八重の桜 43 襄の洋行

文聞亭笑一

前回は八重の里帰り、故郷・会津への帰省の場面でした。誰にとっても、幾つになっても、故郷はなつかしい所です。心のよりどころでもあります。ましてや八重のように青春を燃やし尽くした経験の持ち主にとっては、その思いは一入(ひとしお)であったでしょう。

懐かしい顔が走馬灯のように脳裏を行き来し、立ち去り難い心情だったと思います。

ただ、故郷といえども時の流れと共に変化していきます。記憶にあった山や川も姿を変え、家や町並みは変わっていきます。その中から僅かに残る記憶の痕跡を探して、自分の過去を思い出します。それがなかなか見つからないと…「故郷は、遠くにありて思うもの…帰るところにあるまじや」という室生犀星の心情になってしまいます。

民生委員の役目柄、先輩のお年寄りと話をする機会が多いのですが、相手の故郷を話題にすると、多少認知症の始まった方でも目が生き生きと輝き、次々とふるさと自慢を始めます。故郷の記憶が元気を呼び戻してくれるんですね。

ふるさとの 山に向かいていうことなし 故郷の山はありがたきかな (啄木)

高齢者調査などで口数が少ない相手から情報を聞き出すには故郷話題が一番なのですが…、詐欺まがいの悪徳商法や、オレオレ詐欺もこの手を使います。私とて、現役時代に高校の後輩を名乗る男から危ない電話を受けたことがありました。

懐かしさに…ついつい引き込まれそうになります。

さて、明治初年の城下町は、会津に限らず、どこも大きな変貌を遂げました。

旧体制の権力の象徴であるお城は解体され、解体が難しい石垣ばかりが残されます。

寺も、寺院と神様が同居していた寺は、廃仏毀釈で打ち壊されます。この辺がおかしなところで、寺院だけだったら助かったのですが、神社を併設していたところが 破壊の対象にされました。「国家宗教は『神道』である。従って釈迦や仏教の教えは神道を冒涜するものである」という理屈でした。

写真は、私の故郷の象徴、心のよりどころですが、この城を残してくれた明治の方々には大変感謝しています。ただ、昭和の方々が城下町の町名を捨て去り、無味乾燥の町名に変更してしまったのは残念でなりません。とはいえ、そこに住む人たちが決めることですから、外野席から余計な事を言ってはいけないんでしょうね。

173、明治16年(1883)12月に徴兵令が改正され、私立学校である同志社英学校の生徒には、猶予の特権が与えられなくなった。生徒たちは色を失い、師範学校に転校するものや帝国大学を志して退校するものもあれば、妻帯者は免ぜられるという風説にすがって、娶る相手を本気で探すものもあった。

太平洋戦争後に新憲法によって、日本は徴兵制が無くなるという世界でも珍しい国になりましたが、近代国家と徴兵制は一つのセットでした。国民皆兵というのがうたい文句でしたが、例外はたくさんあります。自作農の長男(跡継ぎ)は徴兵免除でしたし、官吏や学生も免除でした。その他にも抜け道がいくつかあって、対象者(20歳男子)の半数くらいは逃げていたようです。この改正は抜け道をふさぐものでした。

私学の経営にとっては、学生を集めるうえでピンチでしたね。

兵役が嫌われるのは、死の恐怖もさることながら、古参兵による非人道的扱いを受けることが堪らなかったようです。年功序列、上意下達、問答無用、ビンタに代表される体罰、虐め、嫌がらせ・・・数え挙げたらキリがありません。嫌われて当然です。

軍隊がそうなってしまったのは、人材不足のなせる結果です。教育ある人たち(武士階級出身者)は官吏として軍隊を離れていきます。そして残るのは、行き場のない無教養の体力派ばかり・・・、となれば暴力団、ヤクザ社会になります。しかも、この頃になると指導者である外国の軍事教師たちはいなくなっています。

ともかく、まだまだ近代国家としての体をなしていません。先ずは憲法を作らなければならぬと、伊藤博文を団長とした憲法調査団が渡欧します。イギリス、フランス、プロシャ(ドイツ)…伊藤が最も心惹かれたのはドイツ憲法だったようで、これが大日本帝国憲法のひな型になります。

