乱に咲く花 41 鉄道開通

文聞亭笑一

時代は明治4年から5年ごろに差し掛かります。お城を下がった美和さんや楫取は百姓として再出発を計り、荒れ地の開墾に精を出します。金はない、物はない…ですが、人だけは有り余っています。叔父の玉木文之進を手伝って、松下村塾の再建なども始めます。文明開化には教育しかないというのが政府の認識で、このことは他国に例を見ない実に日本的な社会認識でした。

富国強兵を目指す。つまり、経済再建と軍備拡大の二つが政府の基本方針です。そのための国のかたちをどうするかを見聞するために岩倉使節団がヨーロッパに向かいます。

その留守を狙って、「強兵」策優先の西郷隆盛、山県有朋などは徴兵令を施行し、国民皆兵への道を独断専行します。

一方、大久保、木戸から「富国策」を委嘱されたのが伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、大隈重信などで、彼らが文明開化の象徴として選んだのが鉄道建設でした。当初計画は東京と京都の新旧の首都を繫ぐという壮大な計画だったのですが、人も技術もありません。列強は借款による建設を働きかけてきますが、海外事情に詳しい伊藤、井上らは借款による鉄道建設のためにイギリスに侵略されてしまったインドの先例を知っていました。「技術導入はするが独自開発を」というのが建設責任者・工部卿になった伊藤の方針でした。その意味では、独立自尊の策を採用した伊藤博文の功績はもっと評価されても良いと思うのですが、なぜか歴史家と言われる人たちの評価は低いですね。司馬遼など小説家の評価も低いのが不思議です。

伊藤博文は初代総理大臣を務め、5回にわたって政権を担当しています。明治政府の骨格作りを実行した、いわばプロジェクト・マネージャですよね。なぜ評価されないのでしょうか。

一つには、日清戦争の講和交渉で諸外国の干渉を受け、せっかく清国から奪った遼東半島を返還してしまったという弱腰外交が、国民の反発を受けたからだと思います。これは・・・当時の国際的パワーバランスから見たらやむを得ない話で、世界を敵にして権利主張ができるほど日本の軍事力があったわけでもなく、国際信用もありませんでした。それを誇大妄想と夜郎自大な幻想に育てて、伊藤の責任追及をしたのが軍部であり、マスコミ(新聞)でしたね。

二つ目は吉田松陰の評価でしょうか。吉田松陰は門下生の評価の中で伊藤俊輔の評価が最も低く、「俊輔は志が低い。目の前の己の出世にばかり目が行く」と書いています。これを、そのまま受け取ったのが歴史家や歴史小説家で「明治新政府は、一流の者たちが途中で倒れたがために、二流、三流の人物によって組織された」という史観になっています。二流、三流の代表格が伊藤博文であり、山県有朋です。

三つ目は戦後ですが、日本による朝鮮侵略の罪人にされたことでしょうか。伊藤博文は初代の朝鮮総督に就任しています。いわゆる占領軍の親玉で、日本の例でいえばマッカーサーのような立場です。当時の、日本政府の占領政策は高圧的で公用語を日本語にしてしまったり、朝鮮古来の姓を名乗らせず日本式に変更させたりと世界の常識に反したことをしました。それもあって、伊藤博文は奉天で朝鮮人テロリストに暗殺されました。韓国の朴槿恵さんはそのテロリストを「祖国の英雄だ」と、中国とつるんで銅像を建てるのだそうですが・・・まぁ、勝手にしてもらいましょう。あの国はしつこい国で、いまだに「清正」を連想させる「加藤さん」なども憎悪の対象にされるのだとか…。まぁ、君子危うきに近寄らずでしょうか。

♪汽笛一声新橋を

はや我が汽車は離れたり

愛宕の山に入り残る

月を旅路の友として

という唱歌があります。皆さんも一度は口ずさんだことがおありでしょう。 「ない?」 平成生まれですか?

ここから先はWikipediaを引用します。

明治政府では列強による侵略を回避するために、富国強兵を推し進めて近代国家を整備することを掲げていたが、明治初年においてその動きは、ともすればすくなからぬ日本人の反感を買うおそれがあった。そこで、日本人に西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、大隈重信・伊藤博文らは鉄道の建設を行うことにした。また、元々日本では海上交通(海運)が栄えていたものの、貨物・人員の輸送量が増えていたため、陸上交通においても効率化を図る必要があるとされたことも、追い風になった。

文明開化を実演してみせる・・・というのが明治政府の狙いでした。

富国強兵策は必ずしも国民の支持を受けていません。横浜で始まった貿易は、一部商人を富ませただけで、国内に物凄いインフレを招きました。だからこそ「攘夷運動」が盛り上がったのですが、その攘夷の中心であった薩長による新政府は「攘夷」を捨てて「開国」一辺倒です。

