水の如く 48 大博奕

文聞亭笑一

家康の上杉征伐に呼応して、三成が蜂起し大阪に陣取ります。三成が大阪城で蜂起したのは「玉を奪う」という戦略で、正義の旗を立てる目的でした。確かに、家康以下の東征軍は「秀頼の命令」で動いています。秀頼が西軍の総帥となれば、西軍は正義の軍、政府軍となり、これに立ち向かう徳川以下の東軍は賊軍となります。

そうさせなかった、そうならなかったのは「部下同士の争い(私闘)とさせて、豊臣家は参加せず」という片桐且元の進言と、淀君が秀頼を戦に巻き込ませたくないという親心からでしょう。結果的に、これが家康を利することになりますが、西軍にも、秀頼側近にも、そこまでの読みができる者はいなかったのではないでしょうか。

戦略的に、三成の行動は当を得ています。大阪城に入っていますから、形の上では正規軍、政府軍に見えます。しかも、五大老のうち上杉、毛利、宇喜多の3人、五奉行のうち石田、増田、長束、前田玄以の4人は西軍に組織できました。対する家康方の東軍は…、大老が1、奉行が1(浅野)でしかありません。

ただ、西軍の最大の弱点は、大軍を率いる将帥の欠如でした。形の上で毛利輝元を立てますが、彼に軍事、政治の才能があるわけではありません。さらに、増田長盛、前田玄以のような二股膏薬の日和見族を抱えます。事実、増田は事あるごとに、西軍の動きを家康に通報しています。嫌々参加の島津、長曾我部も、ましてや毛利や宇喜多などの大老は、格下の石田三成の配下で働くのは面白くありません。

一方の東軍。先週号で触れたように、着々と内部を固めていきます。徳川家からの工作ではなく、秀吉の懐刀であった官兵衛の息子・長政、秀吉の弟・秀長の筆頭家老であった藤堂高虎、この二人が秀吉恩顧の大名たちの結束のための工作をしますから、説得力は抜群です。この二人、政治家として有能なうえに家康の天下に賭けていますから、実に活発に動き回ります。長政は西軍の小早川秀秋にまで調略の手を伸ばします。

黒田長政・・・テレビドラマでは線が細く、未熟者に見えますが、それは官兵衛の物差しで測った見方で、実際は官兵衛の若い頃同様に、強か(したたか)な軍略家なのです。

189、如水は貝原市兵衛に金を用意させる一方で、領内に高札を立てた。
「我こそはと腕に自信のある者、功名を立て世に出たい者、銭を稼ぎたい者は、 ことごとく中津城に来れ」
これに応じた者たちが、続々と中津城に集まった。その数9000余り。

三成の蜂起、家康の反転攻勢を知った如水は直ちに行動を起します。家康が三成の動きを待っていたように、如水もまた、待っていました。

しかし、手元の兵力は僅か千人、留守部隊です。

「金はこういう時にこそ使う物だ」というのが、目薬屋からのし上がってきた黒田家の伝統です。倹約し、倹約し貯め込んだ金銀銭を一気に放出して、兵を募ります。秀吉の九州征伐に敗れた者、肥後や豊前で乱を起して浪人した者、大友家の改易で職を失った者、百姓の2,3男坊…門前市をなすほど集まりました。如水は惜しげもなく彼らに金を与え、軍勢を編成していきます。急ごしらえの軍勢ですが、この軍隊が威力を発揮したのは人物の目利きの確かさだったでしょう。将官クラスは如水、井上九郎右衛門が面接し、兵卒の目利きは貝原、杉原一茶が担当します。

現在の企業では、採用を学歴や人事担当だけの面接で済ませますが、幹部候補生の面接や、管理職昇進面接は経営者自らが行わなくてはいけませんね。「企業はヒトなり」と言いながら、そこのところをおざなりにしていると…大企業病の病原菌が広がります。

派遣社員、アルバイトでも、優秀な人材は正社員化する柔軟性が求められます。

ちなみに貝原市兵衛…日本初の健康本「養生訓」を書いた貝原益軒の祖父です。

190、上方で決戦が行われている隙に、わしは鎮西を平定する。
徳川と石田に与する者は、それぞれ拮抗している。兵数も同等だ。合戦の経験において徳川が勝るが、石田にはわしが築いた難攻不落の大阪城がある。
この戦、少なく見積もって半年、状況次第で2年、3年。
我らは鎮西を平定した後、隙を見て天下を伺う」

