水の如く 44 事件の裏側で

文聞亭笑一

テレビの進みがゆったりとしてきました。私の手元のネタ本では、秀吉のボケ症状の頃に関しては殆ど記述がありません。既に、前号、前々号で引用した部分ばかりが、次回の放映になりそうです。前回、官兵衛が関白秀次にアドバイスをしている場面がありましたが、切腹を免れたとはいえあまりにも危険な行動です。ああいう場面はなかったのではないかと思いますね。誰かが、アドバイスしたとしたら…浅野長政でしょうね。浅野長政が囲碁仲間の官兵衛の意を受けて、幼児同士の婚約などの融和策を進言したと思います。

浅野長政は寧々・北政所の妹婿、つまり、寧々の義弟に当たります。数少ない豊臣家の一員ですから比較的自由に振る舞えます。しかもこの当時は五奉行筆頭の位置にありますから、三成一派も手出しできません。更に、息子の浅野幸長は、関白秀次付でしたから、双方の仲裁には適任でした。配役を大勢出すと分かりにくくなるから、官兵衛が直接アドバイスした形をとったのでしょう。

このドラマに、秀吉の清須時代からの仲間で、蜂須賀小六と同格の活躍をした前野将衛門が全く出てきませんね。これも配役の都合上でしょうか。この当時、前野将衛門は関白秀次の筆頭家老的な立場にありましたから、秀次謀反事件の責任を取らされて切腹します。ともかく、三成は敵となる相手を次々に罠にかけます。その標的にされたのは秀吉の古参の部下たちでしたね。山内一豊なども秀次付でしたから危ない所でしたが、早々に聚楽亭から逃げ出して…つまり、秀次に近づかないようにして連座を免れます。

晩年の秀吉は、次第に信長に似てきて「邪魔者は消せ」という人事政策になっていますから、諸大名は戦々恐々というありさまだったと思います。

173 金貸し関白

秀次謀反事件の背景に、秀次による「大名貸し」が目に付くほどに膨らんできたということが挙げられます。大名貸しとは金融業で、関白から大名家に貸し付ける融資です。

朝鮮出兵中の西国大名を中心に、各大名家は財政が火の車です。遠征費用は政府・豊臣家からは一切出ず、自前で賄わなくてはなりません。とりわけ苦しかったのが毛利一門でしょうね。毛利輝元、小早川隆景、吉川広家が3万の軍勢を朝鮮に送り込んでいますから膨大な出費です。しかも、隠岐から対馬を経由して手にしていた朝鮮貿易の資金源も封鎖されています。瀬戸内海運の利益も「軍事用」の名目で三成に召し上げられています。

秀吉は、信長に倣って「毛利を潰す」という意図があったかもしれませんが、官兵衛や安国寺恵瓊の尽力で、秀次からの資金源が続いていました。秀吉に毛利つぶしの意図があったとすれば、これは反逆行為に映りますね。

更に秀次は、資金源として堺にまで手を伸ばします。叔父の秀吉や三成一派が朝鮮に手を焼いているのを尻目に、呂(る)宋(そん)助左衛門などを使って東南アジア貿易を支援しています。

この動きが、また、派手でしたねぇ。「目を付けてください」と言わんばかりでした。

174、「如水」の意味

如水は…言葉通り「水の如く」でNHKも中国古典からの引用と、「水は方円の器に従う」という名句を引用していましたが…文聞亭は余計なことに気が付きました。

水は温度によって姿を変えます。寒ければ凍り、氷になります。熱せられて百℃を越えれば気化して水蒸気になります。水の三態、そこまで考えて名を選んだか?と思いました。

官兵衛の人生は、まさに水の三態のように、めまぐるしく変転します。

氷、固体のようになってしまったのが伊丹・有岡城の地下牢でした。そして、朝鮮での三成との確執で干されている今ですね。

水蒸気、猛烈なエネルギーを発揮したのが中国大返しから山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦を経て秀吉に天下を取らせるまで。そして関が原の役では、家康派でもなく三成派でもない第三極として天下を狙う九州平定戦の時でしょう。

それ以外の時間が液体の「水」でしたね。勿論、熱い湯もあれば冷たい時もあります。

読者の皆さんにしても、人生夫々温冷の時期があったと思います。かくいう私にしても、幸にして凍ってしまうことはありませんでしたが、随分と温度が低下したこともありますし、猛烈に湯気を吐いて走り回ったこともあります。氷や湯気の時期は家族には迷惑をかけましたねぇ。仕事以外は念頭にありませんでしたから…。

