どうなる家康 第37回 関東始末

作 文聞亭笑一

どうやら北条攻めが始まる雰囲気になってきました。

関八州の盟主と言われた北条家ですが、「鎌倉殿の13人」で描かれた北条家とは、縁もゆかりもありません。

それもあって「後北条」とも呼ばれます。

後北条と関八州

後北条・・・創業の初代は北条早雲ですが・・・伊勢新九郎が本名のようですね。

伊勢家は足利幕府の「取り次ぎ」で、将軍秘書といった役割の家柄でした。

新九郎はその伊勢家の傍流で、妹が駿河の今川家に嫁入りするのに従って、駿河に流れてきました。

・・・が、抜群の政治感覚と経済感覚の持ち主ですから、今川家の中でその実力を発揮し始めます。

今川家の家督争いを収拾し、駿河から伊豆に向かう方面の軍司令官になります。

静岡県と言えば今では浜松から三島・熱海までを含みます。

三国が海岸に沿って連なる地形です。

今川家の版図は駿河と遠江の一部でしたが、新九郎(早雲)は国境の黄瀬川を越えて沼津、三島へと進出し、伊豆の中心部を奪います。

その功績と実力で今川家から独立したような権限をもらいます。

今川家の旧勢力からすれば「余所者を、子会社のトップにして伊豆国の簒奪に追い出した」という感覚でしたが、早雲にとっては今川の束縛を離れるチャンスでした。

ここで、早雲が採った経済政策が後北条(早雲家)の大躍進の原動力になります。

早雲は自分の支配下の土地に大減税をやります。

奈良朝以来、この国の税制は「5公5民」が基本です。

ところが早雲は支配地に「4公6民」をやってしまいます。

2割減税ですよね。当時の民衆の9割は農民ですから・・・大喜びです。

「今までの領主様だと5割取られるが、早雲様なら4割」

この評判は伊豆から相模へと広がり、早雲歓迎の雰囲気が醸し出されていきます。

旧主への恩義、倫理的建前と経済的利益・・・さて、どちらを選ぶか。

当然・・・後者に流れます。

かくして早雲は伊豆の国を戦わずして蚕食していきます。

住民が勝手に・・・靡いてきます。

早雲のこのやり方は支配地が拡大していく成長期には有効ですが、成長が止まると破綻します。

北条五代のうち3代目までは成長(領土拡大)経済でしたが、4代・氏政の頃から成長が鈍化し、5代・氏直の時期にはマイナス成長に陥っていました。

税制も・・・氏政からは5公5民に戻りましたね。

そうしないと財政が回らないのです。

さて、北条家の版図を「関八州」と言いますが、4代・氏政の最盛期の領国はそれほどでもありません。

「国」単位で押さえていたのは伊豆、相模、武蔵、上総、下総、安房、の六カ国で、上野は武田、上杉との争奪戦、下野は佐野、宇都宮、結城などの地方勢力が服従しません。

さらに、常陸(茨城県)は佐竹家が頑張り、下野の勢力と結んで徹底抗戦してきます。

ですから<関八州=関東7県全域>と思うのは間違いで、関東南部政権というのが後北条の実力でした。

政権の本拠地も悪かったですね。

小田原では臨海部の地域しかフォローできません。

初代・早雲の優れた政策で成長経済を発展させてきた小田原後北条でしたが、氏政以後は

「小田原の暦は 世間に一年遅れている」と言われるほどにご時世から遠ざかり、中央の動きに無関心だったのが滅亡に繋がってしまいました。

なぜ北条は潰されたのか?

秀吉は全国制覇に向けて日本中の有力大名達を懐柔、あるいは征伐してきました。

懐柔されたのが毛利、そして上杉、さらには徳川

そして征伐されたのが四国の長宗我部と九州の島津ですが、どちらも潰されてはいません。

降伏を受理されて長宗我部には土佐一国、島津には薩摩、大隅の二国が安堵されました。

それに引き替え・・・北条への処分は厳しいですね。

お家取潰し、何も残りません。

なぜか?

幾つかの説があります。

① 降伏のタイミングが遅すぎた

 長宗我部も、島津も、本国に攻め込まれる前に降参しています。

それに引き替え、北条は本拠の相模も落とされ、小田原に籠城して・・・降伏

・・・忍、八王子(いずれも武蔵)が陥落したところで降参すれば、どうだったのか?

