水の如く 45 夢のまた夢

文聞亭笑一

今回のドラマで、私なりに一番心配していたのが二度にわたる朝鮮侵略をどう描くかでしたが、どうやら戦闘場面や虐殺場面には一切触れず済ませるようで、ホッとしています。とはいえ、軍律無視のやりたい放題があったのは事実で、これを、韓国から指摘されたら「ごめんなさい」としか応え様はありません。が、もはや400年前、時効です。

とりわけひどかったのが、殺した朝鮮人の耳をそぎ、鼻をそいで秀吉に「手柄の証拠」として送り付けるという風潮を生んだことです。耳をそいで送るということから始めたのは現地の将兵たちですが、これに対して「耳は二つある。彼らの報告は話半分に聞くべきだ」と奉行たちの誰か(増田、長束ではないかと言われている)が発言したようで、「ならば、一つしかない鼻を…」と虐殺がエスカレートしてしまいました。

死体を損傷してまで手柄を誇りたいという浅はかさは、戦場といえども許されざる行為ですが、これには手本がありました。秀吉が、信長の配下で浅井攻めをしていた時期に、秀吉自身が信長の歓心を買うために行った行為がお手本になっています。朝鮮から送られてくる耳や鼻が到着する度に、秀吉が「でかした、でかした」と喜んでいたというのですから、何をかいわんやですねぇ。京都・国立博物館そばの耳塚・・・日本人は殆ど訪れませんが、韓国人旅行者には定番の観光コースのようです。京都を訪ねたら、まず耳塚に参り、それから三十三間堂や清水寺に回るコースのようです。あまり見たくはない遺跡ですが、機会があったら一度は見ておいてほしい場所ですね。戦争の悲惨さを学ぶという意味で、原爆ドームや、沖縄など、太平洋戦争の遺跡巡りなどをする教育をしますが、被害者としての戦争体験ばかりでなく、加害者としての戦争体験も必要だと思います。

NHKはどう扱うかわかりませんが、伏見城を襲った大地震、醍醐の花見での女の争い、…そんなものを割愛して、ポスト秀吉の動きを追ってみます。

177、いかに見限ったとはいえ、主命とあれば味方の勝利のために働かねばならない。
官兵衛の作戦は味方の犠牲を最小限に食い止めつつ、秀吉が講和条件で明に要求した朝鮮の南部四道を制覇し、確保するということに絞っていた。

第二次朝鮮出兵、総大将は16歳の小早川秀秋、副将が19歳の宇喜多秀家が任命されます。10万を超す大軍を、経験の浅い若者が仕切れるはずがありません。実質はお飾りの武者人形で、軍監・総参謀長に任命された黒田如水が采配を振るうことになります。

当初から出兵反対論者の官兵衛・如水が、遠征軍の総指揮官になってしまうというところが人生の皮肉ですねぇ。「主義を貫いて断るべきだ」と考える皆さんもおありでしょうが、断るということは自殺を意味します。断って、代わりの者が「イケイケドンドン」の猪武者だったら…日韓人民の犠牲はどれほどになるか、想像もつきません。さらに、明・韓との戦争が泥沼化すれば、国際紛争どころか、足元の日本国内が乱れてしまいます。

やるしかない。「ロス・ミニマイズ」この基本戦略で、秀吉の死ぬのを待ちます。

そのためにまずやったことは、補給路の確保でした。朝鮮南部の港湾をすべて制圧し、城(砦)を築きます。港湾の制圧には韓軍の水軍に奇襲をかけ、壊滅させることから始めます。前回は、補給船団が攻撃を受けて大敗した海戦でしたが、今回は、まず攻撃型艦船を先発させて、朝鮮水軍を奇襲し徹底的に叩きました。

そう…後の世の真珠湾攻撃が、この時の如水戦略のコピーになります。まず港を抑えて、物流(兵站)を確保し、それからじわじわと内陸を制圧していきます。

が、手柄の欲しい諸将は内陸攻撃に移ってから勝手な行動に出ます。耳そぎ、鼻そぎをはじめ、秀吉の歓心を買おうとして如水の言うことを聞きません。それに対して秀吉から「もっとやれ、早くやれ」と督励するのですから、如水の手に負えません。大将、副官の若者もイケイケドンドンに乗ってしまいます。さすがの軍師官兵衛もお手上げですねぇ。

178、国威発揚を看板に「天命」とまで称して明国征服軍を起した秀吉だったが、彼我(ひが)に多大の犠牲を出し、朝鮮民衆に癒(いや)されぬ傷跡を残したまま、野望は彼の命と共に風船が萎(しぼ)むように消滅して果てた。

