乱に咲く花 43 武士の魂

文聞亭笑一

楫取素彦と美和さんが、群馬の地で苦労しながら地方行政を担当し始めたのは明治6年ころです。その頃、中央政府では征韓論をめぐって喧々諤々(けんけんごうごう)、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論がなされています。

前回も触れた通り、この議論の発端は日本の天皇からの国書に対し「日本のような小国が『皇』の字を使うのはおこがましい。『皇』を使えるのは中国だけである」と朝鮮王朝が回答して、親書を受け取らなかったことに始まります。朝鮮にとっては中国こそが盟主国であり、日本も同列、またはそれ以下の序列と考えていたようで、そんな国が「日本同様に開国した方が良い」などと言ってくるのはおこがましい。ましてや、天皇などと偉そうな名乗りをするのは許せないという理由で拒否したようですね。日朝関係というのは、どうもこの種の見栄の張り合いというか…、肩肘張った所が現代まで続いているようです。

これに普段は物言わぬ西郷さんが烈火のごとく怒りました。「俺が乗り込む」と…。

征韓論の議論は、明治新政府を真っ二つに割ってしまいました。

この議論に加わった者たちを並べてみると

  征韓推進派      中立派 反対派 

三条実美(公家) 山県有朋(長州) 岩倉具視(公家)

西郷隆盛(薩摩) 勝海舟 (幕臣) 木戸孝允(長州)

板垣退助(土佐) 西郷従道(薩摩) 大隈重信(肥前)

後藤象二郎(土佐) 吉井友実(土佐) 大木喬任

江藤新平(肥前) 大久保利通(薩摩)

副島種臣(肥前)  伊藤博文(長州)

桐野利秋(薩摩) 井上馨 (長州)

篠原国幹(薩摩) 黒田清隆(薩摩)

伊地知正治(薩摩) 渋沢栄一(幕臣)

このリストに上がっている人物が、明治初期の政権に参加していた者たちです。民主主義の世ではありませんから、数が多い少ないは問題ではありませんが、真っ二つに割れていますね。

敢えて言えば、征韓論反対派は外遊組、推進派は留守部隊の西郷派となります。軍部は、陸軍の山県も海軍の勝、西郷従道も日和見といったところでしょうか。

反対理由はひとえに国家財政の逼迫にありました。その原因になったのは反対派が名を連ねる岩倉使節団が外遊先でやってきた大型投資・・・と云うか、大型浪費でした。

まず、結論の出ない議論に議長役(太政大臣)の三条が精神衰弱に陥ってしまいました。

代わって太政大臣代理になった岩倉具視が、独断で天皇の意志なる物を振りかざして征韓論を封じ込めます。怒った征韓派は「やっちゃおれん」とばかりに全員辞職、閣僚級が半分もやめてしまうという事態に陥りました。

木戸孝允が楫取素彦を引っ張り出したのはこういう背景です。ここに名前が載っていない人たちも大勢辞めてしまいましたから、薩長土肥の人材が枯渇したのです。

後の話ですが、板垣、後藤などの土佐系は自由民権運動を起しますし、西郷、桐野、篠原など薩摩組は西南戦争を起します。江藤、副島も佐賀の乱へと走っていきます。

この辺の所を年表風に整理してみます。

明治6年10月 西郷隆盛征韓論争に敗れ下野。板垣ほか多数の参議、軍人が辞職

明治7年 1月 板垣退助ら、民選議院設立建白書を提出

  ○○○2月 台湾征伐を決定

○○○○○2月 佐賀の乱が発生 大久保利通5千の兵と軍艦2隻で出陣 鎮圧

○○○○○4月 佐賀の乱の首謀者・江藤新平を処刑

 台湾出兵に関し、米、英が干渉

○○○○○5月 西郷従道が政府の制止を無視し、独断で台湾出兵

なんか変だと思いませんか? 朝鮮は攻めてはいけないと言いながら、台湾に攻め込む話です。

「金がないから朝鮮出兵はまかりならん」と言っていた岩倉、大久保、木戸などが、今度は台湾出兵をやっています。佐賀の乱に懲りた政府が、武士の不満を鎮めるために外部に敵を作るという戦略的宣伝(?)をしたのですが、これが暴発してしまいます。台湾に攻め込んでしまいました。出兵の理由は2年前に沖縄の漁師たちが台湾人に襲われ殺害されたこと、岡山の商船が台風を避けて台湾の港に避難したところを襲われ、殺害されて船を奪われたことへの報復です。

 なんとなく、昭和の満州事変と似ていますねぇ。軍部独走の第一号です。

 この戦争は西郷従道将軍の活躍で大勝利に終わります。中国から膨大な賠償金をせしめました。そればかりでなく、帰属問題で揺れていた沖縄列島の領有権が日本にあることも認めさせました。

