次郎坊伝 48 上洛と本能寺の変

文聞亭笑一

前回の物語では一気に天正10年(1582)に飛びました。

次郎坊の物語はいよいよクライマックス、終章に向かいます。

安土城への招待、酒井見物中に起きた本能寺の変、そして家康主従の必死の伊賀越え、さらに空き巣になった甲斐、信濃奪取へと展開するようです。この年に次郎法師・直虎も死にますから、最終回は直虎の死、直政の元服といった流れでしょう。直政は直虎に遠慮して、直虎が死ぬまで元服しなかったといいます。井伊の当主は直虎・・・を、言い張ったと言われています。

武田領仕置きと信長の凱旋

前回の後半で旧武田領の家臣への分配の場面をやっておりました。甲斐は川尻秀政に、信濃は森長可(ながよし)に、上州は滝川一益に・・・などとザザッと描写しておりました。詳しく言えば

●信濃北四郡(水内、高井、更科、埴科)が森長可に与えられます。

武田の参謀、高坂弾正が治めていた松代城の管轄地域で、川中島を中心とする地域です。

●信濃中西部(筑摩、安曇、木曽)は寝返った木曽義昌に与えられます。

●東信濃は滝川一益、南信濃は織田信忠や信長直臣の所領に分割されます。

信長の凱旋の旅は、来た道(東山道)を通らず、甲斐から駿河に出て東海道を進みます。家康がもらったばかりの駿河、遠江、三河、尾張へと進みますから、接待が大変です。気難しさでは他に類を見ないほどの我侭者の信長ですから、家康家臣団の気苦労は半端ではなかったでしょう。気分を害したら何を言いだすかわからない、一種の異常者ですからねぇ。

浜松城では城を明け渡し、信長軍を迎えたといいます。戦国大名が「城明け渡し」をするというのは、無条件降伏と同義です。駿河をもらったお礼というよりは、完全服従、信長の臣下になる…というほどの意味合いです。

信長も瀬名と信康を殺したという心のわだかまりがあったでしょうが、この対応には安心し、満足したでしょうね。家康の古株の家臣の中には「やり過ぎ」と不満を云う者もあったようですが、家康としては一世一代の演技だったと思います。ともかく、気分を害したら何をやるかわからぬ狂人です。「何事もなく領内を通過してくれ」と、そればかり願っていたと思います。家康の幕僚たちも同様だったでしょうね。信長というのは動く凶器です。

現代では「AI搭載の武器」の怖さが話題になっていますが、信長というのはそれに近い危険物でした。

本能寺の変

ここで述べる必要がないほど、様々な人が、様々な想像をしております。先日、欧州に旅行した際に、飛行機の中で「本能寺ホテル」という映画を見ました。ドラえもんの「どこでもドア」みたいな発想で、結構楽しめましたね。

本能寺の変に関して、色々な人が、色々な物語を創作する理由は「信長」という人物の、心の奥が見えないからでしょう。いわゆる常識人ではないからです。歴史上の色々な人に当てはめて考えてみても類似する人物がいません。独裁者・・・と規定しても、ナポレオンとも違う、ヒトラーとも違う、ネロとも違う…。

ともかく、謀反を起こした光秀にしても、被害者として逃げ回った家康にしても、そしてまた漁夫の利を得た秀吉にしても、信長の発想を読めなかったことに変わりはありません。現代ではこういうタイプの人を「宇宙人」などと呼びますが、わからないものはわかりません。

ただ一つ、信長のやったことで共通することは、権威に対する破壊です。「この国の元首は天皇である」という常識を無視します。というより破壊しています。現天皇を退位させ、息子の天皇を安土城下に住まわせようとしています。「自分は天皇より大きな権威を持つ」というアピールです。宗教の代表である仏教を徹底的に破壊します。比叡山の焼き討ち、長島一揆の鎮圧、本願寺への執拗な攻撃・・・皆殺し。キリスト教に寛容だったように描く小説が多いですが、これは便宜に過ぎません。新知識や新技術の導入のための方便でした。いずれは長島一向一揆と同じ運命を辿ったでしょう。

信長の周囲にいた人たちを動かしていたのは恐怖感でしょうね。「明日はわが身か」と四六時中恐れおののいていたら気がおかしくなります。その意味で明智光秀などは大した人物だと思いますね。前線指揮官として逃げだした秀吉や柴田勝家とは違って、必死で耐えていたのでしょう。

光秀の謀反計画が杜撰(ずさん)だったのは、衝動的要素が強かったからでしょうね。準備などしている暇がありませんでした。「俺がやらねば誰がやる。命令通り山陰に行ってしまえば、暴君を停める者はおらぬ。今しかない。やるっきゃない」

伊賀越え

家康にとって人生最大のピンチと言われるのが本能寺の変でした。そして逃避行です。

信長の凱旋行軍は無事に終わりました。その答礼と、完成した安土城への招待が来ます。家康としては行きたくない旅ですが、浜松城で絶対服従を演技したばかりですし、断る理由もありません。唯一、断る理由として残っていた小田原北条も、滝川軍の上州侵略で兵を北に向けています。駿河に攻め込む可能性は全くといっていいほど、ありません。

安土での接待は何事もなく、信長も上機嫌のうちに終了します。

この接待役を任されたのが明智光秀で、徳川一行が安土に着く前から、細々とした打ち合わせがあります。今回は、そういう接触の中で家康に謀反を働きかけた・・・という想定をするようですが、この間の事情は全く記録がありません。証人すらいません。

本能寺の変は、家康一行の堺見学中に起きます。家康一行の堺見物は一種の修学旅行のようなものですから、武器や武具なども用意していません。明智方兵士に見つかったら、とても逃げきれません。謀反の仲間になるか、斬られるかだけです。

堺から浜松に逃げ帰る道筋は幾つかあります。真っ先に思い浮かぶのは海路、堺ですから外国航路に耐えられる大型船があったでしょうが、万が一、船主に裏切られたら船ごと明智軍に護送されてしまいます。逃げ場の自由度全くありません。

家康が選んだのは伊賀越えでした。しかし、奈良盆地を通るわけにはいきません。ここには筒井順慶がいて、順慶は光秀の縁戚です。生駒の山中を隠密で通り抜けるしかありませんね。道案内がなくては道に迷って、とても逃げきれるものではありません。

ここらで次郎法師の元カレ・龍雲丸など登場させるのでしょうか。龍雲丸は次郎法師と別れて後は、堺で商人をしているはずです。井伊万千代を活躍させるにはその手でしょうかねぇ。

伊賀の忍者・服部半蔵、京の商人・茶屋四郎五郎・・・小説には数多の登場人物が出てきます。

その意味で、今回の脚本家・森下佳子さんの想定が楽しみです。