次郎坊伝 46 内訌、葛藤

文聞亭笑一

信長からの「信康を始末せよ」という命令は、家康の人生にとって最大の難関でしたね。

勿論、本能寺の後の伊賀越え、秀吉との冷戦、関が原合戦などこの先にも幾つかの難問が続きますが、家康本人へのストレスのかかり方という点では、それらとは質が違うと思います。

我々も現役時代にはストレスのかかるケースは幾つも乗り越えてきましたが、家族が絡む、家族を犠牲にする決断ほど辛い物はありませんでした。仕事上のこと、自分だけのことならまだしも、家族に無理を強いる、犠牲を強いるのはなんとも辛いものでした。我々の世代では「転職」「転勤」というのがそれで、家族の人間関係を断ち切る辛さでしたが、家康の辛さはその比ではありません。期待している息子の命を奪い、駿府以来の妻の命を奪うというのですから異常です。現代人にはとても思いが及びません。

お大の登場

今回の脚本で「家康の悩みに指針を与えたのは母のお大である」という仮説は斬新ですね。

そうかもしれません。家康には、親兄弟などの身内がいません。松平一門衆などの遠縁の者はいますが、家康が駿府で人質生活を送っている間に親族としての絆は切れてしまっています。唯一の親族が生母のお大です。

お大は尾張・三河国境の刈谷城主・水野忠清の娘ですが、家康の父・広忠に嫁ぎ、家康を産みました。が、兄の水野信元が織田家に寝返り、離縁されて実家に戻ります。その後、織田方の知多半島・阿久比の城主久松家に妻嫁し、4人の子をなしています。父親の違うこれらの兄弟だけが家康の身内なのです。この久松家の弟は、家康の傘下に入ってからは松平を名乗ります。久松松平と呼ばれる家系で、四国・松山15万石として明治まで親藩の扱いを受けています。

その母が背中を押した・・・と云う設定は、ありうる話でしょうね。家康にはこの当時、師と仰ぐ人物が存在しません。駿河時代の雪斎禅師、敵ながら憧れていた武田信玄も世を去っています。そして鬼のような命令を下してきたのが信頼していた信長なのです。針の筵、いや、血の池地獄といった状況だったでしょう。

「信康を斬る」「築山(瀬名)を斬る」これは…自分も死んで、生まれ変わると覚悟してしか…できない判断ですよね。人権を大切にする現代人には想像もつかないことです。

ただ、世の中には戦国基準で生きている人がたくさんいて、北朝鮮、IS,タリバンなどと云う人たちは人権とは別世界にいます。いや、そればかりではなく、発展途上国には「人権どころではない」国が沢山あって、我々日本人の価値観が異常に見えているのかもしれません。

とりわけ「攻めなければ攻められない」などと信じている人たちは、夢想主義者と見られているのでしょう。

誰が信康、瀬名を斬ったのか

この辺りも資料の少ない分野です。斬った者も、斬らせた者も記録に残したくない犯罪行為ですからねぇ。「家康の意を受けた服部半蔵である」というのが通説ですが、服部半蔵は忍者の元締めです。汚れ役はすべて半蔵。忍者は信用できぬ奴、という後世の作文の匂いもします。

私は岡崎衆の内、総責任者の石川数正か、守役の平岩親吉しかいないと思っていますが…果たして今回のテレビでは誰を下手人にしますかねぇ。

家康が処分を決定してしまった以上、信康を支えてきた岡崎衆は武田への内通に協力した者と観られるのは仕方がありません。その疑惑を晴らし、徳川家中で地位を保全するためには自らが手を汚すしかありません。とりわけ石川数正は岡崎の総責任者でした。彼以外にないと思っています。石川数正は後に徳川を捨てて秀吉の元に寝返ります。その寝返りの動機も不明とされてきましたが、根は信康処刑事件であったと思っています。数正は駿府時代に家康の兄貴分として共に過ごし、雪斎からの教育も一緒に受けていましたから、家康の心の内は最もわかっていた一人です。「やむに已まれぬ家康の苦悩」も十二分に理解していたはずです。

保身…と云うよりは、自己犠牲に近い形で、嫌な役を引き受けたのではないでしょうか。

この辺りは諸説が入り乱れます。「家康は信康が今川氏真の胤ではないかと疑っていた」などという説もあるくらいです。真実は闇の中ですねぇ。

徳姫のその後

自らの手紙で、夫を殺すことになった徳姫はその後どうしたのでしょうか。

岡崎から信長の元に引き取られますが、その後の再婚の話はありません。合理主義者の信長としても、そこまで徳川をコケにするのは憚(はばか)ったものと思われます。近江八幡に住まわせ、化粧料を与えて保護しています。さらに、家康の天下になっても家康はあまり手厚く保護していません。

・・・ということは、家康にとっては「可愛い嫁」と思っていなかったようですね。徳姫と信康の間に生まれた二人の娘も家臣の小笠原、本多などに嫁がせていますから政治利用もしていません。

本能寺で信長が倒れてからは織田信雄の保護を受け、小田原戦の後に信雄が改易になると、娘の嫁ぎ先である小笠原の世話になります。

徳姫が愚痴を書き綴った手紙を書いたのは江戸期の作文である、との説もあり、良く分かりませんが、家康からは睨まれていたことは確かでしょう。

高天神城落城

武田の遠州の橋頭保である高天神城攻略が最終局面を迎えます。

家康は「力攻めは無理」と割り切って兵糧攻めに切り替えていました。家康の本陣は横須賀城に置いていましたが、高天神を取り囲むように次々と砦を構築し、兵を常駐させます。城方に物資を運ぶ部隊を確実に補足するために9カ所もの砦を作りました。これで高天神城は全く孤立しました。物資の供給はありません。

高天神城は今川系の岡部真幸を主将に旧今川勢が守っています。が、軍監として派遣されていたのは甲斐の横田尹松でした。横田は岡部他の今川旧臣の寝返りを疑い、そのくせ自分が徳川への寝返りのタイミングを狙うという卑劣奸で、これがまた内部の混乱を誘います。城は内から崩れる…と言いますが、長引く籠城戦で高天神城は内側から崩れていきました。

岡部は必死に勝頼の救援を望む使者を立てますが、その一方で、横田からは救援の必要なし…との密使も勝頼の元に届きます。躑躅が崎でも「救援すべき」という真田昌幸と「見捨てるべし」という勝頼側近の跡部、長坂の論争がありましたが、勝頼は側近の意見を取ります。

これで武田勝頼は、駿河、遠江の国人衆の信用を失い、自滅への道を辿ることになります。

高天神城は勝頼の支援がないとわかって、玉砕攻撃に出ます。この奇襲攻撃を家康に告げたのが横田だと言いますから、もはや自滅としか言いようがありません。

修身、斎家、治国、平天下・・・まずは足元ですねぇ。安倍総理も気を付けた方が良さそうです。