八重の桜 42 懐かしき会津

文聞亭笑一

襄と八重の同志社は苦難続きです。一難去ってまた一難…という状態が続き、襄の健康が思わしくありません。学校経営という課題と、キリスト教の伝道という二重の使命を帯びていますから、体がいくつあっても足りないという忙しさだったと思います。それに加えて、キリスト教精神を「してみせる」という形で実現しようとしますから、体への負担は半端ではなかったと思います。「身を削って…」という状態だったでしょうね。

健康で長生きするか、身を削り寿命を縮めてでも成果を得るか……。

この選択は生き方の問題ですからどちらが良いと言うものではありませんが、社会の揺籃期には成果主義が主流になります。明治時代、太平洋戦争の戦後復興期などの高度成長期には、その傾向が強く出ます。

現代は知的労働の成長期ですが、その分野に関する環境整備や、労働条件に関する指針が不明確なのではないでしょうか。ブラック企業などと言う言葉だけが取り沙汰されていますが、経済団体も労働界も、この問題への解決策を見いだせていません。それ以上に、知的労働の分野では歴史のある官公庁が答えを導き出さなくてはいけませんね。

休養のとれない襄を誘って、八重は旅に出ることを薦めます。今回は襄の故郷・安中、そして八重の故郷・会津への旅です。

169、安中で猪一郎たちと別れて、八重は襄と共に馬車で北へと向かいながら、十四年前の戊辰の年、会津を目指した西軍の兵士たちが砲車を曳きながら通った同じ道を、今まさに進んでいるのだと思った。

学校の夏休みの期間を利用して、襄を休養の旅に誘います。完全休養の旅のはずだったのですが、襄はいつの間にか、キリスト教の伝道ができていない東北地方への、視察の旅にしてしまっています。住民の生活状況や、気風を探る旅という目的を持ち、将来の伝道計画を立てようという目論見です。仕事人間ですねぇ。一時も仕事のことから離れられないのです。まぁ、程度の差こそあれ、我々もそうでしたね。仕事と生甲斐はセットになっていて、常に頭から離れませんでした。

定年退職してからも、その思考形態から離れるのに2,3年かかりましたかねぇ? 

生活態度の転換というのは、思っているほど生易しいものではありません。定年退職後の62,3歳で亡くなる人が多いですが、生活の激変は、体を傷つけるようです。

慌てずに、焦らずに、スローダウンしていくのが良いようですよ。

そんなこともあって、この旅行には大勢の卒業生が従います。みねと結婚したばかりの伊勢時雄まで狩り出しますが、襄に反旗を翻して中退した徳富猪一郎までもが同行します。

猪一郎(徳富蘇峰)は東京で新聞記者を目指したものの、東京日日新聞の福地源一郎には全く相手にされず、自由民権運動の板垣退助、中江兆民などからも袖にされ、失意のうちに熊本に帰ります。そして襄の人脈を頼るしかなくなっていました。

若気の至り、などと言いますが……若いころは、自分の実力を過大評価してしまいやすいんですね。

170、白河までは馬車で来たが、そこから会津若松までは徒歩によるか、馬の背に揺られて行くよりすべがなかった。前日の朝、白河の宿を発って甲子(かし)峠を越え、傾斜のきつい山道が、およそ半里も続く中山峠を越えて、陽の西に落ちる頃、ようやく家屋が街道に沿って帯のように連なる大内の宿が見えてきた。

昨年秋に大内宿を訪ねた時の写真がありましたので、添付してみます。

山の中ですが、実に大きな宿場町で、真っ直ぐな道の両側に宿が立ち並びます。

現在は民宿や、土産物屋、蕎麦屋などになっていますが、江戸、明治の雰囲気を今に伝えています。

余談になりますが、ここの名物はオヤキと葱蕎麦。写真の女性が頬ばっているのがカボチャのオヤキです。葱蕎麦というのは、箸の代わりに長ネギを使ってそばを食べます。葱をかじっては蕎麦を食い、また葱をかじるという食べ方で、野趣豊かですね。