版籍奉還、廃藩置県で武士階級は全員解雇になりました。半端な数ではありません。官軍も賊軍もなく全員解雇ですからねぇ。武士本来の職務である軍人は徴兵制施行で誰でも、否応なくやらねばならぬ義務になってしまい、武士の特権ではなくなりました。富国も、強兵も実態が理解できません。

してみせて 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ

後世の山本五十六の名言ですが、まさにそれを地で行こうとしたのが鉄道建設です。

「見せてやる」「乗せてやる」というのが第一課題ですから、急ピッチで建設を進めます。が、抵抗勢力と言うものは必ず出てきます。長州の伊藤、肥前の大隈に手柄を立てさせるなと薩摩が反対します。東京から横浜までの経路上に藩邸がある薩摩は、藩邸の移転に応じません。現在の三田から田町辺りまでは広大な薩摩藩の敷地が海岸線を占拠しています。

「ならば…」と海岸線を埋め立てようとすると、漁業者が漁業権、生存権を楯に埋立てに応じません。「しょうがねぇ」と言ったかどうかは知りませんが、「ならば」と海中に堤防を作り、その上に汽車を走らせるというウルトラCを発案します。江戸には当時、お台場建設に全国から狩り出された石工など土木系職人が、多数残っていたのです。

前ページの絵図はペリーが来た頃の品川周辺です。そこに現在のJR路線を重ねてあります。

ご覧の通り、品川駅は海の中ですね。浜御殿から品川宿までは築堤路線です。最初の鉄道路線は総延長約30kmの1/3は海中路線でした。

新橋駅とて町人たちの反対で現在の位置ではなく、汐留周辺に作られました。苦労しています。

まぁ、新しいことをやろうとすれば、反対運動が起きるのは時代を問わず世の常です。

40年前に社内の基幹システムを作るプロマネをやりましたが、社内からは猛反発でしたねぇ。利点をいかに説明しても、次々と欠点を指摘してきます。野党の政治家の皆さんが主張する「民意」などを尊重していたら「計画中止」しか答えはありません。民意、民意、ミーン、ミーンと蝉が鳴くと腹をくくり「やると決めたら、やるしかない」のがこの種の改革プロジェクトです。恨まれるのは仕方ありませんね。誰かがやるしかありませんから…(笑)

私が伊藤博文を評価するのはこんな共通項からでしょう。

何はともあれ、外国人技師の指導を受けた線路工事が終わり、伊藤などを乗せて試運転も実施、停車場などの整備も順次進められ、明治5年5月7日(1872年6月12日となる)に品川駅 - 横浜駅(現在の桜木町駅)間で、仮開業という形で2往復の列車が運行され、翌8日には6往復になった。なお当初、途中に駅は設けられていなかったが、6月5日川崎駅・神奈川駅(廃駅)が営業を開始している[2]。

営業が始まったのは10月15日からです。開業に先立って一番列車には、明治天皇を始め、政府のお歴々が乗ります。それもあって、この日が鉄道の日になりました。世界の評価も

欧米では、極東の鎖国をしていた島国であった日本が、明治維新より僅か数年で自前の鉄道を完成させたということには、驚嘆の声が上がったといわれる。歴史家のアーノルド・J・トインビーは、「人類の歴史の奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べていたが、新橋駅 - 横浜駅間開業から30年余りで7000kmを突破した日本の鉄道網が、その近代化を支えていたのは間違いない。

人類の奇跡と持ち上げてくれています。反対していても「良い物は良い」と水に流して一斉に新しいことに乗り換えるのが日本人です。携帯電話、パソコン、スマホ…現代でも枚挙にいとまがありません。「パソコンは放射能を放つ、妊婦は傍に寄ってはいけない」などと妄説が出ていたのはいつでしたっけ。医者という人は、実証もせずいい加減なことばかり言います。技術進歩を阻害するのは医者と宗教である・・・と、誰かが言っていましたねぇ。

この当時、三等車(普通車)の乗車券は東京・横浜間で米10kg分の値段でした。2万円くらいだったでしょうか。歩いて1日かかる距離が1時間ほどに短縮されますから、驚異的速さと快適さだったでしょうね。先日、金沢まで北陸新幹線に乗りましたが、明治と同程度の運賃を払っても高いとは思いませんでした。

一日6往復で鉄道省は大儲け、「鉄道は儲かる」となり、官営、私営を問わず一気に全国に広がりました。その関連産業も裾野が広く、日本の近代化、工業国家としての屋台骨が出来上がっていきました。伊藤博文の功績は讃えて良いと思います。