乱に咲く花 44 西郷死す

文聞亭笑一

現代の維新の党もくっついたり離れたりと混乱していますが、明治新政府を作った薩長を中心とする勢力も集合離散を繰り返し、ついに西南戦争へと突入していきます。武士、大名家による連邦国家が中央集権国家に代わろうとするのですから、作用・反作用の法則通り、振幅の大きな変化が続くのは仕方ないかもしれません。

振り返れば徳川幕府設立の時もそうでした。中央集権を目指す秀吉、石田三成のコンビが専横をほしいままにし、それに不満な者たちが家康の元に集結して豊臣体制を崩し、幕府という集団指導体制の機構を作り上げてきたのです。

明治維新も形の上では天皇を絶対権力者とする中央集権体制に見えますが、天皇個人は全く政治に参与していません。参議という一団が権力を握り、旧勢力の既得権を次々に奪っていくという経過をたどります。その中心にいたのは大久保利通でした。政敵を次々と追い出し、自分の言うことを聞く者たちだけで中央政府を牛耳っていきます。この大久保独裁の体制に便乗して発言力を増していったのが山県有朋(狂介)、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)…と言う面々です。桂、いや木戸孝允は大久保の急進的なやり方にブレーキをかけますが、進むべき方向では一致していますからブレーキの効き方は甘くなります。慎重論を吐きながら、結果容認というパターンが多かったようですね。

佐賀の乱、肥後の神風連の乱、筑後・秋月の乱、長州・萩の乱と次々に不平分子を鎮圧していきましたが、大久保にとっては<待ってました!>というほど好都合な反乱でした。山県有朋が率いる国軍の実地演習のようなもので、軍の整備と訓練に小規模な反乱ほど好都合なものはありません。政敵も処刑できます。反対派には脅しになります。

鹿児島の空気の険悪さに警戒感を抱いた新政府側は、鹿児島にあった陸海軍の武器・弾薬庫を大阪に移すことにした。この措置を知って鹿児島の反体制組(私学校)は「新政府は我々を弾圧するつもりだ」と受け止めた。
明治10年1月30日、鹿児島武士団は先手必勝とばかりに政府の武器弾薬庫を襲い、それを略奪した。同じころ、政府は西郷暗殺の使命を帯びた薩摩出身の警察官僚を鹿児島に派遣している。彼らが反乱軍につかまり、暗殺計画を自白してしまっては暴発を止められない。

維新を推進した薩長土肥のうち、肥前と長州は反乱分子が討伐されてしまいました。土佐藩は武力蜂起の道ではなく、自由民権運動という大衆路線に転換しています。反乱のマグマが残るのは鹿児島だけです。大久保にとっては自身の出身藩ですが、もはや未練もなく始末にかかります。

2月初旬 鹿児島での蜂起を知って西郷が最初に発した言葉は「しまった!」です。その逆に大久保は「しめた!」と発言したようです。西郷暗殺団というのは大久保の仕掛けた罠でした。彼らは政府側の暗号まで、すらすらと自白していますね。やらせの匂いがします。

西郷→坊主  桐野利秋→鰹節  別府晋介→花手拭い  島津久光→黒砂糖 …など。

2月17日 反乱軍のトップに祀り上げられた西郷は鹿児島を出陣します。従う兵力は1万3千、西郷の名声でその後、進軍の度に膨らみ、約3万になります。萩や佐賀とは規模が違います。

西南戦争は、明治政府が運命をかけた戦いであった。もし新政府軍が敗れれば、これまでのことは全否定され、全てがもう一度ひっくり返ってしまう。政府としても命がけの戦である。
一方、歴史に「IF」はないが、西郷軍はなぜ熊本城を攻めたのか、なぜ東京を一気に攻めなかったのか、その点が分からない。

西郷軍は熊本城にある政府軍の熊本鎮台を目指します。ここを守るのは土佐の谷干城を主将とする鎮台兵3万7千です。数の上では鎮台兵が勝りますが、徴兵されてにわか仕立ての農民兵と、戊辰戦争で修羅場をくぐってきたプロ集団の鹿児島勢では勝負にならぬ・・・と、鹿児島側に油断がありました。篠原国幹、桐野利秋(人斬り半次郎)などは、熊本城など一晩ないし数日で落とせると・・・なめて掛かった節があります。

一方の政府軍は最新鋭の武器で武装していました。連射銃(いわゆる機関銃)や迫撃砲のような大砲はもとより、小銃はすべて元込めのスナイドル銃です。それに対して薩摩軍は、先詰銃や火縄銃まで持ち込んでいますから火力の差は歴然としています。しかも、政府軍が籠るのは加藤清正が心血を注いで作った熊本城です。大要塞といっても過言ではありません。

余談になりますが、清正は豊臣秀頼を城に迎えて、徳川相手に大戦争をやることを想定して、城造りをしていました。復元された本丸御殿の千畳敷広間には秀頼、淀君の座というのが隠し部屋のように用意されています。考えようによれば、秀吉の大阪城よりも難攻不落な要塞でした。

そういう要塞に、守備隊よりも劣る兵器で攻め込もうというのですから無理があります。

政府軍の方も必死の戦ですから、小倉鎮台、広島鎮台に限らず、全国からの兵が送り込まれ、熊本に籠城している兵と合わせて5万8千に達します。両軍合わせて約9万人が対決したのが、田原坂(たばるざか)の戦でした。