これからは世の中の季節に合わせて適温でいたいと思いますが…、なかなかどうして、熱くなったり冷たくなったり、コントロールしにくいのが自分の温度です。

175、秀頼のDNA

「秀頼は間違いなく茶々の子だが、秀吉の子である可能性は極めて低い」それが定説になっています。秀吉の子である可能性が低いと言われる所以は、まず、成人後の秀頼の体格です。豊臣家の者たちは、秀吉、秀長、秀次…いずれも小柄で痩せ型でした。成長期の栄養の問題もありますから一概には言えませんが、骨格は遺伝しやすいものです。秀頼の体格は身長180cm、体重100kgくらいあったようですから…似ていません。

ならば茶々の家系は?浅井長政は中肉中背で当時としては普通だったようです。織田家も、それほど大柄な家系ではありません。そうなると…突然変異??

ここからは推理小説のテーマになります(笑)

私は、淀君一派の拉致事件を疑います。淀君の意を受けた大野治長、治胤など、乳母の大蔵卿一派が「適当な男子探し」を始めたと推測します。

体格が良く、頭の良い若者を探し、誘惑、拉致してきて、淀君と一夜を過ごさせる。

そして…消す。これなら証拠は残りません。

拉致された方も…竜宮城に迷い込んだような気持で、種馬の役に溺れたと思いますね。

北朝鮮の金一族が何を目的に拉致を繰り返したかは闇の中ですが、世間に知られたら恥ずかしい目的のために拉致事件を繰り返したのではないでしょうか。政府の調査団が平壌を訪問しますが、真相は闇の中でしょう。金正日の思惑が世界にバレたら、国家の存続が危うくなるような目的があったのではないでしょうか。

権力者と言うのは、時に、凡人に想像もつかぬような暴挙をします。淀君という人は、その後の行動を見ても、現代人の常識を外れた行動の多い人でした。朝鮮出兵以後、豊臣政権の権力者は淀君で、秀吉はその走狗にすぎないのではないか…などと思ったりします。

だからこそ、関が原以後も大阪城の主として家康に対抗していったのだと思います。

サッチャー首相が「鉄」の女なら、淀君は「黄金」の女として女性史を飾るでしょう。

176、石田三成と言う男

今回は淀君と共に、全くの悪役ですねぇ(笑) ちょっと気の毒でもあります。

 一般的に「三成は能吏であって政治家ではない、軍人ではない」と評価されています。政治家でない人が、関が原に西軍10万人を集められるでしょうか。政治家なればこそ、毛利、宇喜多、上杉の三大老を説得し、反家康、打倒家康の軍を集めることができました。しかも、関が原の布陣を見れば、後世の軍事専門家が見ても必勝の包囲網を敷くことができたのです。決して事務屋風情のできる芸当ではありません。

「人徳がなかった」ともいわれます。が、これも眉唾で、徳川政権が作ったイメージでしょう。島左近を始め、当時西軍に参加した多くの武将たちは三成に期待をかけていました。負け戦が見えてからも、石田軍は良く戦っています。戦死者の数も多いのです。

検地、刀狩に関していえば、使ったモノサシが「京尺」で不平不満の素になりましたが、その後の明治政権まで三成が統一した度量衡が全国標準になり、モノサシの統一を実現しました。さらに、庶民からの武装解除に関しては、彼がやらなければ誰もできなかった革命的業績です。世界の警察官を自認するアメリカ合衆国も、庶民が武器を携帯する国です。イスラム国家などでは、庶民が機関銃を持っています。「治安のよい国」と言われる日本の基礎を作ったのが石田三成でもあります。

その彼の、最大の失敗は…秀吉を朝鮮に渡海させなかったことです。ソウル(漢城)を落とした段階で秀吉を現地に招き、朝鮮半島の景色を見せておいたら、その後の展開は…大いに変わったと思います。言葉が通じぬ人々を目のあたりにして、秀吉の無謀な夢は潰え去った可能性が高いのです。しかも、秀吉が渡海するとなれば、家康も利家も随行せざるを得ません。朝鮮の守備隊長に家康を任命することもできました。

なぜ、それを進言しなかったのか。

もしかすると…秀吉は乗り物酔いがきつかった…。とりわけ船に弱かったことが想定されます。九州征伐でも秀吉は陸路を進んでいます。四国征伐には現地に行っていません。  波の静かな瀬戸内でも船を使いませんから、玄海灘から対馬までの荒海は「秀吉の名誉を傷つける難行」になると、慮ったのかもしれません。

日朝の人民に多大なる犠牲を強いた朝鮮出兵が、その後の歴史の教訓にならなかったのは実に残念です。家康が、秀吉に随行して外国を見ていたら、鎖国などと言う外交政策をとったか否か。まぁ、そうはいっても…歴史に「if」はありません。