八重の桜 41 そして誰もいなくなった

文聞亭笑一

ここのところ放送後の予告編がわかりにくく、次はどの部分をやるのか…皆目わからなくなってきました。今週放映の場面を…と思って福本武久の「小説・新島八重」から引用しているのですが、上手く同期しませんね。まぁ、仕方ありません。作者が違うのですから、同じ事実を追いかけても重点の置き所が変わってきます。

テレビとは離れますが、大体このあたりだろう…と思われるあたりの「明治」を辿ってみることにします。明治12年から13年ころの京都が舞台です。

西郷が西南戦争で城山に散り、木戸孝允が憂悶のうちに死に、大久保利通が暗殺されて、維新の元勲は「そして、誰もいなくなった」というのがこの頃です。内政は伊藤博文が采配を振るい、軍は山県有朋が握っています。長州閥が、じわじわと権力を固め始めていた頃ですね。元会津藩士で、後に義和団の乱の際に北京籠城で名指揮をとって、諸外国から絶賛されることになるコロネル・シバ、柴五郎は西郷と大久保を次のように語ります。

余は、この両雄維新の際に相計りて武装蜂起を主張し、「天下の耳目をひかざれば大事ならず」として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能(あた)わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを、当然の帰結なりと断じて喜べり

かなり辛辣ですが、賊軍とされて差別された諸藩の人々の思いはこうだったのでしょう。

福沢諭吉も、西南戦争には批判的でした。彼の評論を意訳してみます。

政府とか権力と言ったものは絶対的なものではない。相対的なもので、いくら大義名分を振りかざしてみても、そんなものは時とともに変わる。所詮、権力奪取に憑(つ)かれた者は汚名を千載に残す。

これまた厳しい評価です。「政権交代」を合言葉に、大衆迎合の限りを尽くした政権も、内部分裂の挙句に、わずか3年で潰(つい)えました。国民は、自分たちがより豊かに生活できる政治を求めます。「国民の皆様」などと煽てられても言葉だけでは満足しません。そして、公平を求めますが…この『公平』という言葉が曲者です。一律横並び…では満足しません。能力に見合った報酬を求めつつ、能力を測る物差しや、例外を求めて我田引水します。

知らしむべからず…江戸幕府は、この一言で長期政権を打ち立てましたよね。

なんともはや、「難しい」の一言ですが、経済が順調に回っていれば、不平不満は忙しさにかき消されます。4年前に大騒ぎした「消えた年金問題」も、今や一行の新聞記事にもなりません。TPP、原発など…どうなりますかねぇ。

165、八重は全身から汗がにじみだしてくるのを感じた。公義がその中にいることは、なんとなくわかっていたが、元親が加わっていることは意外だった。元親は、明治四年、日本最初の女子留学生として米国に渡った津田梅子の弟で、襄がその父・津田仙から預かっている生徒であった。むざむざ退校させてしまったりしたら、襄の支持者でもある津田仙になんと申し開きするのか。

徳富猪一郎をリーダにした同志社学生の反乱は、日本における最初の学生運動であったのではないでしょうか。学校運営や待遇などの改善を求めて、いつの時代でも学生運動は巻き起こりますし、時には先鋭化します。

学生というのは、表と裏、建前と本音で成り立つ世の中の仕組みを知りません。

表の世界、建前の世界を勉強し、「かくあるべし」を習い、「そうあらねばならぬ」と、一途に思い込みます。私なども高校時代は安保闘争に明け暮れ、大学では学生会の委員長などをしましたが、…純粋(単純)でしたねぇ(笑)

教師や学部長、学長などという者は、世俗にまみれた鵺(ぬえ)である、などと思いましたよ。

が、まだ、私の時代は親の手伝いをしたり、近所付き合いが頻繁でしたから、「常識」という薬が効いて、暴発しませんでしたが、その後の団塊の世代の方々は純粋でしたねぇ。学園紛争などと言うのは、まさに、純粋さのなせる業でした。

