乱に咲く花 42 西郷さん爆走

文聞亭笑一

NHKの物語は、一気に明治8年ごろに飛んでしまうようですが、実はこの国のかたちが大きく変化したのは明治5年、6年ころです。岩倉使節団が、新生国家のかたちを模索してヨーロッパへ研修旅行に出かけている留守に、西郷隆盛以下の留守番部隊がどんどんと改革を進めてしまいました。「使節団が帰国するまで改革を実行しない」という約束を破っての独断専行です。

こう書くと、西郷さんは随分とケシカラン男になりますが、1年半もの間を何もせずにいたら維新に批判的な勢力が力を持ち、造反や反乱を起しかねない不安定な状況でしたから、やらざるを得ない立場であったことも事実です。

当時の政府は、政府としてのかたち、機能も不透明でした。

天皇が最高権力者で、その代理として三条実美が太政大臣です。

さらに、その補佐としての右大臣に岩倉具視が居て、それとは別に参議という集団がいます。

西郷隆盛、大久保利通

木戸孝允、大木喬任

後藤象二郎、板垣退助

江藤慎平、大隈重信

ご覧の通り出身を見れば薩長土肥の代表者です。

「卿」というのはいわば大臣で、政府官僚機構の責任者です。陸軍は山県有朋、海軍は勝海舟、大蔵省が大隈重信、工部省が伊藤博文、開拓省が黒田清隆などです。

岩倉使節団の留守政府というのは、このうちの半分が1年半の間、居なくなった体制です。

総理大臣とも言うべき三条実美はお飾りのような人だったようで、政策実行能力が全くない人だったようです。参議の中心人物である西郷隆盛が言うが侭に、「そうせい」と答えるだけだったらしく、その西郷も自ら発案するタイプではありませんでした。従って、山県、大隈などの提案を概ね認可してしまう傾向がありました。

西郷さん、鹿児島弁でいえば「セゴドン」という人ほど評価の難しい人はいませんねぇ。

勝海舟と龍馬の会話を引用すれば「大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く」などと表現しますが、意味不明です。

「敬天愛人」を座右の銘とし、参議という顕官にあっても粗末な家に住み、使用人も数名だけで、着流し姿で上野辺りを散歩する…という聖人君子のような側面と、天地がひっくり返るような大改革を独断でやってしまうという独裁者的な側面をあわせ持ちます。

前回説明した徴兵令などは、西郷流に言えば「国民は平等でなくてはならぬ。平等になるためには平民も武士として戦に参加せねばならぬ」という理屈になるのでしょうか。

平等の権利と、平等の義務を負うという西郷ポリシーに沿った大改革が、明治5年から6年にかけて「これでもか」というほど発令、公布されます。それを時系列で追ってみます。

明治5年 8月  学制発布 小学校の義務教育化がなされます。

  9月  鉄道開業 新橋・横浜間が開通 文明開化の象徴です

 11月  国立銀行条例 東京第一銀行を皮切りに、後の民間銀行が認可されます

  〃   徴兵令の発布

 12月  太陽暦への切り替え 明治5年12月3日が明治6年の元旦となる

明治6年 6月  征韓論を唱える (外交基本方針の変更)

7月  地租改正条例発布 いわゆる税制改革です

教育、産業、金融、税制、外交など、基本政策を次々と実行してしまいます。強引というか、独裁というか…天皇も太政大臣も「そうせい」としか言いませんし、ブレーキ役の木戸、大久保、岩倉は海外で何も知らずにいます。知って、帰国するにしても船旅ですから3月近くかかります。ブレーキなしの車が、まっしぐらに暴走していたようなものです。

平民にとって、学制発布と徴兵令はほぼ同時にやってきた。

子供は教育を受けねばならぬ。若者は軍隊に連れていかれる。この二つは国民の8割を占める農民にとって過酷な使役であった。農家にとって子供も、ましてや若者は重要な労働力なのである。それが、ともに6年間奪われてしまうのだ。各地で反対運動が起きた。