② 北条は家康や上杉との関係がきな臭い、さらに伊達とも・・・

 長宗我部や島津は他の勢力との同盟などがなかった。単独敵国

 小田原北条は徳川、上杉とは密接な関係を築いてきた。背後の伊達とも怪しい。

 外交能力の高さが・・・疑心暗鬼を招き、取潰された。

③ 税制で勝手なことをした(朝廷を軽んじる)

 5公5民は奈良朝以来の「天子様が決めた法」であるのに、勝手に税率を変更した。

 それによって、関東からの朝廷や寺社の税収が痩せてしまった。

公家達の北条嫌い

 関東独立王国的な態度で、朝廷をないがしろにしている・・・ケシカラン

連れション人事

小田原城攻略のために、秀吉は石垣山に一夜で城を築いた・・・と言うことになっていますが・・・、

一夜で城が築けるはずがないのは当然で、建設に80日掛っています。

それでも早いですよね。

その石垣山から小田原城を見下ろし、秀吉と家康が立ち小便をしながら「家康よ、関東に行ってくれ」と転勤命令をしたと言うことになっていますが・・・、ウソですね(笑)

秀吉の全国統治の構想は

京、大阪を中心に、中央部の近畿・東海は秀吉の直轄として管理する

   備後より西、九州・四国は毛利に任せて管理させる

関東より東は徳川に任せて管理させる。

北国は前田、上杉に任せる

この構想は北条攻めの前から当事者(毛利、徳川)にはリークされていたようで、そのことをどう部下に伝えるか、悩んでいた家康が「突然言われた」とカモフラージュしたのか、後世の戯作者が面白おかしく脚色したのか・・・

いずれにせよ「連れション人事」は小説・物語です。

一説に依れば、秀吉が関東移転を最初に打診したのは織田信雄で、信雄があっさり断ったが為に改易されたとも言います。

しかし、信雄が請けていたら・・・どうなったでしょうか。

ともかく・・・関東移転は徳川家にとって大事件です。

現代の転勤も・・・同じですね。

ましてや最近は海外への転勤とても当たり前ですからね。

家臣団の家族、使用人を含めた大移動です。武士を辞める者も多数出ます。

余談ですが・・・

私の住む辺りでは「大河ドラマに太田道灌を!」という運動が、コロナ前から始まっています。

太田道灌・・・戦国前期の英雄で、関東平野を縦横無尽に駆け回り、「三十余戦して負けることなし」と言われた名将・軍略家です。

道灌亡き後、関東を制覇した後北条の祖・北条早雲も

「道灌の目の黒いうちは関東に手出しできぬ」と嘆いたとか・・・。

それもあって、道灌暗殺の黒幕は早雲ではないか・・・とも言われます。

秀吉から「関八州へ・・・」と転勤命令を受けた家康が、選らんだ関東の本拠地は江戸でした。

その江戸には太田道灌の築城した江戸城があり、家康はそれに入ります。

道灌が選び・・・家康が本拠とし・・・明治新政府が宮城とした江戸城

初代は道灌、二代目が家康、そして三代目が明治天皇

太田道灌には・・・そんな関東人のノスタルジックな思いが残ります。

その道灌が江戸城を築いたのは20代前半の若い頃でした。

本拠地を品川周辺(御殿山?高輪?)に置き、上司のいる鎌倉と、敵対する古河公方の勢力との間を行き来する毎日だったでしょう。

道灌が使った道筋は鎌倉街道・下津道

鎌倉から横浜、川崎、そして品川から上総(千葉)常陸(茨城)に続く道、そう、常磐道です。

実は・・・その途中に私の住む日吉村があって、加瀬山があります。

道灌は本拠地を、この加瀬山にしようとしていた・・・という伝承があります。

もし・・・もし、そうだったら・・・東京ではなく日吉がこの国の中心だったかも知れない・・・という妄想が、この地域の人々の深層にあります。

ロマンですねぇ。

残念ながら、そうはなりませんでした。

道灌は鎌倉と品川の行き来に中間にある加瀬山に陣を敷いたり、宿を取ったりすることが多くありました。

「ここに城を築こうか」

多摩丘陵が伸びてきて、東京湾に突き出した末端

軍事的には良い位置です。

武蔵と相模とを両睨みできます。

北には多摩川、南に鶴見川・・・大河が防衛戦、東は海・・・江戸前の海が広がります。

ここに本城を築き、西の日吉山(現在の慶応の山)に出城を置けば・・・守りは鉄壁です。

ところが・・・その構想ができた夜に・・・夢を見ます

大きな白鷲が現れ、仮眠していた道灌の兜を掠って南方へと飛び去りました。

それが左の絵です。

縁起が悪い・・・と築城を諦めたという民話が残り、この地を「夢見が﨑」とも呼びます。

毎年、地元の小学校で6年生相手に郷土史講座をやります。

「夢見伝説は道灌が若かった頃の話」と言ってもイメージが湧くまい・・・と描いてみたのが左図です。

来年は中学生がこの物語をミュージカルにします。

爺さんは監修役?いや、観衆です。