どうなる家康 第36回 上州・沼田

作 文聞亭笑一

「他人の物を他人に譲る事は出来ない」 前回、真田昌幸が家康の壺を使って説明していましたが・・・将に道理で、徳川方は反論できませんでした。

それにしても・・・なぜ真田は沼田にこだわるのか? 

「真田丸」の時からの謎でした。

沼田城

沼田は関東平野の「奥玄関」と言った位置でしょうか。

北へ峠を越えれば越後です。

逆に言えば、越後から関東平野に出る玄関口に当たります。

更に、西に向かって山中の峠を越えれば浅間山の裾を巡って菅平から信州上田に繋がります。

ここを拠点とすればどちらへでも進出できる・・・孫子の兵法で言うところの「ク地」に当たります。

誰しも欲しがる場所です。

このルートにはもう一つの拠点である岩櫃城もあって、いわば真田街道といった雰囲気です。

ただ、信州上田から上州沼田までは直線距離でも75kmあります。

険しい山岳地帯の峠越えですから、現在の国道でもその倍以上の距離があるでしょうね。

NHK大河「真田丸」の時に、仲間とこのルートを走ってみましたが、一日がかりでしたね。

岩櫃城のある山を眺めて「とても登れない」と諦め、沼田では日がとっぷり暮れてきて、お城へ行くのをパスしてしまいました。

真田物語では「沼田は父祖伝来の土地・・・」などと語られますが、真田家のルーツは沼田ではありません。

上田の奥にある「真田の里」が発祥ですし、本家筋の海野一族も千曲川沿いに勢力を張っていました。

沼田を手に入れたのは昌幸の父の時代です。

それほどの歴史はありません。

沼田は弱小勢力の真田が大勢力と外交を展開する上で手放せない土地・・・でした。

真田は「表裏卑怯」などと呼ばれますが、上杉、北条、武田の3大勢力に囲まれて、それぞれとの外交の中で生き延びてきました。

その外交カードが「沼田=関東の裏玄関」でした。

謙信が健在の頃は上杉が確保し、決して手放しませんでした。

謙信亡き後のドサクサに乗じて真田が手に入れた土地です。

その意味では、関東の土地に不案内な家康が、それほどの戦略拠点とも知らず、不用意に北条に譲ってしまった土地でもあります。

一方の真田昌幸ですが・・・秀吉の仲介には逆らえず沼田を手放しますが、岩櫃城や沼田の支城である名胡桃城は手放しません。

沼田を睨む位置には拠点を残します。

つまり・・・外交カードは手放していません。

これを使って・・・また一暴れです。

稲さん(小松姫)

ドラマでは、本多平八郎の娘・稲が登場しました。

この時代の女性については記録らしいものがあまり残っていませんから、後世の創作が殆どだと思われます。

小松姫の物語では、関ヶ原の開戦前夜に沼田城を陥れようとした義父の昌幸を、武者姿で追い返す話が有名ですね。

「さすが本多平八郎の娘」と真田昌幸が舌を巻いたと言うことになっていますが・・・果たしてどうでしょうか。

沼田城内には真田信之と小松姫の2ショットの石像が建っています。

信行との二人三脚の成果で、関ヶ原や大坂の陣での身内の反逆にもかかわらず、上田6万石から、さらには松代10万石を勝ち取っていますね。

稲さんもそうでしょうが、この辺りは世渡り上手の真田家の伝統かもしれません。

男勝りで、お転婆で・・・というのは、後の活躍からの連想でしょうね。

今回のドラマでは真田側が「家康の娘を嫁に」と要求したことにしていますが、家康の提案、秀吉の提案など・・・幾つかの説があります。

また、結婚時期も4年ほど差があります。

記録のない部分はドラマ作者が自由に発想を広げられる部分です。

その意味で戦国物語は女性を主役にした方が面白くなります。

「女太閤記」や「利家と松」「一豊の妻」などがその典型ですね。

秀吉と北条

今週の物語は天正16年(1588)頃をやっていると思いますが・・・(信之と稲の結婚時期から類推)この頃から、秀吉政権と北条の関係がぎくしゃくしてきます。

まずは秀吉から聚楽第行幸への参列を求められますが、北条氏政が険もほろろに拒否します。

これで・・・双方に不穏な雰囲気が流れ、臨戦態勢へと動き始めますが、家康が仲裁します。

家康の提案は「当主(氏政、氏直)が無理なら代理を上洛させる」というものですが、それに家康の起請文が付いていました。

1,家康は北条家の領国には手を出さない。悪口も言わない

2,近々、人質に兄弟を出す

3,上洛を拒否するのなら督姫(家康の娘・氏直の妻)を離婚させる

3番目は起請文(約束)と言うよりは脅し半分でしょうね(笑)

北条は渋々ながらに、弟の北条氏規を上洛させ、危機を回避します。

翌年になると重臣を秀吉の元に派遣し、沼田問題の解決を要請します。

稲を家康の養女にして嫁に出しても、真田は沼田を手放しては居ませんでした。

秀吉は中途半端な裁定をします。

戦を誘うような仕掛け・・・でもありました。

「沼田領3万石のうち2万石を北条に、1万石を真田に」

当然のことながら秀吉が沼田領の地理を知っているわけではありません。

仲介する家康も地理どころか、沼田の戦略上の位置づけすらわかっていません。

どこに線を引くか・・・真田と北条の現地責任者同士の事務作業というか、交渉ごとになります。

たがいに・・・重要拠点が自分の方に来るようにと線引きしたがりますから・・・話はまとまりません。

ズルズルと交渉を長引かせ、税収は裁定通りに分けますが・・・沼田の民衆は真田が実効支配するという「なし崩し」を狙います。

これでは北条方は苛々しますね。

殿様同士は秀吉裁定に納得しても、現場は一触即発の雰囲気が漂います。

それがまた・・・真田昌幸と秀吉の狙いでもありました。

ところで、秀吉はいつ? 北条討伐を決意したのか。

九州征伐を終えて、島津を降伏させてからでしょうね。

目を東に転じると、度重なる上洛要請に言を左右にして応じない北条がいて、その後には「惣無事令」に従わず、勝手なことをしている成長株の伊達政宗が居ます。

「まとめて片付ける」と、開戦のきっかけを真田に仕掛けさせます。

名胡桃城事件です。