紫が光る 第38回 次の次へ
作 文聞亭笑一
彰子に敦成親王が生まれて、天皇家の後継順位に異変が生じました。
村上天皇以後の皇位継承順位は、冷泉系と円融系で交互継承、長子優先という原則が暗黙の了承となっていました。
冷泉天皇と円融天皇はいずれも村上天皇の実子です。兄が冷泉、弟が円融です。
皇位継承ルール
なぜこんな面倒なルールが出来たのか?
村上天皇の長子・冷泉天皇に精神的障害があったためです。
精神医学が存在しない時代のことですから障害の程度はわかりませんが、天皇として政治的決断を下すには問題が多かったようです。
ならば、最初から円融へと譲位すれば問題はなかったはずですがそこは公家社会の政治模様で閨閥の力関係が左右します。
冷泉に問題、瑕疵はあるが長子優先の原則は貫く。
精神に異常のある冷泉は早期に退位させ、弟の円融に引き継ぐ。
冷泉を引退させる条件として、円融の皇太子は冷泉系から出す。
このルールを積極的に推進したのが道長の父・兼家です。
冷泉天皇の中宮は兼家の姉でした。
一方の円融には娘の詮子を送り込んでいますから、双方を手玉にとって政権を私しようという策略でしたね。
ほぼ、思い通りになりましたが、それに翻弄されたのが天皇家の血筋の方々でした。
こういう環境の中で生まれてきたのが彰子の産んだ敦成親王です。
愛娘の産んだ孫が可愛い・・・実力者の道長。
愛妻の産んだ長子・敦康を立てたい一条。
理屈の世界ではありませんね。
情が絡む、更に政治的思惑が絡む厄介な世界です。
さらに、道長と一条だけでなく、冷泉系皇太子の居貞親王の「親政復帰」への思惑も絡みます。
居貞皇太子(三条天皇)
ここまでの物語には殆ど登場してきませんが、一条天皇が7歳で即位したときに同時に東宮・皇太子として即位したのが居貞親王です。
冷泉天皇の次男にあたり、道兼に騙されて出家、退位した先代・花山天皇の弟です。皇太子になった当時11歳でしたから、皇太子の方が天皇よりも年長・・・という異例、変則の形になっていました。
こういう変則な形態を生み出したのも、道長の父・兼家の政権奪取計画の一環ですね。
自らの閨閥をより強固にすべく「アレがダメならコレ」という選択肢を数多く用意した布陣です。
居貞皇太子にとって年下の一条の存在は嫌だったでしょうね。
通常であれば年上の自分の方が先に耄碌するかあの世行きです。
皇太子とはいえ天皇位を継げる可能性が低い立場です。
呪詛でもしたくなるところでしょうが・・・耐えて、耐えて時を待ちます。
そこが伊周との違いでした。
紫式部と清少納言
どちらも平安文学の代表的存在で、とりわけ清少納言の「枕草子」は高校国語(古文)の教科書になり、多くの高校生を悩ませ(?)ました。
「いとをかし」がちっとも可笑(おか)しくはなく試験の度に苦痛でもありましたね。
ただ日本語の流れというか、リズム感というか、心地よさを感じる文章ではありました。
古今集や百人一首に馴染むようになって・・・ようやく理解の域に達した様な気もします。
それはさておき、ドラマでは二人が互いに相まみえて刺激し合うという脚本になっていますが、二人が親しく会話したことはなかったようです。
互いの作品を読むことや、他人を通じての評判を耳にして刺激し合ったようですね。
清少納言が紫式部をどう見ていたのか?
資料がありませんが紫式部日記には以下の記録があります。
ドラマの時代考証をしている倉本一宏さんの現代語訳を・・・更に意訳します。
清少納言は得意顔で、偉そうに語る人です。
知識をひけらかして漢籍などを多用しています。
が、良く見れば理解不足の点が多々あります。
彼女のように勝ち気で、他人より優れた振りをしたがる人は、きっと後でボロが出て評判を落とすことになるでしょう。
いつも風流ぶって、しかもそれが身についてしまった人は、面白くもないことでもしみじみと感動してみたり、興のあることを見逃さないようにと気を配ったりしているうちに浮薄な態度になってきます。
そういう人の将来が華やぐことはないでしょう。
かなり辛辣ですね。
こういうことを書き残す紫式部も、相当な勝ち気の持ち主でしょうね。
とはいえ、式部が清少納言を強く意識していた雰囲気は伝わってきます。
読者である一条天皇の評価を競い、それに定子と彰子の代理戦争のような雰囲気も絡み火花が散っていたという雰囲気です。
ドラマでは二人を合わせるようですが・・・どうなりますか??
但し・・・この文が書かれた頃の政治環境を考えると、単なる文学批評とは言えないかも知れません。
「清少納言-定子-敦康親王」というラインと「紫式部-彰子-敦成親王」というラインの跡目争い(皇太子の指名争い)という政治問題が絡んできます。
定子の教養参謀であった清少納言、彰子の参謀である紫式部、この二人が一条天皇の後継者争いをしている・・・その政治的意図を持った文章、評価とも言えます。
ならば互いに政敵ですから厳しい批判になりますね。
伊周一派の呪詛事件
テレビでは伊周自身が事あるごとに道長を呪詛している場面を流しますが、呪詛の効き目は脇に置くとして、呪詛しているという評判・噂が立つと事件になります。
テレビが映すほどに呪詛をしていたら・・・壁に耳あり、障子の目あり・・・バレます、垂込みを誘います。
伊周の母方の実家、高階家は元々が斎の宮の祭主・・・神主系の家ですから、祈祷するのはお手の物です。
その祈祷が誰かを害する方向に働くのを呪詛というわけですから疑われやすい家柄でもありますね。
その高階が当主以下揃って「敦成親王、彰子中宮、道長右大臣」を呪詛した罪で、検非違使に検挙されました。
政敵の道長はいざ知らず、皇后、親王を呪詛するというのは大罪、反逆罪になります。
一族からそういう犯罪者が出た・・・そのスキャンダルだけで伊周の政界復帰の道は途絶えました。
と言うことは・・・敦康の皇太子の目も弱くなりました。焦り・・・ですね。