この頃です。官兵衛の密書を持った者たちが全国に散っていきます。心ならず西軍にいる吉川へ、加賀の前田へ、下野(栃木)で留守居をする結城秀康へ、そして奥州伊達へ…。

ここに引用した部分が如水の基本戦略です。西軍は決戦に敗れても、大阪城に立て籠もる…というのが「当たり前」だからです。

「隙を見て…」というのは、「吉川、前田、結城、伊達が如水の軍略に乗るかどうか」を見極めてという意味でしょう。如水の挙兵を知って、家康もそのことを読んでいたようですが、まさか自分の息子・結城秀康にまで手が回っているとは思わなかったようです。

如水は、家康の次男である秀康が、三男の秀忠に世継ぎの座を奪われたことに不平不満を持っていることを察知していました。また、西軍との決戦に外されて、上杉封じの留守番にされたことにも大不満でした。如水戦略の要は、結城秀康ではなかったでしょうか。

191、善助は夜を待ち、屋敷の裏手の湯殿に穴をあけ、そこから光(てる)と栄姫を脱出させた。
更に、二人を俵に詰め、太兵衛が天秤棒で担いで、黒田家出入りの商家に逃がした。
その後、茶箱に詰めて大阪港から船で脱出したが、その途中で大阪の町を真っ赤に焦がす炎と煙を見た。細川家の大阪屋敷が炎上する炎だ。

大阪に入った三成は、東軍参加大名の家族を人質に取る手を打ちます。これは当然の策で、敵の戦意をくじき、場合によっては裏切りを誘う切り札になります。また、腰の据わっていない西軍大名を、叱咤激励するための道具にもなります。

ところが、これを担当したのが増田長盛の兵でした。算盤一つで大和10万石に収まった男ですから、修羅場のことに疎いのです。「女子供相手の仕事だから」と軽く考えた三成も、その意味ではうかつでしたね。

人質というのは、主人が敵方にまわったら、殺される運命にあります。戦国の世では至極当然のことで、誰でも知っています。「どうせ殺されるのなら…逃げる」と、わずかな可能性に賭けて脱出を試みます。または、死を選びます。死を選んだのが…、細川ガラシャでした。

黒田家、当然、真っ先に狙われます。如水が西軍に参加することは全く考えられませんし、息子の長政は東軍の調略担当ですから、憎むべき仇敵です。決戦にあたっての血祭りに挙げたいほどだったでしょうね。戦慣れした島左近か、小西行長などを差し向けるべきところだったでしょうが…増田に対して遠慮しました。

更に、ガラシャの死に怖気づいて、人質作戦を辞めてしまいます。最初の失策です。

それにしても、自分の懐刀である智慧の善助と、怪力の母里太兵衛を大阪に残した如水の人使いの巧さには感心します。人質を取られず、かつ、二人が九州攻略戦に参加できるのですから、鬼に金棒と言ったところです。如水軍に3人の将帥が揃いました。

192、9月9日、如水率いる黒田軍は中津城を出陣し、豊後に向かった。手には竹中半兵衛が愛用していた軍配と采配が握られている。まずは半兵衛のいとこ、竹中重隆の豊後高田城に向かう。重隆は、心ならずも三成の西軍に引き込まれていた。

ちなみに・・・関ヶ原の合戦が行われるのは9月15日です。

竹中重隆は隣国ということもあって、如水を師と仰ぎ、事を挙げたら協力する約束をしていたのですが、家康の東軍に参加すべく大阪港に着いた時は三成の挙兵の後でした。

やむなく…西軍に組み込まれてしまいます。人質も取られてしまいました。

こういうケースに陥ったのが島津義久をはじめとする西国大名です。長曾我部などもそうですね。阿波の蜂須賀は出発が遅れたのが幸いし、関が原には参加していません。

如水軍は竹中重隆の留守番に参加を呼びかけますが、城代家老は応じません。

ならばと、9千の軍勢で攻撃を始めます。これに驚いて、家老はしぶしぶ従軍してきます。動くたびに軍勢が増えていく。それが、如水の九州平定軍です。

続いて如水は三成から「お家再興」を餌にされて立ちあがった大友家の軍を襲います。

が、これは手ごわい。失う物がない兵ですから、必死の兵です。石垣原の決戦といわれる大激戦になりました。

多大な犠牲を払いつつもこの決戦に勝利し、大友吉統を降伏させた日が…9月15日です。

奇(く)しくも、その日、その時刻、美濃関ヶ原では、深い霧の中で東西両軍が霧の晴れるのを待っていました。長政の黒田軍は、細川忠興と共に、石田軍の前面に立っています。