次郎坊伝43 高天神の手柄

文聞亭笑一

長篠合戦で信長の予想だにしなかった鉄砲攻撃に遭遇し、武田騎馬隊は壊滅しました。数千の戦死者を残して信濃、甲斐へと引き揚げます。が、武田家が崩壊したわけではありません。

「遠江への侵略が停まった」ということです。さらに言えば、武田家内部での派閥争いのようなものが発生し、信玄以来の宿将たちが遠ざけられ、勝頼と同世代の若手が実権を握る様になっていきます。跡部、長坂といった官僚派が政権の中枢を固め、高坂、真田など信玄のブレーンであった者たちが遠ざけられます。また、親戚筋の穴山梅雪、木曽義昌なども閣議に呼ばれなくなります。とりわけ穴山梅雪に関しては、設楽が原の戦での勝手な退陣を疑われ、勝頼との距離が拡大していきます。この辺りが後に家康の付け入るスキとなり、調略、裏切りへと繋がっていきます。木曽義昌にしても同様ですね。粗略にされて、心が武田から離れていきます。

要するに、人は石垣、人は城と団結力、組織力を誇った武田軍団の石垣が緩んできました。

派閥争いが高じると組織が崩れていきます。こんなことは今更ながら理屈を語るべくもなく、今回の総選挙を見れば自明です。民主党崩壊、希望の党立ち上げ、立憲民主党立ち上げ、有力議員の無所属出馬・・・、この先も、くっついたり離れたりで、どこに落ち着くのか予想だにできません。安倍政権にとっては「不思議の勝」でしょうね。相手が勝手に負けました。

この先の家康は、緩んだ武田の石垣の小石を引き抜くだけで石垣を崩し、武田の「人の城」を崩壊させることができます。武力というより交渉事、撒き餌をばらまいての一本釣りでしょうか。

色小姓・万千代

先週の番組で、万千代が家康の色小姓として傍に仕えることになった場面をやっていました。

色小姓とは「ホモ」の相手です。が、家康にその趣味はなく、むしろ家康は「後家好き」の方が有名です。精力は抜群だったようで、12男(水戸家頼房)まで子づくりをしていますね。

側室に選んだのはその殆どが夫を亡くした未亡人で、数ある妻妾の中で初婚だったのは瀬名と、隠居してからのお勝、二人だけです。その瀬名ですら、今川氏真の「お下がり」ではないかと言われますから、ちょっと変わった趣味ですねぇ。

井伊万千代が「色小姓ではないか」と疑われたのは、小姓に上がって最初から寝所番を命じられたことと、その後の出世が異例に早かったことに依ります。信長の色小姓・森蘭丸や坊丸兄弟と同一視されたのだと思います。

家康が気に入ったのは、万千代の出自(名門・井伊家)の良さ、利発さ、人柄のようで、親の威を借る重役たちの子息よりも、万事に使い勝手が良かったからだと思われます。龍潭寺や鳳来寺で育っていますから、規律正しく守秘などの点でも安心だったのかもしれません。

長篠の戦の後、信長の軍は岐阜、京へと引き揚げますが、ここから家康の三河、遠江回復作戦が始まります。信玄による三河侵攻、勝頼による遠江侵攻で家康の本拠地である三河、遠江の地は武田軍によって虫食い状態にされていました。中でも信濃への出入り口に当たる二股城は岡崎と浜松をつなぐ要衝の地です。さらに高天神城とその補給路に当たる諏訪原城は遠江における武田軍の橋頭保です。こういった武田の拠点を潰さないと遠江を完全支配するところまで行きませんし、武田の出先から遠江の豪族たちへの調略工作も防げません。

最大の難敵は高天神城ですが、家康はまず、三河・二股城の奪取に向かいます。長篠城は信長の助力で何とか守りましたが、本拠三河の国内に武田の拠点があるのでは岡崎と浜松を分断されかねませんし、遠州の豪族たちにとっても不安の種です。

長篠の戦の後ですから武田軍の主力が命からがら引き揚げた後でもあります。救援を期待できない城兵たちは、包囲される前に逃げ出す者が多く、比較的容易に奪い返すことができました。

高天神城 包囲戦

ついで高天神城の奪回にかかります。しかしここは武田支配地の駿河に近く、守っているのは旧今川の武将・岡部元信です。岡部は今川時代に「今川水軍」の元締めでしたし、今川崩れでは真っ先に武田に鞍替えした一人です。その意味では武田への思い入れが強く、調略が利きにくい相手でした。また、高天神城は城攻めの名手・武田信玄が2万5千の兵で囲んですら、落とせなかった要害です。一万に満たない家康軍が力攻めで落とせる城ではありません。

家康はこの城を落とすために、まず、甲斐からの補給路を絶とうとします。大井川の水運を使った補給路が高天神への幹線ですが、このルートの中間に諏訪原城があります。ここを落とせば甲斐や駿府との連絡を封じることができます。

長篠戦の翌年(天正4年、1576)二月、勝頼は高天神城に進出し、兵糧を運び入れます。これを阻止しようと家康も出陣し、柴原に陣を構えます。双方がにらみ合いのまま数日過ごし、勝頼は甲斐に引き上げます。勝頼の目的は高天神へ大量の武器兵糧を送りこむことでしたから、あえて徳川との決戦を求めませんでした。

万千代の初手柄

この対陣中です。武田の間者部隊、暗殺部隊が家康の首を狙って徳川陣に忍び込みます。

夜陰に紛れて家康の寝所に忍び込んだといいますから、誰かが家康の寝所の位置を漏らした可能性がありますね。その意味では家康軍も一枚岩ではなかった、武田に通じていた者もいた、ということでしょう。

ともかく、暗殺部隊の二人が寝所に忍び込んだところを、万千代と万福が発見します。万千代が家康の寝所に斬りこもうとする敵を斬り倒し、もう一人にも手傷を負わせます。残った侵入者たちは逃げだしますが、これを万福が追いかけて仕留めます。家康は乱入されるまで気が付かなかったようですから、熟睡していたのでしょうか。

寝所番、宿直ですから当然の働きと言えばそれまでですが、この手柄で万千代は一躍三千石の恩賞をもらいます。この恩賞で拝領した土地ですが、どうやら井伊谷の中心部だったようです。

だとすれば…これで井伊家は復権し、復活したということになりますが、今回のドラマではどう描くのでしょうか。直虎は近藤康用に遠慮して、井伊谷の領有権は主張しない態度でいますからねぇ。それに、井伊家と近藤家はその後の確執もあります。

ともかく、その後の近藤家は井伊直政の寄騎として配下に付くことになります。

ずっと後の話ですが、父に代わって康用の息子・秀用は、その後の戦で手柄を立て、後に井伊谷1万5千石の大名にまで出世します。ただ、直政との確執から勝手に出奔してしまいます。

子孫は徳川二代・秀忠の時代に許され、徳川の直参旗本として明治まで残ります。

家康は大井川中流の諏訪原城を奪取するなど、その後も高天神への補給路を絶つ努力を続けますが、大量の備蓄物資と、海からの補給などもあって、天正8年まで、高天神城は陥落しませんでした。それだけ難攻不落の要塞でした。