174、八重はしきりと襄の健康が気にかかった。京都府と宣教師団の間に立って、もみくちゃにされた九年に及ぶ緊張とたびたびの旅行で、襄は心身ともに疲れ果てていた。北垣知事の時代になってから警吏の監視の目はゆるくなったとはいえ、自由民権の風潮の高まる中で、襄は危険人物の一人であることに変わりはなかった。

板垣退助の始めた自由党が自由民権運動の旗を振ります。この運動は全国各地に広がり、薩長政権にとっては目障りな野党として成長していきます。

明治14年に国会開設の詔を発して一旦は鎮めたのですが、国会の権限を決める憲法がないのですから、運動は勢いを増すばかりです。しかも、その指導者の板垣退助は維新の数少ない立役者・英雄の一人です。伊藤博文、井上馨、山県有朋などよりも知名度が高く人気があります。

さらに、福知桜痴などの新聞記者や、大隈重信(早稲田)、福沢諭吉(慶応)、新島襄(同志社)といった知識人は政府には批判的です。時の政府の代表者は伊藤博文ですが、伊藤が首班に選ばれたいきさつが残っています。井上馨の一言です。

「これから国を司るもんは、赤電報(英文)が読めにゃぁ務まらんじゃろ」

この一言で三条、岩倉などの公家勢力が政府中枢から消えていったようです。

175、3月3日、桃の節句の日に、八重は山本家に行き、会津から覚馬を頼ってやってきて同志社英学校に入学したという、望月與三郎、與四郎の兄弟に逢った。覚馬は弟の與四郎が卒業したら、久栄の婿に迎えるつもりだと、八重に声低く囁いた。

襄たち同志社の東北布教活動の成果として、関東、東北からも生徒が集まるようになってきました。望月兄弟もその一人です。

覚馬の娘・久栄はこの時まだ13歳ですから随分気の早い話です。が、4年後と考えれば17歳、当時としては早すぎるという年齢ではありません。会津出身の若者を迎えたいというのも覚馬の故郷願望だったのでしょう。それに、望月家というのは・・・多分・・・山本家同様に信州高遠から会津へ赴任した一族だったと思われます。家系などと言うものがまだまだ尊重されている時代ですから家柄、家格なども考えた結果でしょうね。

この與四郎が後に事件を起こし、山本家に大波乱が巻き起こるのですが、それは後の話。

さて、全くの私事ですが、先日、叔父の法事の折に、我が家の家系図なる物を見る機会がありました。高校生のころから興味があって調べていたのですが、灯台下暗しで意外に近い所に資料がありました。江戸時代まではこういうものの値打ちが高かったことでしょう。系図と添え書きは、写の写しですから学術的信憑性は疑わしいのですが、武田信玄の裏書(承認・本領安堵)がしてありました。目下、古文書の解読に取り組んでおります。

176、艀は汽船から遠ざかり船着き場に戻っていく。八重は、見送りにやって来た者たちに交じって、いつまでも襄が身をすべり込ませていった汽船を見つめていた。
蝕まれた彼の健康を想うほどに、昂ぶってくる周囲の者に馴染めなかった。

襄は静養を兼ねて欧州からアメリカへの旅に出ます。学校の経営、政府や外国人宣教師との意見の食い違いなど、京都にいては休む間もない忙しさでしたから、その身を案じて八重が強く勧めていたものです。

しかし、いざ出発となると八重の心は揺れます。京都駅では別れがたく、神戸の港まで送り、さらに沖合に停泊する汽船まで見送ります。この当時の外国旅行は「別れの水杯」ほどの心情だったのではないでしょうか。連絡手段は郵便と電報しかありませんからねぇ。

しかも、襄の体の調子の悪さは側にいる八重が一番よくわかっています。

襄が洋行している間、学校の経営は卒業生たちに任されます。そして、問題が複雑化、重大化してくると、八重の所に持ち込まれます。細腕繁盛記ではありませんが、襄のいない間の経営者の役が八重の両肩にのしかかってきます。設立時よりは安定してきたとはいえ、まだまだ社会の混乱期です。自由民権運動に煽られた学生や、熱狂的思想に狂った学生が問題を起しますし、外国人教師たちも問題を起します。体を壊すほどに東奔西走していた襄の苦労を八重は一手に引き受けなくてはなりません。

このあたりの活躍が来週の筋書きになるのでしょうか。