瓢箪から駒・・・のような話でした。

明治9年 3月 廃刀令出される

士族の禄制廃止

台湾での戦勝で、しばらく平穏だった士族たちの不満が、明治8年終盤から再度盛り上がり、ついに爆発します。そのきっかけになったのは、上記の二つの新制度です。

「刀は武士の魂である」というのが江戸期を通じて武士階級の通念でしたし、誇りでした。

それを取り上げてしまいます。さらに、家禄(何石何人扶持など)という家格も御破算にしてしまいます。武士であったことの名誉も誇りも捨てなさい・・・というもので、貧乏しながらも武士の誇りだけを頼りに生きてきた士族たちの不満は頂点に達します。

明治9年10月24日 熊本神風連の乱 太田黒伴雄 他200余人

    10月27日 秋月の乱    宮崎車之助 他230人

 ○○○10月28日 萩の乱 前原一誠  他150名

何れも西郷隆盛以下の薩摩藩・士族が呼応してくれるものと信じて決起した。

3件ともほぼ同時に決起していますね。何がしかの連携があったものと思われますし、薩摩からの働きかけもあったのではないかと推察されます。ただ、西郷隆盛本人はこの種の反乱には反対であったようで、佐賀の乱の時も江藤新平が鹿児島を訪れ決起を促しても動きませんでしたし、今回の3件の事件でも動きませんでした。

西郷さんは過激派の篠原国幹、桐野利秋(中村半次郎)とは一線を画していたようです。

神風連の乱は熊本鎮台の兵に依って翌日に鎮圧されました。

秋月の乱は小倉鎮台の兵に依って11月3日に鎮圧されています。

萩の乱も広島鎮台の兵に依って11月初めに鎮圧されています。

この動乱で、美和さんの家族からまた犠牲者が出ます。叔父の玉木文之進が松下村塾を再興して教育を始めていたのですが、その生徒たちが反乱に加わった責任を取って切腹して果てます。

この辺りの愁嘆場が今週のドラマの終盤でしょうか。

これら一連の反乱事件を見ると…60年安保を思い出してしまいます。情熱に駆られて、後先考えず暴走してしまう若者たち、主義主張に目がくらんで成功確率の薄い賭けに出る狂信者たち、自分の体験を含めて苦い思い出ですねぇ。

こういう事件には必ず煽動者がいます。弁舌巧みに自分の意見を押し付けてきます。経験の浅い若者たちは、それが正か邪か、見分けることはできません。足を踏み入れたら抜けられなくなる世界でもありますからヤクザの世界のようなものです。

「集団的自衛権を認めれば徴兵制が復活する」などという「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな理屈を掲げて扇動している政党もありますが、どういう論理展開か・・・理解できません。

「風と桶屋」の理屈以上にわかりませんねぇ。風と桶屋の関係は

風が吹けば砂ホコリが立つ→ ホコリが目に入れば眼病になる→ 眼病になれば失明する人が増える→ 失明した人はゼコとして三味線の弾き語りをする→ 三味線を作るのに猫の革がいる→ 猫が減れば鼠が増える→ 鼠が桶をかじって壊すから桶が売れる→ 桶屋が儲かる

前後2つの可能性は否定しませんが、確率を論じたらお笑い種(わらいぐさ)です。

ただし、原発などの安全に関してはこういう低い確率のことも念頭に置いて予防対策、応急対策、恒久対策を検討します。

先週、富岡製糸場や生糸の話が出ましたので、蚕の話をしておきます。

なにせ、私は生まれてから二十歳になるまで蚕と共に過ごしましたからねぇ(笑)

養蚕は夏場だけの仕事です。5月ころから始めて9月までの季節仕事。信州では春(はる)蚕(こ)、夏(なつ)蚕(こ)、秋(しゅう)蚕(こ)、晩秋(ばんしゅう)蚕(こ)の4回、繭を取りましたが、暖かい地方ではもう少し多いかもしれません。

群馬も気候は似ていますから、多分4回だったでしょう。明治期は、寒くなると病気が出やすいですから、晩秋蚕はやらなかったかもしれません。

蚕…虫、蛾の幼虫ですからねぇ。大きくなれば青虫同様にノソノソ這い回ります。糞もします。小さなときは桑の葉を摘んできて食べやすいように、小さく切って与えます。大きくなるにしたがって葉を丸ごと与え、ついで桑の幹ごと与え、繭を作る直前に一匹、一匹拾い上げて繭を作るツトに入れます。昭和10年代は藁束の中に、20年代は藁を編んだものの中に、30年代は段ボールで作ったマス目の中に入れて繭を作らせました。技術進歩ですねぇ。明治の、美和さんの時代はどうだったでしょうか。

桑と一口に言いますが、雨に濡れた葉は蚕を病気にさせやすく、1枚1枚拭って与えた記憶もあります。ともかく食欲旺盛で、朝晩の桑取が大変でした。数十万匹分の食料ですからねぇ。

それに、桑畑は概して山畑です。重い桑の束を背負って足腰は鍛えられました。日本では神話の時代から行われていましたが労働集約型産業といって、これ以上の物はないと思います。