どうなる家康 第35回 猿芝居の裏で

作 文聞亭笑一

数正出奔に関する謎解きには、歴史家の間であらかたの答えが出たようで・・・「徳川家を護るため」であり、家康もあらかた承知していた・・・と言うのが結論のようです。

岡崎から国境まで20km、それも歩行中心の女子供連れ100人の集団ですから、夜間といえども発見されないはずはありません。

追っ手が掛けられなかったと言うことは、徳川方も承知の上の出奔です。

しかし「秀吉の要求には乗らない」という姿勢、建前を通すために「勝手に逃げ出した」という形をとったのでしょう。

山岡荘八によれば「本多作左右衛門が後を追った」と言うことになっていますが、数正と作左は幼少からの仲間同士で、岡崎城代と岡崎奉行という関係でもありました。

更に、先般家康の次男・秀康が秀吉の人質となる際には、勝正の長男・勝千代と作左の長男・仙千代が側小姓として従っています。

そうです、有名な「お仙泣かすな・・・」の仙千代です。

徳川家承認の上での上洛、転籍なのですが、それをそう言えない政治情勢から、出奔=脱走と言訳しましたね。

更に、後の儒教教育で「君に忠、親に孝」という看板を掲げました。

そのアンチテーゼとして「数正は悪い奴」と宣伝されてしまいました。

更に、明治政府から昭和の軍国教育でも「天皇陛下万歳」に反する行為として、不忠者・・・悪い方の代表にあげられました。

出奔後の数正を詠った落首があります。

家康に 掃捨てられし 古箒(伯耆) 都に来ては 塵ほどもなし

数正の官名は伯耆守・・・豊臣系からも「何もしない」奴と言われ、事実、石田三成が大いに嫌っていました。

三成からみたら数正は将に上記の歌でしょうね。

その後、数正は朝鮮の役の時、深志8万石藩主として出陣し、肥前名古屋で死にますが、死因はフグの毒だと言います。

更に三成の間者にやられたとも言いますし、また、影武者を使って生き延びたとも言われます。

いずれにせよ、数正の後半生は現国宝になっている松本城の建設だったようですね。

北条との関係

今回のドラマでは本多平八、榊原康政、井伊直政などが酒井忠次や石川数正、本多正信らと同格で意見を言っていますが、政治、外交に関しての相談にはあずかっていなかったと思われます。

彼らは軍人であり、政治・外交の中枢には居なかったのではないでしょうか。

秀吉と外交を進めるに当たって、北条との同盟をどうするか?

秀吉に屈するとなれば北条との同盟は自動的に破棄となります。

それでは徳川の面目が立ちません。

家康はその事に神経を使っていたものと思います。

北条との同盟を維持したまま、秀吉の要求に応じるという中途半端な政治姿勢・・・これに苦悩していたと思います。

数正出奔後、家康は伊豆の国・三島で北条氏康と二度にわたり会談しています。

いずれも同盟堅持を約束するもので、「秀吉何する物ぞ」と強がっていますが、その反面で「北条の後ろ盾こそが強気の根源」と示しているようなものでもあります。

朝日姫輿入れ、大政所人質・・・と、秀吉の相次ぐ柔軟外交が開始されるまで、家康方は三河の城の修復と北条との関係強化に躍起になっていました。

その間にも信濃の真田、小笠原、木曽などが秀吉陣営に引き抜かれています。

秀吉の立場

秀吉は、明智、柴田、滝川というライバルを倒し、信雄を抱き込んで信長勢力圏の大半を手にしますが、それでも近畿、東海と北陸がその範囲です。京都・・・玉を握る(天皇を押さえている)という強みはありますが全国制覇というにはまだまだ道半ばです。

ここで秀吉が採った戦略は「位打ち・朝廷利用」です。

まずは自分の位階を驚くべき早さで昇進させていきます。

・・・前例もそれ以後もない異例

1584年10月 従5位下 右近衛少将

  々  11月 従3位  権大納言

1585年 5月 正2位  内大臣

      7月 従1位  関白

もの凄いスピードというか、「無茶苦茶でござりますがな・・・」とアチャコが呆れるほどの早さです。

それ以前から秀吉は筑前守を名乗っていましたが、いわゆる私称で、位階がありませんでした。

朝廷に殿上人として任官したのは1584年10月です。

太閤記などでは1583年に任官したと書いてありますが、嘘ですね。

隠蔽です。

朝廷の記録は首記の通りです。

なぜこんなことができたのか?

まず考えられることは秀吉得意の大賄(わいろ)作戦で、朝廷の隅々まで金をばらまいたでしょうね。

大判、小判に砂金・・・朝廷は正親町天皇の退位、践祚のため大金を必要としていました。

ただ、それだけで朝廷にとっての最大の武器「位打ち」を秀吉に明け渡すでしょうか?

思うに・・・信長を討った黒幕は朝廷であるという秘密を秀吉に握られていて、それをバラされてしまったら朝廷の権威も、信用もガタガタになります。

ここは秀吉の言いなりになって・・・秀吉を朝廷に取り込んでしまい、皇室の信用を護らなくてはなりません。

無位無冠の平民が1年もしない間に殿上人になり、あれよあれよという間に関白になってしまうと言う不思議さ・・・これを「歴史の謎」としない歴史家・・・多分、天皇家の犯罪に触れることになるので業界?のタブーなのでしょう。

ともかく、秀吉は家康との間で戦争をしたくなかった・・・戦争をしたら勝つではあろうが長期戦になり双方とも疲弊する。

ウクライナ侵攻前のプーチンと同じスタンスでしょう。

プーチンは戦争を始めて泥沼ですが、秀吉は外交交渉に徹します。

手駒のすべてを使い、家康の上洛を要請します。

妹ばかりか母親まで・・・想像を絶する譲歩だったでしょうね。

これで家康が上洛を決心しました。

「命の保証ができた」と言うことです。

家康にとっての上洛は鬼門です。

前回の上洛時には本能寺の変が起き、命からがら伊賀越えをして逃げ帰っています。

その前は朝倉攻めで袋のネズミになり、秀吉共々殿軍として苦心惨憺、逃げ帰ります。

上洛して・・・良いことがないのです。慎重にならざるを得ません。

その当りの事情を・・・目立たぬように伝えたのが・・・数正ではなかったか?

数正は大阪で「飼い殺し」のように見えて、弟の秀長、妻の寧々などと裏で相談をする・・・

秀長の使い走りには当時、秀長の家老だった策士・藤堂高虎あたり・・・隠密行動です。

藤堂、本多正信、服部半蔵・・・水面下での交渉が進展していたのでしょう。

その後、秀長亡き後に藤堂高虎が家康に急接近してきます。

江戸城の縄張りを任されるほどに信頼されていますから・・・、この当時からのつきあいも推測できます。