徳富猪一郎は覚悟の中退ですが、付和雷同して騒いでいた連中にとっては事の重大さがわかっていません。公義は襄の甥にあたります。安中の田舎から襄の両親について京の都に出てきて高等教育を受けるという幸運を理解できていません。退学して、勘当されたら、人生がどうなるのか…考えていません。元親も同じ…。良い所のボン、苦労を知らない者ほど熱病にかかりやすいのです。皆さんの孫世代を熱病患者にさせないためには、お小遣いは上げない方が良いですよ(笑)我が家では駄賃は奮発しますが、小遣いは出さないことにしています。駄賃は労働に対する対価、小遣いは不労所得。この差は大きいですよ。それがわかっていなかった鳩ポッポ、ああいう風にはさせたくありません。

166、八重の兄・山本覚馬は、明治12年3月、推されて府議会議長となった。府議会と知事槇村正直が、税の徴収をめぐって対立していることは八重も噂には聞いていた。
当時は税を課すのもまちまちで、基準もなかったので、第一回の府議会で、土地と戸数割に課すようにきめられた。

税金というのは、いつの世でも公と民のせめぎあいの火種です。

「給料は多ければ多いほど良い」「税金は少なければ少ないほど良い」これまた誰も文句を付けない労働者、庶民の本音です。消費税の3%UPで大騒ぎをしていますが、借金国家が収入を増やす方策は税金の値上げしかありません。電力、水道の値上げと同次元の話です。100円の物を105円で買っていたのが108円になる…。それほどの大問題か?明治の税制改革の凄さに比べたら「ちいせー、ちいせー」です。

農民の年貢が金納に変わって、農民は塗炭の苦労を味わいました。米を金に換えなくてはならないのですが、農民に経済観念はありませんでした。誰かに言われたことを信じて米を売るしかありませんが、悪徳商人が暗躍します。詐欺師が跋扈(ばっこ)します。

覚馬が提案した税制は「単純明快をもって旨とする」税制でした。江戸期の複雑怪奇な税制を刷新するには「単純明快」こそが大切だったのです。が、一時的に減収になります。それが困るから…府知事は府議会の提案を無視します。

現在の財務省も…体質的には一緒ですが、消費税ほど平等な税制はないと思いますよ。

生活保護者の月の食費が5万円として、3%は1500円。それで飢え死にすることはありませんね。民主党は自らが決めた増税案を安倍政権が踏襲したことを万歳三唱で祝った方が良いと思います。当たり前…なのですから。

167、みねと時雄の婚礼は、みねが女学校を卒業する明治13年7月と決められていた。傍らで吐息を漏らすみねの襟元から、白粉(おしろい)の匂いが漂い、女の色気が湧きたっている。

子供に恵まれない八重にとって、みねは自分の娘同様な存在だったでしょう。我が子が嫁ぐというのは、親にとって実に複雑な感情の波を立ててくれます。親離れ、子離れの儀式で、最愛の子供が自分から離れていきます。これに耐えられるかどうか…、親の力量でもあります。耐えられない親が増えているようですね…一つの社会問題です。

昔の結婚式で定番になっていたスピーチに「5つの親孝行」があります。紹介します。

一つ、「オギャー」と元気よく産声を上げて、この世に生れ落ちること  <出生>

二つ、自分の飯は自分で稼ぐようになること              <自立>

三つ、親の戸籍を離れ、婚姻して新家庭を築くこと           <独立>

四つ、親に孫の顔を見せること。孫の数は多いほど良い         <継承>

五つ、親の葬式を立派にあげること(親より先に死なないこと)     <謝恩>

ちょっと説教じみますね(笑) 3番以降で躓いている人が増えていますから・・・

168、伝道に発つ襄に付添っての初めての旅は、明治13年の10月から年の瀬までの中国、四国、九州行きだった。

同志社の運営資金は米国のキリスト教会からの寄付です。これが絶たれたら、理想も夢も吹き飛びます。新島襄は教育者であるよりも宗教家としてのパフォーマンスをとらざるを得ません。日本各地に伝道に歩き、説教し、信者を増やすミッション(使命)を背負わされています。同志社の第一回卒業生も、そのほとんどは全国各地に散り、宣教師としての活動に携わっています。

八重が、この旅に同道したのは、今治に行きたかったからです。姪のみねの嫁ぐ相手である伊勢時雄が教会を建てて本拠にしている現地を見ておきたかったからでしょう。

みねは、結婚したら今治に行くことになります。その後は手紙のやり取りしかできません。手紙は…情景がわからないと伝わる情報が半減します。その意味でも、八重はぜひとも今治の自然と風土を見ておきたかったのだと思います。