八重の桜 44 内憂外患

文聞亭笑一

ようやくにしてNHKのあらすじ本が発刊されて、テレビとの同期ができるようになりました。先行して仕込みができますので、少しはましな記事が書けるかもしれません。

司馬遼太郎の作品の中に「歴史を紀行する」という随筆集があります。あちこちへと旅をしながらその地の気候風土、人情などを語ったものですが、そのなかに会津藩に対する司馬遼太郎的評価がありますので、紹介してみます。

「会津藩というのは、封建時代の日本人が作り上げた藩と言うものの中で最高の傑作のように思える。三百近い藩の中で、肥前佐賀藩と共に藩士の教育水準が最も高く、さらに武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩と並んで、江戸期を通じての二大強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序を磨き上げた その光沢の美しさに至っては、どの藩も会津に及ばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすら思えるほどなのである。秩序が文明であるとすれば、この藩の文明度は幕末において最も高かったといえるであろう」

まさに…手放しの褒めようです。

「文明とは何か?」という重い命題はさておいても、科学技術の発展だけが文明でないことは確かで、技術は文明のための道具であり、インフラでしょうね。ややもすると技術力ばかりが文明のように錯覚することがありますが、道具を何のために、何に、どう使うか…そこが問題です。原子力という技術を、兵器という暴力に使うのは論外ですが、現代文明の基盤である電力、発電技術に使うのは果たしてどうなのだろうかと、国論を二分した議論になっています。読者のご意見も二つに割れそうですので持論は控えますが、「文明とは何か」という以上に重い課題かもしれません。

司馬遼が三百近い藩の中で、肥前佐賀藩と共に藩士の教育水準が最も高くという通り、その素養があればこそ、明治の教育界で会津出身者が光りだします。もう一方の佐賀は、大隈重信が東京専門学校(早稲田学校)を立ち上げましたね。

それはさておき、この頃(明治18年・1885)、朝鮮半島がきな臭くなってきていました。朝鮮王朝は古来より中国の冊封国として、清国の傘の下で旧態依然の鎖国を続けていましたが、日本の維新新政府のような運動が巻き起こり、開国、近代化に向けて内乱が起きていました。甲申事変と言いますが、国王を追い出し革命政府ができ、それを日本が支援しています。この新政府に対し、清国に支援された国王派が巻き返し、革命政権を倒します。その余波でソウル駐在の日本兵、および日本人150人が虐殺されました。

とりわけ婦女子に対しては残酷きわまる殺害ぶりで、これが日本政府を怒らせ、立ちあがらせ、日清戦争、朝鮮併合に繋がっていきます。が、それは後の話。この時は日本と清国の間で天津条約を結び講和しています。この事件はしかし、日本政府に軍備拡張、徴兵制の拡充を促すきっかけとなり、襄と八重の同志社もそのあおりで生徒の減少という経営危機の火種となりました。

177、数日後、アリスたちは数名の女生徒を謹慎処分にした。
「言いつけに背き、勝手に男子校に行ったからです」
謹慎理由を滔々と述べるアリスに、八重は毅然として反論した。

襄が洋行中の留守に、同志社には大問題が発生してしまいます。発端は些細なことで、男子学生と同等の学問を身に着けたい女学生たちの不満が、キリスト教教育重視の外国人教師の方針に合わず、トラブルを起こしてしまいました。

男勝りの八重としては、学生たちの言うことに理があると、反論します。宗教倫理と、科学技術論、議論はすれ違うばかりです。それに、日本文化と欧米文化の差が絡みます。平行線ですね。さらに、資本主義の理解が異なります。

アリスたちアメリカ人教師は、同志社を資本家であるアメリカンボードの物だと考えます。そうなれば校長の襄はただの使用人になりますし、八重は経営者ではありません。

一方の八重は、同志社は創業者、経営者のものであると考えます。経営者は新島襄であり、その妻である自分は経営者の代行だと譲りません。資本主義という概念が未成熟ですし、特に日本では「寄付」「お布施」という慣習がありますから、提供された資金は経営者の物だと考えます。株主から預かったお金とは思っていません。

