乱に咲く花 45 お蚕様

文聞亭笑一

長いことネタ本にしてきた半藤一利の幕末史も、明治10年の西南戦争終結で「そして誰もいなくなった」という言葉で終わってしまいました。この先のストーリ展開が読めません。暗夜行路です。仕方がないので、僅かばかりの予告編を頼りに明治を綴ってみようかと思います。

楫取素彦が乗り込んだ群馬県は江戸期には9つの藩に分かれていました。北から

沼田藩  3,5万石 土岐家

前橋藩  17万石(越前系)松平家・・・維新戦争が始まる前に川越から移転

高崎藩   8万石(大河内)松平家

安中藩   3万石 板倉家

吉井藩   1万石(吉井)松平家

七日市藩  1万石 前田家・・・加賀・前田家の分家

小幡藩   2万石(奥平)松平家

伊勢崎藩  2万石 酒井家

館林藩   6万石 秋元家 

ご覧の通り松平を名乗る者たちが多いのですが、前橋藩は家康の次男・結城秀康の系統です。

藩主が維新の直前に幕府の政治総裁(老中筆頭)となり、川越から前橋に城を建てて移っていますが、これは生糸との関係があったのではないかと思われます。すでに横浜での貿易が始まっていて、生糸生産が財源として重要であることを意識し、政治の拠点を生産の本拠に移しました。それまでの前橋は川越藩の分領で、政治とは無関係でした。 (中嶋繁雄 大名の日本地図)

前橋に移る際に城を新築したのですが、生糸商人たちから予定を上回る献金があったと言いますから、この辺りの商人には相当な財力があったと思えますね。政治と商人たちの癒着もあったでしょう。幕府の時代から横浜の相場を睨んで生産出荷のコントロールをしていたようですね。

ドラマでは江守徹が扮する阿久沢なる商人が県政を牛耳っていますが、一人や二人ではなく、何人かの生糸商人たちが結束して、政府や県令の命令を無視していた節があります。

生糸の歴史

古代から生糸は中国の特産品で、シルクロードを辿って中東から西欧へと運ばれていました。

日本に生糸、つまり養蚕の技術が伝わったのは弥生時代だと言われています。古事記には蚕を吐き出す神様が登場したりしますね。多分紀元前から養蚕と製糸の技術はあったと思われます。ただ、これが事業として発展しなかったのは徳川幕府による専売制というか、生産規制が影響していたようです。結城地方を始め上質な生糸の産地は幕府の天領にし、技術を囲い込む政策が取られたようです。八代将軍・吉宗の頃などはその規制が最も厳しかったようですね。ですから、西陣などの絹織物の産地では、長崎を通じて中国産の生糸を輸入していたと言います。

幕末になると、その規制が緩んだことと、財政難に陥った山間の藩が競って養蚕に力を入れ、藩の財源に充てています。神奈川県、山梨県、長野県、群馬県、栃木県など江戸を包み込むように養蚕の盛んな地域ができていました。

幕末のこの頃、生糸が外国商人に飛ぶように売れたのは、イタリア、フランスなどヨーロッパの生産地に蚕の伝染病が発生し、世界的に品薄になっていたからです。それに、養蚕の本家である中国も政情が不安定なのと、品質の悪さが嫌われて日本産に人気が集中していました。

生糸の品質とは何かといえば、糸の放つ光沢と撚り線の均質性ですね。光沢は蚕の品種に依ります。撚りの太さは作業者の技術です。そう言う点で日本人女性の繊細な感覚が十二分に発揮されました。特に群馬県産は官営・富岡製糸場からの技術指導もあって、とりわけ人気が高かったようです。

富岡製糸場

ご存知の通り、世界文化遺産に登録された日本近代工業の華ですが、明治5年にできています。明治5年と言えば鉄道開通など日本の夜明けと言われる年ですが、フランス人技師を招いて蒸気機関を備えた近代的工場ができました。しかし、創業当時は「工場に行くと夷人に生き血を吸われる」などという評判が立ち、従業員(女工)を集めるのに苦労したと言います。そんなこともあって、当初は殆どが武家の子女でした。ある程度の教育のある人たちでしたから、機械操作や技術の習得も早く、後に全国に散って繊維工業の指導者として活躍しています。

ただ、経営的にはなかなか採算が合わず、国庫の負担になっていたようです。従って西南戦争で政府の金が無くなると売りに出されますが、なかなか買い手がつかず、明治20年代まで官営が続きました。その後、三井、片倉と経営が変わっていきます。

養蚕

蚕は虫です。蚕蛾という蛾の仲間の幼虫です。専ら桑の葉を食べます。

ですから養蚕とは虫を飼うわけで、それも成虫ではなく幼虫です。ですから毛虫同様のウジ虫ですよね。毛虫のように刺したりしませんから手で触っても何の害もありませんが、都会育ちの皆さんから見れば気持ち悪いでしょうね。養蚕農家ではこれが何万匹と育ち、家中を占拠しています。「お蚕様」という通り、お金を生む虫ですから養蚕農家にとっては神様のようなものです。

養蚕にとって大切なことは、先ずは蚕種です。病気に強い良質な卵から孵ったばかりの幼虫を農家に配ります。1mmほどの大きさですね。これを大人の指程度になるまで育てます。蚕の食料は桑の葉ですが、小さなときは桑の葉を刻んで与え、次いで葉だけを与え、大きくなれば桑の枝ごと与えます。何万匹もが一斉に葉を食いますからサワサワ、サワサワと耳障りなほどの音をたてます。繭を作る前になれば驚くほどの食欲で、見る見るうちに枝だけ残して葉が消えていきます。桑畑は概して家から離れた山の傾斜地などにありますから、桑の枝を切り取って家まで運ぶのが重労働でしたね。一家総出、暑い夏の作業ですから早朝と夕方の作業でした。

それよりも辛いのが、蚕のいる間は殺虫剤も蚊取り線香も使えないことでした。殺虫剤など使ったら蚕も死にますからねぇ。蚊には刺され放題、蝿は蝿取り紙と蝿たたきで退治するしかありません。お陰様で(?)虫刺されの免疫は随分と形成されたらしく、刺されてもすぐ治る身体になりました。6月から9月まで年に4回育てましたが、明治期は2回だけだったようです。

今回のドラマでは糸繰の女たちの場面はありますが、養蚕農家の姿は出てきませんね。撮影が大変だからでしょうが、蚕が繭になるまでの農民の苦労がわかればその後の暴動などの背景が理解しやすくなります。