水の如く 46 思う壺

文聞亭笑一

秀吉の死とは、つかの間の平和が崩れたことを意味します。秀吉という一代の英雄の元に結束していた子飼いの者たち、つまり第二世代が真っ二つに分かれ、争いを起す引き金を引くことになりました。これが独裁政権の怖さで、独裁者が強ければ強いほど、崩壊は早く来ます。影響が大きくなります。

そのことを一番よく分かっていたのは秀吉でした。秀吉が天下を取ったのは、信長という英雄の死を受けて、自らが真似してきたやり方です。信長軍団が秀吉派と、柴田勝家派に分かれて賤ヶ岳で戦ったように、跡目争いが起きるのは自明の理です。秀吉は三法師という信長の嫡孫を立てて天下を奪いました。同様に、秀頼という幼児を立てて誰が天下を奪うか…、そこまでのストーリは読めたはずです。読めたからこそ「秀頼を頼む、頼む」と繰り返したのですが、その本意は「権力者としての秀頼」ではなかったと思います。

三法師同様に「一国一城の主」程度の立場でよい、と考えていたのではないでしょうか。

秀吉が織田家から政権を奪ったように、その轍を踏もうと考えたのが石田三成でしょう。秀頼を金看板にして、反対派を各個撃破するという基本戦略を立てたと思います。そのためには加藤清正、福島正則などの秀吉軍団を味方に付けることが最優先の課題でしたが、それとは正反対のことをしてしまいました。朝鮮の役で、彼らを虐め過ぎました。仲間の不利になる讒言(ざんげん)ばかりしましたから、謝って許してもらえる限界を遥かに超えていました。不倶戴天(ふぐたいてん)の敵(てき)・(・)・・これが、三成を中心とする奉行派と、清正を中心とする軍事派との関係として抜き差しならぬ状況に陥っていました。

この、豊臣家の内部対立を利用したのが家康です。三成が焦れば焦るほど、家康の思う壺にはまっていきます。

181、石田三成が、徳川、伊達の縁組を知ったのは1月20日のことである。
激怒した三成は、家康を除く四人の大老、五奉行の連署で、伏見向島の徳川屋敷に私的な婚姻を糾弾する詰問状を送った。
大阪城の石田三成と、伏見向島の家康との間に一触即発の殺気立った空気が流れた。

先ず、家康が始めた天下取りへの布石は、多数派工作です。

秀吉は大名同士の軍事同盟と同じ意味合いを持つ、大名同士の婚姻関係を固く禁じていました。すべて秀吉の認可を必要としていました。それを承知の上で、家康が動きます。家康が選んだ相手は東北の雄・伊達政宗、秀吉軍団の中核・福島正則、そして秀吉のもっとも古くからの協力者・蜂須賀小六の長男である蜂須賀家政でした。どの顔をとっても、影響力の大きな実力者ぞろいです。

伊達政宗は仙台で50万石の大大名です。仙台と家康の本拠である関東の間にいるのが石田寄りの上杉120万石と佐竹50万石ですから、挟み撃ちにという布石です。

福島正則は清州城主で30万石。これは、三成と対峙する軍事派の中核で、しかも中部地方の要である名古屋に陣取ります。

そして蜂須賀家は四国の阿波の徳島30万石。海を渡れば京大阪をすぐにも攻撃できる位置にいます。

日本地図という碁盤を広げて、味方の白石と敵の黒石を並べていく…まさに囲碁の世界ですね。いや、オセロゲームといった方が良いかもしれません。石田方の大名を挟んで、圧迫して、白にひっくり返してしまうゲームです。

家康は三成に法規違反を指摘されても、柳に風と受け流し、「以後、気を付ける」ということで伊達、福島、蜂須賀との婚姻は既成事実化してしまいます。ここら辺りが…信長、秀吉という独裁者の下で耐えてきた家康の真骨頂でしょうね。

とはいえ、両陣営の対立は表面化し、大名たちの三成派と家康派の色分けがはっきりしてきました。この時点で態度を明確にしていたものは

三成派・・・毛利、上杉、宇喜多、佐竹、立花、小西、長曾我部

家康派・・・福島、加藤清正、加藤嘉明、池田、細川、黒田、藤堂、伊達、最上、堀

この優劣は人数ではありません。石高=軍事力の合計が問題です。ほぼ互角でしょう。

この構図が、結局は関が原へと繋がっていきますね。

182、家康としても、この時点で正面切って三成と争う意思はなかった。何と言っても石田三成の背後には前田利家をはじめとする四大老がついている。目下のところ帰趨をはっきりさせていない武将たちも、秀吉の遺児・秀頼が大阪城にある限り、その多くが三成方にまわる可能性が高かった。