議論は平行線をたどり、アリスたちはストライキ? 教壇に立ちません。

佐久の機転で何とか事なきを得ますが、この問題は何度も息を吹き返します。

178、襄が自分の体に異変を感じたのはドイツからスイスに入ってすぐだった。そしてスイス・サンゴタール峠にあるホテルにたどり着いたところで、心臓発作が起きた。

心筋梗塞か、弁膜症か? 無理がたたって、ついに火を噴きました。

ドイツからスイスまで山道です。悪路が続きます。現在でこそアウトバーンが走りますが当時の移動手段は馬車か馬の背に揺られるか、さらに峠越えとなれば、馬も登れない道をロバの背に揺られるか、徒歩になります。かなりの重労働、登山のようなものですから、心臓に負担がかかります。同志社の経営から解放されて心理的には健康だったでしょうが、心臓の持病を抱えた者には無理がたたりました。

生死の淵をさまよいながら、日本で待つ八重に遺書を書きます。

179、これを読む人は、わが愛する祖国のために、どうか祈ってください・・・主の大いなる愛が日本を包み、わが同志社にも、救いの手を差し伸べてくれるように…。私の髪を一房切り取り、この遺書と共に日本で待つ妻に届けてほしい。神の名のもとに結ばれた私の愛する妻に…。永遠に離れることのない、二人の絆の証として。

知り合いがいるわけではありません。看病する人から見れば一介の旅行者、行き倒れです。が、英文で書かれたこの遺書にクリスチャンとして感動し、遺書の通り日本に送り届けようとします。が、スイスの田舎のことです。郵便局が近くにあるわけではありません。国際郵便の手続きを熟知しているわけでもありません。発信はかなり遅くなりました。

襄は、奇跡的に一命をとりとめます。集中治療室や手術などの設備があるわけではありませんから、自然治癒を待つだけですが、多分、血管をふさいでいたものが何かの拍子に融けて流れたのでしょう。

襄が遺書を出してしまったことに気が付いて、訂正の手紙を出しますが、日本に着くのはこの訂正文の方が先になりました。受け取った京都の留守宅では少し混乱しましたが、「治った」というほうが先でしたから事なきを得ました。

余談ですが……。スイス、永世中立国として、また美しい山岳国土として日本人の憧れの外国の一つですが、この国ほど国土防衛に勢力をつぎ込んでいる国はありません。国民皆兵の徴兵制はもとより、文聞亭が訪ねて驚いたのは至る所にある核シェルターでした。小さな村の山腹にも、村民全員が避難できる大きさの核シェルターがあります。東西冷戦のただなかで、もし核戦争があっても被害をこうむらないようにしようという準備です。

平和ボケして、防衛オンチの現代日本人とは大違いですね。

180、青木は廊下に出ると、庭の時栄を見た。その視線に気が付いた時栄が恥じらったようにくるりと後ろを向き、おくれ毛を掻き上げた。
八重と佐久が帰ってきたのはその時だった。青木は、はっとして時栄から目を離す。
時栄も何事もなかったように庭仕事に戻った。
山本家に、嵐が吹き始めていた。

福本武久の小説では、山本家に書生に入ったのは「望月」となっていましたが、NHKは青木としています。まぁ、どっちでもいいことですが、会津ゆかりの書生が山本家に入り、同志社で学ぶということでしょう。小説では名前がはっきりしない登場人物には「それらしい名前」を創作して使います。歴史上の記録ではありませんからね。

このシリーズに添付している「助作物語・篤実一路」も同様で、片桐家郎党、井伊家の大砲隊などはそうしています。私の知り合いの名前が随所に現れます。

それはともかく…この書生と覚馬の妻・時栄が不倫関係になってしまいます。引用した文章では、既にその関係が始まっているような表現ですね。

一瞬の動きに、佐久の女の勘が働きます。 …怪しい…

男は、こういうことには勘が働きませんが、女の方が敏感のようですねぇ。噂話、評判というのは大概、井戸端会議で開陳され、あっという間に広がります。

「瓜田に靴を踏み入れず、李下に冠を正さず」ですよ、お立会い。痴漢!などと騒がれます。「そういうお前が一番危ない」ですか・・・そうかもしれませんね。

まぁ、大分枯れてきたのと、電車に乗りませんから、大丈夫でしょう。