徴兵令の兵役6年には説明が要りますね。山県有朋の起草した「徴兵告諭」には

「武士と称した者は厚顔座食し(偉そうな顔をした無駄飯食い)人を殺しても罪を問われず」などと書いたうえで「人たるもの心力を尽くし国に報ぜざるべからず。西洋ではこれを血税という。その生き血をもって国に報じねばならぬ」と表現しています。

徴兵制度には「20歳になれば2年間の兵役義務を負う。除隊しても4年間は予備役として、一朝事あれば召集に応じなければならぬ」とあります。

これを読んだ武士階級はカンカンに怒ります。平民の間では

「政府は徴兵された者の生き血で葡萄酒を作って、外国人に御馳走する気らしい」

「旗、毛布、帽子の赤色は、徴兵された者の生き血で染めるらしい」

などと言う噂が、まことしやかに飛び交いました。そして、発布されたばかりの義務教育は

「小学校は徴兵のために人民をたぶらかすための機関に違いない」

となって、「徴兵反対」「小学校反対」「太陽暦反対」のデモが各地で起きました。しかしこれは軍と警察の力で抑え込まれます。

楫取素彦が群馬県令として呼び出されたのも、地方行政の責任者は薩長の者でないと、政府の趣旨が伝わらないと考えたからでしょう。とりわけ長州人が県令や校長として全国に赴任しています。権威と警察力で抑え込むというやり方です。これをやったのは山県有朋、それを黙認したのが西郷隆盛です。西郷さんのイメージがちょっと変わりますね。

学校教育で困ったのは地方の方言の扱いである。伝統文化もあれば、薩摩藩のように幕府隠密を見つけるために、「ヤカン」を「ヤクァン」というように、わざと発音を変えて矯正してきた言葉もある。先ずは江戸弁を標準語としたが、とりわけ語尾の扱いに困った。「だっぺ」「でんねん」「じゃん」「じゃけん」「ごわす」・・・数え上げたらきりがない。そこで長州弁の「です」「ます」を標準語に定め、教育することにした。

「です」「ます」は東京言葉と思っている人が大半だと思いますが、実はそういうことだったようですよ。関西はこれに反発して現在でも標準語に馴染みませんね。とりわけ京都、大阪は標準語を無視(?)しています。お笑いの世界などでは大阪弁の方が主流派です。

ただ、小学校教育に依って文字文化が統一されてきましたから、標準語が比較的早く浸透しました。関西人も物を書くのにまでは方言を貫くことはできなかったようですし、幕府の時代から公式用語、サムライ言葉は統一されていました。また、官僚の試験には標準語が喋れないと合格しませんから、自ずと標準語化が進みましたね。

税制改革についても触れておきます。

それまでは年貢という形で物納が中心でしたが、明治6年の地租改正条例で物納が廃止され、すべて金納になりました。農村に貨幣経済が一気に流れ込みます。米俵を金に替えないと税金が払えない訳で、各地で大混乱が起きます。流通ルートを持つ者が米を買い叩いて分限者になっていく…などという社会変革も起きます。自作農、小作農などと農民の格差が発生しましたね。

それに輪をかけたのが地租税でした。地租税というのは現代の固定資産税に相当します。

土地の値段の3%を税として吸い上げます。水田などは米の収入で支払えますが、畑地、荒れ地などは所有権を手放す人が続出します。とりわけ武士の持っていた知行地などは税の支払いができなくなって手放さざるを得ません。土地や資産の流動化がおおいに進みました。これが国有地や工場用地となり、工業を中心とする産業が飛躍的に発展する基盤にもなりました。

商才があるものは発展し、そうでない者は没落する…いつの世でも起きる現象です。

こんなことを他国でやろうとしたら、それこそ内乱になるでしょうね。それが、そうならなかったから、外国人は「奇跡だ」と驚きましたが、徳川幕府250年間の「お上」の残影があったからこその出来事だったのではないでしょうか。