今の国会でも、党派の中の主導権争いも同様ですが、多数派工作に勝利したものが政権を執ります。大名という限られた選挙人で、しかも石高が、つまり動員力の多さの累計で勝負をします。これはアメリカの大統領選挙に似ていますね。選挙人の多い州を制したら有利になる理屈です。ただし、僅差で勝っても安定政権は手にできません。

ちょっかいは掛けましたが、家康はこの時点で「総選挙・大統領選挙」には打って出ません。大義名分に乏しいのと、前田利家が石田寄りにいるからでした。加賀百万石の帰趨は大きいですからねぇ。それに、利家という人格の影響力も大きいからです。

183、朝鮮の役で三成に煮え湯を飲まされた七将たちは、前田邸に詰めていた石田三成が自邸に引き上げる途中を待ち伏せし、襲撃する計画を立てた。
だが、三成も用心深い。忍びからこの情報を察知すると、佐竹義宣の用意した女乗り物で宇喜多邸に逃れ、更に家康の伏見屋敷に逃げ込んだ。

秀吉の虎の威を借りて、やりたい放題だった石田三成ですが、「虎」が死んでしまってからは前田利家という「熊」に頼ります。この喩えでいえば家康は「象」のようなもので、狐が噛みつける相手ではありません。「熊の威」を借ります。

ところが、朝鮮で散々三成一派にいじめられた清正、正則などの軍人たちは利家の死ぬのを待ち構えていたかのように行動に出ます。三成暗殺計画を実行に移します。いわゆる軍事クーデターですね。この計画に参加した7人、いずれも二世たちか第二世代です。

大将が加藤清正、そして副将が福島正則、それに続くのが黒田長政、加藤嘉明、浅野幸長、細川忠興、池田輝政と、秀吉の創生期に長浜城で秀吉の妻・寧々の薫陶を受けた面々です。いわば寧々派ですね。茶々派の三成以下とは仇敵関係にあります。

晩年の秀吉の失政の最大の問題は、彼らの意見や立場を無視して、側に控えている三成たち官僚を優遇し過ぎたことでしょう。依怙贔屓をすると…こういう結果を生みます。

会社の人事政策でも良くある話です。経営者は、どうしても近くにいる者の意見を重視するようになります。会社の利益に貢献しているのは、全国に散った支店長などの営業の責任者、工場長など地方で頑張る製造の責任者など「現場」なのですが、近くにいる者に情が移ります。これが危ない。ましてや現在は、外国にいる駐在員こそ、会社の利益の源なのです。秀吉の間違いを反面教師にしてほしいものです。

184、秀吉の屍に鞭打つことは本意ではないが、奉行たちが秀吉を巧みに操りつつ暗躍することにより、国内や朝鮮でどれほど多くの無辜(むこ)の血が流されたか知れない。
また官兵衛自身も彼らの讒言(ざんげん)にあって、危うく秀吉に切腹を命じられるところだった。「三成一派をのさばらせておいては天下国家のためにならぬ」
…というのが官兵衛の秘めたる決意であった。

今回は官兵衛に触れることが少なくなりました。

官兵衛はこの時期、中津に戻って政争の中心から距離を置いています。

…が、情報システムは万全です。大阪に栗山善助、母里太兵衛を残し情報を集めさせ、瀬戸内の大阪、鞆の浦、周防・上の津に早舟を用意して高速通信網を敷きます。どちらかと言えば体育会系の長政に対して、リモコンのできる配備をしています。

官兵衛が政争の巷(ちまた)から身を引いたのは……、自身の動きが注目されることを避けたから、ということと、三成と家康の争いから身を引き、第三極の構想を実現するためだったでしょう。ただ、ここでいう官兵衛の第三極は現代政治の第三極とは次元を異にします。

バカなジャーナリストは「保守か革新か」というX軸だけで論じますが、Y軸、Z軸もあります。次元の違う話です。権力の争奪戦というX軸とは別次元の価値観、それが何であったかが今回のドラマの興味です。これは現代へのヒントにもなります。

原発反対…ならば、代わるべきエネルギー源は?

人権尊重…ならば、我利・我利の我侭を抑制する手立ては?

課題は時代によって代わっても、政治的課題の解決方法はあまり進歩がありません。