馬手(めて)に血刀 弓手(ゆんで)に手綱 馬上豊かな美少年 シャカホイ シャカホイ

などと歌われますが、そういう戦いではなかったようです。田原坂の戦で、政府軍が使用した弾丸は一日平均32万発だと記録にあります。政府軍の制式銃はスナイドル銃ですから1分間に6発撃てます。一方の薩摩軍は、エンフィールド銃という先込め式の旧式銃で、熟練の射手でも1分間2,3発しか撃てません。薩摩以外から応援に来た兵は火縄銃でした。

さらに決定的な差は、スナイドル銃が伏せたままで射撃できるのに、エンフィールド銃は弾込めの時に立ちあがらなくてはなりません。この時に射撃の的にされてしまいます。

田原坂の敗戦の後も、西郷軍は勇敢に戦いますがやはり火力の差、兵器の差は何とも埋めることができません。政府軍はさらにスナイドル銃1万五千、弾薬3千万発、トミライユーズ機関銃、射程距離が長いマルチニーヘンリー銃などを緊急輸入して戦線に投入してきます。

どうもいけませんねぇ。太平洋戦争末期の日米決戦を見るようです。明治政府側の物量作戦に槍と刀で肉弾突撃する薩摩兵…。バンザイ突撃そのものです。明治期にこういう経験をしておきながら、少しも生かされていないところが悔しくも、かつ情けない所です。

太平洋戦争まで行かなくても、日露戦争での203高地の攻撃でも同じ轍を踏んでいますね。

美和さんの遠縁にあたる乃木希典、児玉源太郎は今回のドラマに出てくるのでしょうか。

肉弾突撃などという戦国時代のような作戦が繰り返されるのは精神論の行き過ぎです。

ラグビーでもサッカーでも、外国人指導者が来ないと変われない…それが日本ですかねぇ。

この戦争の間に木戸孝允が死んだ。最後の言葉は「西郷、もう大抵にせんか」だったと言う。そして西郷は9月24日、流れ弾に当たり城山の露と消えた。西郷の最後の言葉は「晋ドン、晋ドン、もうこのあたりでよか」だったと言う。晋ドンとは介錯をした別府晋介のことである。
そして明治11年5月、大久保利通が元加賀・前田藩士族の襲撃を受けて暗殺される。
古い小説だが「そして誰もいなくなった」 跡を継いだのが山県有朋と伊藤博文であった。

維新の物語というのは、畳の上で死んだ人の少ない物語ですねぇ。暗殺、戦死、処刑、切腹・・・殆どの物語の主人公は非業の死を遂げます。その半面、雲上人から平民に落とされた殿様たちは天寿を全うした人が多いですね。いや、平民ではありませんでした。公、侯、伯、子、男などの爵位をもらって、生き残った政治家と並んで貴族でした。この後、井上馨が始めた鹿鳴館のダンスパーティーの主役として優雅な生活を楽しみます。藩の経営に四苦八苦していた殿さま時代よりもよほど優雅な生活だったようにも思います。庶民の生活の苦しさからすれば、やはり雲の上の人だったでしょうね。

この後、伊藤博文は「富国」に向けて内政・外交を取り仕切っていきます。

一方の山県有朋は「強兵」に向けて邁進します。日清、日露の戦争で勝利を得たことで日本の国民が夜郎自大になり、太平洋戦争でどん底に突き落とされる原因を作ってしまいましたが、軍の独走を許す仕組みをこしらえたのも山県でした。「統率権」という法律を作り、軍を政府から独立させてしまいました。軍隊はシビリアンコントロール「文民統制」にするというのが常識ですが、山県の作った日本軍は政府、国会から独立した組織にしてしまうというものです。

これは西南戦争の後遺症というか、反省です。イギリスなど欧米から習った軍政では政府軍は作戦の変更の都度天皇陛下の許しを得なければならず、薩摩軍の鎮圧に時間が掛かってしまったというところから発案されました。戦争をするかしないかを含めて、政府とは独立した参謀本部が作戦行動を決定すると言うもので、この仕組みが満州事変を引き起こしてしまいました。戦争になったら政府よりも軍の方が権力を持つ・・・と云う仕組みですから、軍部独裁です。明治維新の汚点の最大のものでしょうね。今度の安保法制の話で「戦争法案だ」「徴兵制になる」などというのは山県式統率権が復活するという恐れからでしょう。羹(あつもの)に懲りて鱠(なます)を吹く話です。

山県有朋・・・この人が好きでないのは汚職まみれの人だからです。ともかく金に汚いというか、汚職で何度も辞任させられていますが、世渡り上手というか西郷さんに取り入り、大久保利通に取り入り、揉み手擦り手で権力を手に入れました。

元々が松下村塾に籍だけおいて参加せず、高杉晋作が作った奇兵隊を晋作の不在中に乗っ取り、久坂玄瑞の禁門の変には煽り立てるだけで参加せず、そのくせ松陰、晋作、玄瑞の弟子の顔をして権力を握っていく…小判鮫みたいな男に見えます。

明治の日本はこの山県有朋と伊藤博文が作り上げていきます。一応は門下生の二人を見ながら吉田松陰はどう思ったでしょうか。「諸君、狂いたまえ」といいましたが、狂って・・・落ち着いた姿は松陰の想い描いた姿だったでしょうか。日本史の教科書では江戸時代の次は明治時代ですが、江戸と明治の間に「維新時代」を入れた方が分かりやすいと思います。維新時代と、明治時代は明らかに違います。維新時代とは、嘉永6年(1853)の黒船来航から明治10年(1877)西南戦争が終わる24年間です。動乱の時代、混迷の時代です。