「泣く子と地頭には勝てぬ」という諦めが、庶民の間に浸透していたからでしょう。

「耐えがたきを 耐え、忍び難きを 忍び…」

70年前の終戦、玉音放送の文句は、明治維新の大改革に耐えた国民の声でもあります。

なんともやるせない「歴史の繰り返し」ですが、3度目は御免ですねぇ。

ついでですから太陽暦反対運動についても触れておきましょう。

現代人にすればどうでも良いことのようにも思いますが……、明治5年の12月3日が6年の1月1日になりましたから、明治5年は11か月しかありません。

借金は年末にまとめて払う…という習慣が…、年末が一月早まりました。一年周期で資金繰りをしていた人たちにとっては大変です。債権・債務の関係が大混乱を起します。

月給取りも年俸を1/12して、月々もらっていましたから、1か月分損をします。

農民の年貢も同じことで12か月分の年貢が11か月で取られます。

それやこれや…反対運動、弾圧。反対・弾圧、全国いたるところで発生していました。

そういう環境の中で、美和さん一家は群馬県へ「お上」として移住していきます。

今週はNHKドラマの筋書きを無視しましたので、時間に余裕ができました。その分だけ・・・、余計なことを考えます。

「西郷さんの頭の中にあった国家像って、どんなだっただろうか」・・・を、絵にしてみました。

西郷さんの座右の銘というか、常々口にしていた言葉は「敬天愛人」です。天を敬い、人を愛す。

これを国家建設の基本ポリシーにしていたであろうと想像します。天・・・その具現者を天皇においてあったことは間違いないと思います。

神格天皇を唱えたのは西郷さんではありませんが、その意見には賛成であったと思います。

西郷さんが彫刻家であったなら…

故郷の薩摩から楠の大木を取り寄せ、一刀彫で左のような荒削りの弥勒菩薩の半伽(はんか)惟(しい)像を彫ったのではないか……などと考えました。

なぜクスノキか?

建武の中興を支えた楠(くすのき)正成(まさしげ)が「天皇の大忠臣」と教育したことから想像しました(笑)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)は蒙昧な民衆に仏様のありがたい教えを説法してくれる大慈悲を持った仏様です。

西郷さんの「愛人」を具現化するには、最もふさわしい仏様ではないでしょうか。しかも、仏教の「十王」の説によれば、弥勒菩薩は閻魔(えんま)大王(だいおう)の次に出てくる変成王と対になります。戊辰戦争という閻魔大王のお裁きの後が改革者の変成王ですから、弥勒菩薩は丁度 都合が良いですねぇ。

京都の中宮寺、広隆寺の国宝・弥勒菩薩が有名ですね。普通はロダンの「考える人」のように頬杖を突いた姿なのですが…、考えている姿は行動派の西郷さんには似合いません。

さらに、空想、妄想を続けます。

明治新政府の基本方針は「富国強兵」でした。

強兵…右手には剣を握らせました。西郷さんは粗削りな一刀彫ですが、この部分の彫刻は山県有朋がやりました。鍔も、持つ指もしっかり彫り込んであります(笑) 完成度が高いのです。

左手には算盤を持たせました。この部分も彫刻したのは大隈重信です。大隈の意を受けて渋沢栄一や三井、住友などの財閥、岩崎弥太郎の三菱などが算盤玉まで丁寧に彫り込んであります。

そして学制改革こそ、「敬天」を教え込む手段です。これは西郷さんの最も重視した部分だと思いますが、西郷さんのイメージは兜を付けた天皇の姿だったのではないかと思います。後に天皇が担った大元帥の姿・・・兜の前立ては真っ赤な鳥居・・・神格天皇・神様の姿です。

しかし、兜姿では・・・さしもの「そうせい」大臣である三条実美も「うん」とは言いませんから角材に目鼻を書いただけの未完成のままです。

来週のテーマですが、西郷さんは突如として征韓論を唱えだします。これは天皇の国書に対して朝鮮王が無礼な対応をしたことに烈火のごとく怒ったところから始まります。