あぁ、写真の女性ですか? ご心配なく。昔の業界仲間です(笑)年に一度、昔の仲間十数人で温泉巡りの旅に出ます。この時は福島の高湯温泉でした。私にとっては八重の桜を書く、格好のロケハンの旅になりました。

会津は現在でも交通の便が悪い土地ですね。磐越線というローカル列車があるだけでしたが、東北道から分岐した高速道路ができて、ようやく身近になりました。

171、昔ながらの武家屋敷町の痕跡は所どころにあっても、八重の見知った城下は既になく、物足りなく思えてくるのだった。
その思いは鶴ヶ城に入っても変わらなかった。建物という建物はすべて取り壊されていた。本丸御殿も礎石だけになっていた。城下のどこからも仰ぎ見ることのできた五層の天守閣もなかった。荒れ果て、ただ広々とした地に根付いた夏草が寂しげに陽を浴びているだけだった。

明治初年の破壊活動は目を覆うばかりだったようですね。「ご一新」の掛け声とともに、旧体制のシンボル的存在だった城や、武家屋敷を徹底的に破壊しました。ましてや賊軍の藩などはその傾向が強く出て、権力の痕跡が残る物は片っ端から破壊しつくします。

150年たった今でも、会津と長州の確執が残るのは、戦争だけではなく、斗南の僻地に騙して移住させたことや、ご一新による破壊が影響していると思います。知事や役人として赴任した長州人が政策を誤った結果でしょう。長州の藩都・萩は古い武家屋敷が観光資源として残っているのに、進駐した先では破壊の限りを尽くしましたね。

「白河以北、一山一文」などと公言したのも影響しているでしょう。薩長政権が東北を馬鹿にした結果が百年の恨みを買いました。

滝廉太郎の名曲「荒城の月」のモデルは大分県の岡城ですが、日本全国、いたるところに荒城の月の詩情が残ります。会津落城の日に

明日の夜は いずくの誰か眺むらむ なれしお城に残す月影

と詠んだ八重ですから、破壊されつくした城跡に立った感慨は、言葉で言い尽くせないものがあったと思います。国破れて山河在り…すら思いつかなかったでしょうか。

私などのように歴史に興味のあるものにとっては、明治の破壊と、戦後復興期の破壊は誠に残念に思います。古代、中世の歴史遺産を、片っ端から破壊していますね。とりわけ、明治期には貴重な文化財を惜しげもなく破壊しました。古墳を掘って田や湿地を埋め立て、そこを大規模工場にするなどと言うことが至る所で起きています。開発と文化財、難しい問題ではありますが、観光資源、歴史遺産として後世に残す努力は続けてほしいものです。世界遺産になった富士山、小笠原など後世への試金石です。

172、傍らにいるのは襄であるにもかかわらず、並んで三の丸に立っていると、死んだ尚之助が、生け垣の樹葉を宙に舞わせて飛んでくる砲弾をかわしながら、走ってきて、側に並び立ったのではないかと思った。
「大砲を指揮する者は、覚馬さんのように洋学に長じていたことでしょう」

ふと我に返ると、傍らにいるのは尚之助ではなく襄である。八重は自分の奥底のある思いを見透かされたようで息苦しかった。

会津城の郭門と三の丸の大砲陣地、ここは八重にとって忘れられない場所でしょう。

八重の前半生のすべてを賭けて活躍した場所です。思い出がたくさんありすぎて、過去と現実が整理できない心境だったでしょうね。

過去というのは、きっかけさえあればいくらでも思い出せるものです。常日頃は全く忘れているのに、同級会などで昔話になると、実に詳細なことまで覚えています。マドンナなどと憧れていた女性の服がああだった、こうだったなどとじつにくだらない事まで思い出します。脳の記憶構造がどうなっているのか知りませんが、古い記憶が消え去らないのが不思議です。認知症になると、今日や昨日のことは忘れても、数十年前のことは鮮明に覚えているといいます。それが、徘徊の原因だとも言います。覚えている過去に戻ろうと、故郷に向かって放浪してしまうんですねぇ。浦島太郎の物語も、そういう人の話かもしれません。