
官兵衛は、実は、延々とこの戦争の一部始終を解説したのだが、三人はバツの悪そうな顔をして互いの顔を見合わせ、何と答えるべきかわからずにいた。

寧々…女太閤記などでもてはやされる女傑ですが、実のところは下町のオバチャンです。下町のオバチャン、大阪のオバチャンの強い所は、生活臭がむんむんと漂うほどに現実的なところです。理論、理屈ではない、好きか/嫌いかという感情論が優先するところです。

夏目漱石は草枕の冒頭に「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい」という名句を吐いていますが、寧々オバチャンは好き嫌いを中心に据えて物事を判断します。いわば動物的感覚という世界で、知情意などというものを超越します。妹婿の浅野長政からの情報で、自分の息子(清正、正則、黒田長政など)が苦労していることを知り、秀吉を叱ります。寧々が秀吉のアキレス腱ですね。寧々の諫言に敗けて秀吉は官兵衛を許します。

官兵衛は許されて同席した会で、秀吉、家康、利家の3人を前に、朝鮮の役の軍事解説のような大演説を打ちます。敗戦、苦境の責任者はあなた方3人だ…と。

これに秀吉以上に堪えたのは、家康と利家でしょうね。徳川240万石も前田100万石も、この渡海作戦には全く参加していないのです。逃げに逃げて、浪費を避けていました。悧巧ですが…卑怯です。それをズケズケと指摘したのが官兵衛でした。

171、秀吉は我が子の誕生の嬉しさが増せばますほどに、秀次の存在が邪魔に思えてきた。そこで、とりあえず、生まれたばかりの秀頼と秀次の娘の結婚という形をとった。要するに、譲った関白の座を取り戻そうとしたのである。

「母親にとって、我が子は間違いなく我が子である。一方、父親にとって我が子は、それだ我が子と信じる信仰である」……こういうタブーのようなことを言ったのは誰であったか……。忘れましたが、これは全くその通りですね。秀吉が「我が子である」と信じてしまったら、余計な詮索は無用です。キリスト教の言う「信じる者は救われる」ですよね。

ところが、救われないのが秀次以下の姉の一家でした。もともとソリが合わず、秀吉にも重視されていなかった秀次ですが、関白になってからは必死の努力で「らしく」振る舞おうと勉学にいそしんできたのですが、秀頼の誕生で一気に逆風が吹き始めました。邪魔者扱いにされ始めたのです。

さっさと関白を返上してしまえばいいのですが、秀次にも意地があります。豊臣一門としてのプライドもあります。彼に期待している部下の手前…という責任感もあります。

「あぁそうかい、ならヤーメタ」ともいかないのが人生です。

…今日も、部下の帳付けの不始末と、うちわ一枚で大臣が二人、首を取られましたが、粗探しを始めれば、誰にも傷は見つかります。微罪をもって人を陥れる。…これがいかに卑劣な行為か、石田三成が利休や官兵衛、そして関白秀次を陥れるやり方を見ればよくわかります。

国賊アサヒを始め、マスコミの探偵たちの横行には秀吉政権の末期の姿を見ます。

こんな政治では日本の未来はないでしょうね。

172、「よいか長政、そして栗山も母里も良く聞け。
今の政道を見るに豊臣の天下は一代限りと思うなり
艱難辛苦を忘れ、民の苦痛を思わず、威風ばかりを高くして栄耀栄華を好み、しかも己の礼儀正しからず、下々を憐れむ心なくば、二代とは続かぬ」

第二次朝鮮征伐が開始されます。これで、官兵衛は豊臣政権に見切りを付けます。

この引用は官兵衛が中津城で出陣前に、主立った者たちを集めての場面ですが、長政への遺言に近い訓話ですね。「決して他言はならぬ」と念押ししていますが、独裁者への徹底的批判の文言が並びます。三成、茶々に向けられていた批判の矢が、直接秀吉批判に向かい始めました。この時点で秀吉を見限った、と言えるでしょう。

ここから、官兵衛の新たな挑戦が始まります。

秀吉後の政局を読み、自らの夢を実現すべく動き始めます。

豊臣政権は秀吉の死後に崩壊する。豊臣内部は奉行派と武将派に割れるであろう。5大老と言われる面々もそれぞれの思惑によって蠢動を始め、奉行派に組するのか、武将派をまとめていくかで二つの勢力に分かれるであろう。こういう状況こそ、第3極が台頭するチャンスではないか。

官兵衛はどちらに組するのでもなく、双方の主だった者たちと気脈を通じ、一気に双方の上に立って混乱をまとめる方策を考え始めました。