紫が光る 第41回 一条から三条へ

作 文聞亭笑一

一条天皇が亡くなりました。

7歳で即位してから25年間、当時としては長期政権ではありますが、天皇として自らの意見を通した部分は少なく、道長を中心とする公家達の合議制によって政策を運営してきました。

ただ、公家達が私利私欲に走る傾向には歯止めをかけ、庶民の暮らしへの配慮があったことや、文学を中心とする文化の発展に貢献したことで歴代の明帝の一人に数えられます。

事実、紫式部、清少納言を筆頭に、道綱の母、赤染衛門、和泉式部などなど、女流作家が最も活躍したのが一条天皇の時代でした。

敦康を皇太子に

一条の最後の願い、為政者としての施策は「第一皇子/敦康」を皇太子とすることでした。

天皇は側近の行成を味方にして、思いを遂げようと最後の手段に出ます。

自らが最も信頼を置く秘書官の行成に「敦康の正当性」を論理付けさせようとしたのです。

ところが、行成は冷徹にも「敦成立太子の正当性」を4項目にわたり告げます。

① 皇統を継ぐのは正嫡(長子)や天皇の愛情の問題ではない。

 その外戚が朝廷の重臣でなくてはならない。現在、重臣筆頭は道長である。

② 皇位は神の決めるもので、天皇個人の好き嫌いを入れてはならない

③ 敦康には斎の宮の血が流れている(定子の母は高階氏・・・斎宮の後胤) 神の畏れがある

④ 敦康を哀れむのであれば、特別な手当や家来達を用意し、身の立つようにすれば良い。

行成は、こういう諮問があるのを察して、答えを用意していましたね。

「行成、おまえもか!」というのが一条の想いでした。

一条天皇、敦康にとって気の毒だったのは外戚である中関白家(道隆、その子の伊周、隆家、定子)が公卿達の殆どから嫌われていたことでした。

強引な政権運営や我田引水の人事など、栄華の独占が恨みを買いました。

その意味では、道長は公卿達の意向に配慮して政権を安定させていました。

一条帝の25年間は左大臣道長の25年間でもあります。

一条の辞世

テレビではサラリと辞世の句が流れただけですが、彰子中宮の歌もふくめてお復習いをしておきます。

露の身の 風の宿りに君をおきて 塵を出でぬる事ぞ悲しき (一条帝)

(露のように儚いこの身が、この世に君を残して去って行くのはなんとも哀しい)

ここで君というのが彰子か、定子かと、古来やかましく議論されますが定子はこの世の人ではありませんから議論の余地のないところです。

が、行成の日記には定子への想いだ・・・とあって、それが議論を呼んでいます。

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ撫子の花 (彰子中宮)

(帝に先立たれた私の哀しい気持ちもわからず、無心に遊ぶ若宮に涙がこぼれます)

ありし世は 夢に見なして涙さえ とまらぬ宿ぞ悲しかりける (藤式部)

(ご在世の世は夢であったと思うに付け、涙が止まりません。宿替りでますます寂しい)

三条と道長の駆け引き

三条天皇は皇太子と言いながら、一条天皇よりも7歳年上ですから即位した時点で40歳近くになっています。

当時としては老成の域に近く、政治家としての知識や、手練手管は身につけています。

とは言いながら、実際にそれらを行うのは初体験です。

まずは道長に関白への就任を勧めます。

関白は公家の最高位で、権力は天皇に次ぎます。

とはいえ、公卿会議(陣の定め)には参加できません。

ですから地位は上がりますが、公卿達との距離が遠くなります。

朝廷への影響力は、落ちてしまう可能性もあります。

それもあって、道長は一条帝の25年間、左大臣のままで関白昇進を断り続けてきました。

しかし、三条としては自らの影響力を高めようとすれば、道長の力を削ぎたいところです。

位打ちがダメなら、次は自らのシンパを組織しようと公家集団の切り崩しにかかります。

三条がまず目を付けたのが一匹狼というか、独立自尊の一言居士・実資でした。

当時はタブーとされていた密勅を使って、実資に政治日程の献策をさせます。

こんな動きは道長一派にはバレバレですし、実資も隠しませんからミエミエの動きなのですが、三条は密勅、裏面工作のつもりですから滑稽ではあります。

三条が実資に諮問して決めた公的行事日程に、道長が私的行事を重ねる

こういうことがしきりに発生します。

招待を受けた公卿達はどちらに出るかで悩み、どちらかに睨まれる事になりますが、天皇の行事に参加するのは実資ほか2,3名で、大多数は道長の行事に参加します。

後世にキリシタンに実行した一種の「踏み絵」ですね。

殆どの行事では天皇行事は閑古鳥、左大臣の行事が大盛況となりますから、実資ですら天皇行事が終ると道長行事に駆けつけ、宴会に加わるという掛け持ちをやっていました。

こういうことが二・三度続き、「勝負あった」なのですが、そこが苦労人・三条のしぶといところで次々と自分流の施策を打ち出します。

一帝二后

三条は長年連れ添ってきたセイ子(女偏に成)を皇后にし、道長の娘・妍子を中宮にしたいと言ってきます。

これは一条帝を強引に説き伏せた道長を逆手に取った提案でした。

道長は、かつて自分がやった前例ですから呑まざるを得ませんでしたが、正義感の塊である実資などは三条から一歩引く・・・という結果にも成りました。

こういった天皇と道長の綱引きに微妙に絡んだのが実資であり、実資は自分が道長に睨まれないようにと、せっせと彰子の後宮に顔出しします。

そこで取り次ぎ役というか、会談に同席していたのが紫式部でした。

実資の「小右記」にはしきりに「女房に逢う」という記事がありますが、この女房こそが紫式部(藤式部)だったと言われます。

実資は道長に直接ではなく、彰子や式部を通して三条帝の動きを報告したり、指示を仰いだりしています。

そうなると式部もいっぱしの政治家ですね。

道長と実資を繋ぎます。

実資は小右記の中で、「取り次ぎの女房」を大いに褒めています。

一方の式部も、紫式部日記で実資を「実直かつ正義の人」と褒めあげています。

実資は、その気になれば三条天皇派の主役として道長と対決する道もありましたが、終生にわたり中道を貫きます。

道長も終生、実資に一目置いていました。