紫が光る 第43回 三条対道長
作 文聞亭笑一
先週号の後半は走りすぎました。
妍子出産以降は今週または来週のネタでしょうか・・・?
ともかく・・・三条天皇と道長の関係は「相性が悪い」というのか、「馬が合わぬ」というのか、どこかぎくしゃくしていますし、妍子の産んだのが内親王だったと云うことと相まって、関係が悪くなります。
道長と三条
道長にとって三条天皇は姉の子・従弟になります。
先帝・一条も姉の子ですから同じ従弟なのですが、三条の方は祖父の兼家(道長の父)に似た性格で、声も似ていたようです。
だから、なんとなく父親の強引さまで受け継いでいるのではないかと警戒してしまう・・・そういう先入観を抱いていたのではないか?
また、先天的に緑内障を患っていたらしく焦点の合わぬような目で睨まれるのが薄気味悪かったのではないか? ・・・と推測しているのが永井路子の「この世をば」です。
緑内障なら進行性ですから、徐々に視野が狭くなり、視力が落ちます。
三条の、見えているか、いないのかわからぬような黒目がちの瞳を見ると思わずぞっとする
三条の父・冷泉天皇は先天的に「狂疾」があったようで、わずか2年で退位させられて、弟の円融天皇に譲位させられています。
そういうマイナス遺伝子があったのでしょうか?
冷泉帝は譲位後に上皇となってからも健在で40年以上長生きし、息子の三条が皇位に着くのを見届けて世を去りました。
この亡くなったタイミングもいろいろな憶測を呼んで、道長と三条の関係に影を落とします。
内裏の失火事件
中宮の妍子が出産のため実家に戻っている間に、三条は道長以下公卿達の反対を押し切って立后した皇后・娍子を内裏に移します。
親王、内親王など子どもたちも一緒ですから大家族ですね。
なんとなく「正妻は娍子だ」というデモンストレーションでもありました。
しかし、これが三条にとっては裏目に出ます。
登華殿から出火した火が内裏全体に燃え広がり大火事になってしまいました。
さらに、悪いことに消火を口実に内裏に乱入した民衆が火事場泥棒を働こうとして火に包まれ、焼死してしまいます。
どうやら盗もうとしたのは豪華な彫刻のある柱だったようで、この柱を引き倒して盗み出そうとしたところへ、大屋根が落ちてきて圧死、更に火に焼かれるという惨事だったようです。
火事場泥棒達の自業自得の死亡事件ですが、内裏で火災を起こし、死人を出した・・・つまり内裏を穢した責任が三条天皇にかけられます。
穢れ・・・当時の人々が最も嫌うことでした。
「天皇自らが内裏を穢すとは・・・」
こういった批判が下々にまで巻き起こり「天皇退位論」さえ出てきました。
まぁ、政権党の裏金事件のようなものでしょうか。
天皇と公卿達だけの政権闘争に、一般人まで「評判」という圧力をかけてきます
。この時代にマスコミはありませんが、「落書(怪文書)」「落首(戯れ歌)」などが市中にも出回ります。
道長病悩の折に噂を立てられて迷惑した道綱などはその仕返しでしょうか。
「三条責任論」を殿中で公言します。
譲位への闘争
大納言・道綱をはじめとする公卿達の譲位要求は、真綿で首を絞めるかのように三条天皇を締め付けてきます。
失火事件ばかりでなく、小さな失政も「評判」の材料になります。
更に拙いことに内裏が焼けてしまった後の避難場所は中宮・妍子の実家・・・つまり道長の屋敷しかありません。
皇太后・彰子の住んでいた屋敷を空けて、仮御所にしました。
道長と対立している三条天皇にしてみれば、敵地?のような感覚でしょう。
道長の監視下のようで気分が落ち着きません。
さらに、道長は蔵人頭(侍従長)に兄の兼綱を要求してきます。
三条はこれを拒否して実資の養子・資平を要求します。
まずは三条が折れて兼綱を、翌年に資平を・・・結局は双方ともに蔵人頭にせざるを得ません。
これに対して道長も息子の頼宗、能信の官位昇進を要求します。一進一退ですね。
この闘争に右大臣・顕光も絡んできました。
三条の第一皇子・敦明に男子が生まれます。
その母親が顕光の娘・延子なのです。
皇位継承ルールからすると「次の次の、次の次」気の遠くなるような先の話ですが、右大臣・顕光は政権への夢を持ち始めました。
兎も角も・・・二人の綱引きが続きます。
そうこうしているうちに三条天皇はますます視力が落ち、片耳が聞こえなくなります。
道長の方も自邸で転んで腰を打ち、身動きできなくなります。泥仕合の因果でしょうか?
さらに三条は道長の息子・頼道と自らの姫・内親王との結婚を提案してきます。
更に、更に、目が見えないからと「道長を自分の准摂政に」と提案してきます。
次々と延命策を図る天皇と、権威に逆らえない実力者との陰湿な駆け引きです。
このあたりをテレビではどう描きますかねぇ。
戦前の皇国史観で云えば道長は大悪人ですね。
天皇の言うことを聞かず譲位を迫る「悪逆非道な臣下」となりますから、後の「吾が世をば・・・」の歌も驕り高ぶった傲慢至極な歌・・・となります。
一方で、自己保身のために手練手管を弄して座に居座ろうとする帝王・・・。
こちらもローマのネロ王と同様に暴君でもあります。
日本の政治の歴史の中で「天皇親政」の時代が幾つかありますが、その都度世は乱れました。
象徴天皇である方が平和な時代が多いというのも歴史の教訓ではあります。
平安時代の後期・院政という形で天皇親政がありました。
建武の中興と言われた時代も親政でした。
明治から軍部が活躍した昭和までも親政でした。どれも良い時代とは言えません。
三条の最後っ屁
道長との綱引きの間にも三条の視力は低下し続けます。
ほぼ全盲に近くなります。
耳も片耳は聴力がゼロで、もう一方も遠くなります。
が・・・最後の最後まで粘ります。
それは・・・ある意味で敬服に値します。
後の武士道とは正反対の「粘り強さ・諦めない精神」ですね。
「皇太子は息子の敦明に」これが譲位の最後の条件です。
道長も、これは呑まざるを得ません。
彼も、公卿達も、三条の粘りに辟易としていました。
今週も先走り・・・しすぎのような気がします。