秀吉の病状はさらに進みます。死因は癌ではないかと言われますが、消化器系と言うより肝臓、すい臓などの癌の可能性が高いようです。もはや全身に転移して、見る影もなく衰えてきます。それを襲ったのが慶長の大地震です。自慢の伏見城が倒壊し、避難生活が堪(こた)えて、更に衰えます。

醍醐の花見と言うのは、死期を悟った最後のあだ花でしたね。秀吉なりに、秀頼を民衆に知らしめるための大デモンストレーションをしたのでしょう。ただ、秀吉の衰えた姿を民衆に見せたくない奉行たちの配慮で、警戒が厳しすぎて、秀吉や秀頼の姿は民衆には全く見えませんでした。

この後は…もはや「秀頼を頼む、頼む」の繰り返しになります。朝鮮のことは全く念頭にありません。ただ「わしが死んだら朝鮮の兵は撤兵させよ」と遺言したらしい記録がありますが、これも眉唾(まゆつば)ものですねぇ。余りにも惨(みじ)めすぎる最後を汚すまいと、後世の歴史作者による創作にも見えます。

従軍慰安婦の問題は朝日のでっち上げですから謝る必要はありませんが、秀吉の野望による朝鮮出兵は、決して繰り返してはいけない、歴史の教訓です。

179、秀吉の死後、豊臣政権は、徳川家康以下の五大老、三中老、五奉行の合議制になった。特に、その任務は在韓軍の撤兵にある。

彼らは順次帰った。野戦服のまま、秀吉死後の混迷した政局の中に戻ってきた。

野戦派が石田三成ら奉行派を憎悪することが苛烈で、両派の相剋(そうこく)は伏見城内外でその極に達した。

豊臣政権とは、秀吉が一代で築き上げた新興企業です。親会社であった信長が、ライバルたちをなぎ倒し、鎌倉、室町と続いた武家政権の秩序を破壊し、更には権威として君臨してきた朝廷、仏教界までも破壊しつくした後に創業した、バラック造りの掘立小屋のようなものです。見栄えは豪華ですが、土台が定まっていない空中楼閣のようなものでした。

辞世の下の句にある通り「難波のことは夢のまた夢」が、実体でした。政権にしても、企業にしても、経営の3要素はヒト、モノ、カネです。物、金だけはふんだんに手に入れましたが、肝心のヒトの育成、強化を怠ったツケが出ます。

秀吉は「人(ひと)誑(たら)しの名人」と言われるほどに人事の妙を心得た政治家でしたが、その基本は信長譲りの「使い捨て発想」でした。これが…政権の命取りになります。人だけは……使い捨てにしてはいけません。

政権崩壊の直接原因は武闘派の清正一派と、官僚派の三成一派の争いを家康に狙われた結果ですが、根底にあるのは権力の大きさに溺れたバランス感覚の喪失でしょうね。

清正、正則も、三成も、長浜以来の秀吉が、手塩にかけて育ててきた後継者たちです。

家康や利家に「頼む、頼む」などと言わずとも、彼らが手を組んだら豊臣政権はもう少し永続できたでしょう。互いの良さを生かした盤石のチームワークが構築できたはずです。

依怙贔屓(えこひいき)が過ぎましたね。それを誘ったのが茶々でした。そして…幼児の秀頼でした。

180、室町末期は流通経済が勃興した時で、如水はその時代の人になった。中世では見られない合理主義がこの時代の社会に根付き始めたが、如水はその意味で時代の典型をなすものであったともいえる。
黒田如水の生涯は、関が原の前後、二か月ほどの間に凝縮されるのではないか。

歴史は、政治は、戦争は経済で動く…これは間違いのない所だと思います。戦国時代は地球の温冷サイクルでいうと温暖期に当たります。温暖な気候は人々を活動的にし、経済発展をもたらします。活動的になった人々と富の蓄積は、貧富の差を生み、富者と貧者の間で争いを起します。現代もそれに似た状況が、世界各地で起こっています。イスラム国…主義・主張は看板にすぎず、貧者の反撃です。

流通業は、余ったものを足りないところに移動させることで発展します。余りが出なければ商品にはなりません。地産池消で狭い範囲で完結してしまいます。何が余ったか、先ずは米ですね。主食は確保できました。これが商品になりますから都市住民、専業軍人である武士が増えます。余裕がありますから地方の名産品が開発され、商品化します。信州の蕎麦と越後や駿河の干物魚が交流します。海彦・山彦の縄文の世界の再来です。

これに輪をかけたのが金銀の大量産出です。甲州、佐渡、生野、石見、伊豆…ここ掘れワンワン…わんさか金銀が出てきます。黄金の国ジパングです。この金銀で輸入が激増したのが木綿です。日本人に衣料革命、ファッション革命が起こります。針売りの秀吉と、目薬屋の官兵衛、この二人はその革命の中心になって当然でした。